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天地神明のトランス  作者: 青海 原
第一章 継承
4/5

3.初喧嘩

 走っていた。

 とにかく、無我夢中で走っていた。

 息が上がる。身体が喘ぐように酸素を求める。肺が肺としての機能を失ってしまったのではと錯覚するほどの苦しさが、走らなくてはならないレンの意志を折ろうとしていた。

 しかし遅れるわけにはいかない。何としても間に合わせなくてはならない。

 なぜなら今日は新学期が始まるから。

 そして新学期の始まりと共に、レンには果たさなくてはならない約束があったから。


「だから、昨日早く起きろって言っただろ!」


「これでもっ、頑張ったん、だよぉ〜っ!」


 後ろで一緒にマラソンするのは幼馴染のナノハ。天性の遅刻魔で、レン調べでは遅刻に関して彼女の右に出る者はいないとされている。レンがいなければ、彼女は五時限目になってようやく姿を現すだろう。

 ナノハは寝癖を整える時間のなかった髪の毛を後ろで縛り、シャツのボタンを掛け違えている制服姿で、左右の靴下も丈が異なる凄まじいコーディネートで走っていた。正直このような変人と一緒にいたくはない。

 しかしこんなめちゃくちゃな様相をした少女でも、頭にナノハの顔がくっついているだけで『可愛い』となってしまうのがこの世界の不条理であるとレンは考えていた。


「明日は頼むから起きてくれって、あれほど言ったじゃんかよ!」


「七分早く起きたもん! 頑張ったもん!」


「誤差じゃねえか! ふざけんな!」


「ふざけてないもん〜!」


 ふざけているナノハを無視して、レンは腕時計を見る。針が刺すのは八時十三分。既に当初予定していた待ち合わせの時間に三分遅れている。

 だがこのペースならば、あと二分で待ち合わせ場所に辿り着ける目算だった。


「あ〜っ!」


「なんだ!? どうした!?」


「私ボタン掛け違えてるぅ、直さなくちゃ」


「今!?」


 通学路のど真ん中でシャツのボタンを一度全部外そうとする天然幼馴染の手を掴んで阻止。待ち合わせに間に合わなくなるとか以前に年頃の女の子に許して良い行動ではない。諦めて学校に着いてからやりなさい。


「あ〜っ!」


「今度はなんだ!?」


「ソックス左右で間違えちゃったぁ、履き替えてくるねぇ」


「今更!?」


 片方はショート丈、もう片方はハイソックス。辛うじて色は黒で合っているので、彼女の名誉も考えて惜しいと言っておこう。

 この段階で家に帰ろうとする間抜けの首根っこを掴み、無理やり登校しようとする。


「やだぁ〜、恥ずかしいよぉ!」


 恥ずかしいのは高校生にもなってこんなみっともない幼馴染と登校しなければならないレンの方である。というか、自分が恥ずかしい姿で登校していたことに気付くのが遅すぎる。

 そんなこんなでわちゃわちゃとしているうちに、時計を見れば八時十五分を過ぎようとしていた。

 終わった、という思いがレンの脳内を巡る。約束の時間に間に合わなかったレンのことを、あの子はまだ待っていてくれるだろうか。

 そう思った時。


「なんだか、朝からすごい賑やかなんだね」


 その子は、路地の裏からひょっこりと現れた。

 何ということはない、後ろで幼馴染も着ている制服。茶色っぽい髪は梳かして整えてあり、目尻の垂れた優しそうな瞳は、レンが約束に間に合わなかったことを少しも責めていなかった。

 彼女はハマサジ。学年一の美少女で、勉強もスポーツも万能。裏では妖怪と戦う巫術師として活動する、レンの新しい友達だった。

 当然ながら彼女は寝癖も整えてあるし、制服も着崩していなければ、紺色のハイソックスは左右同じものだ。なんなら、待ち合わせに遅れているレンの元へわざわざ来てくれた。

 レンは涙した。それは手のかかる幼馴染ナノハに十年以上も連れ添ってきた者の流す、悲しみの涙であった。


「ええっ!? どうしたの、何で泣いてるの!?」


「どうして人と人はこんなにも違うんだろうと思ってな……」


「そりゃあレンくんも有名なハマサジちゃんみたいに頭良くてスポーツ万能になりたいよねぇ」


「そういう涙じゃねえよ!」


 頓珍漢な相槌を打つ幼馴染にツッコミを入れたあとで、レンはばつが悪そうに前髪に触れた。


「あー、その、なんだ。遅れてごめんけど、おはよう」


「あはは、おはよ。この子が前に言ってたナノハちゃん?」


「あ、そうそう。こんな間抜けを紹介してごめんな」


「どうも、レンくんのお世話係のナノハです! 初めまして! お噂はかねがね伺っております!」


「こういうヤツなんで、冷めた目で見下してやってくれ」


「温かい目じゃなくてぇ!?」


 謎に敬礼するナノハを軽蔑する。ハマサジの友達を増やすにあたって、まずは同性の友達から作るのが良いだろうと踏んで自分の幼馴染を頼ったのが失敗だった。

 しかしハマサジはあろうことかノリノリで敬礼を返した。


「春からレンくんの新しい友達になったハマサジです! これからは二人でレンくんのお世話を頑張りましょう!」


「え、アホって感染うつるんだ」


 そうして新学期は始まる。

 レンがハマサジに感じて欲しかったもの。普通の生活。それは、こういった何気ない日常のことだった。

 奇跡的に同じクラスになったレンたちは、ナノハ、ヤナギ、ネジキにハマサジを加えたグループとして集まるようになり、遊びに行くことも増えた。

 カラオケに行ったり、ボーリングに行ったり、山に登ったり、スポーツをしたり、ファミレスでご飯を食べたり、テスト勉強を集まって行ったり。

 今までハマサジができなかったことをさせてあげたかった。

 才能を持て囃されたり、巫術師としての活動のせいで奪われていた彼女の青春。二度とない大切な時間を感じて欲しかった。

 ハマサジは笑うことが増えた、と思う。

 どことなく悲しげな、誰と話す時も一歩身を引いたような表情は影を潜めて、以前よりも明るくなったような気がする。

 それはレンの勘違いかもしれない。思い上がりなのかもしれない。

 本当は、付き合いで笑ってくれているだけなのかもしれない。だけど。


「ねえ、レンくん」


「ん、どしたの」


 みんなで遊んだ時の帰り際、時々ハマサジはレンを呼び止めることがあった。


「本当にありがとね」


 その時の彼女の言葉が嘘であってほしくないと思うのは、果たして傲慢だろうか。



 しかしゴールデンウィークを過ぎた頃、ハマサジの表情は曇ることが増えた。

 それはある種彼女にとっての『本業』とも呼ぶべき巫術師としての活動が忙しくなったからだった。

 みんなで遊んでいる時も途中で抜けたり、そもそも遊べなかったりする。そのことが段々、ハマサジにとってレンたちとの間に距離を生むこととなっていた。

 レンたちは付き合いが悪いからと除け者にするようなメンツではない。集まる時はいつだって誘うようにしていた。

 しかしそれを、レン以外には説明のできない理由で断らなくてはならない彼女の心情は言葉にするまでもない。

 このままではいけないと思った。

 だからその日、カラオケの途中で机にお金を置き、悲しげに席を立つ彼女の姿を見て我慢ができなくなった。


「みんな、あの……ごめん。今日も、家の手伝いがあって……」


 家の手伝い。それが嘘ではないことを、レンは知っている。


「はっちのお家は忙しんだねぇ、だいじょぶだよぉ〜」


「ナノちゃん、いつもごめんね……」


 ナノハも悪気があったわけではない。しかし今のハマサジには何を言っても慰めにはならない。

 ナノハの言葉は、彼女の罪悪感を増してしまうだけだ。


「いつも言ってるんだけどさ、マジ俺らも全然実家の手伝い付き合うんだぜ? 俺とレンとネジキと男手三人無料サービスなんてめっちゃお得じゃんか!」


「俺、別に手伝うって言ってない」


「おい馬鹿ネジキ!手伝えよ!」


「あはは、ヤナギくんもネジキくんもいつもありがとう。お爺ちゃんにも相談してみるね」


 温かい言葉をかけるみんなに悪気はない。

 だけど彼女の手伝いは、彼らにはできないのだ。男手だとか人数だとかそういう問題ではない。

 彼女の『本業』は一般人には知られてはいけないことだから。

 だから、彼女のことを救えるのは。

 ハマサジの日常と非日常を繋ぐことができるのは。


「レンくん……」


「――――」


「また、明日ね」


 そう言ってカラオケを後にするハマサジ。

 静まり返る部屋。凍った場の空気を盛り上げようとしてナノハが深呼吸した瞬間、それを遮るようにしてレンも机にお金を置いた。


「俺、ちょっとやることができた」


 その突然の行動に驚く者はいない。レンがとっくに我慢の限界だったのは、誰しもが気付いていた。

 だからレンが部屋を出る前にナノハがその手を掴んだのは、確認のためだった。


「レンくん、はっちを責めるわけじゃないんだよね?」


 当然だった。

 ハマサジは何も悪くない。

 悪いのは、彼女の青春を犠牲に『本業』を強いる環境のすべてなのだから。


「俺も、あんな辛そうなハマサジちゃん見てらんねぇじゃんか。お前、何とかしてくれよ」


 ヤナギも縋るように重ねる。

 ネジキも無愛想な表情をしながら、レンの行動を気にしているようだった。

 ハマサジの友達として彼らを選んで良かったと思う。やはり彼らは、心から彼女のことを心配してくれる。

 だからレンは、彼らを安心させるようにひと言だけ残した。


「大丈夫」


 自信があるわけではない。

 一般人でしかないレンに何ができるのかなど、見当もつかない。けれど、今のままではいけないということだけはわかっていて、だからここで動かないわけにはいかないのだ。

 カラオケを出ると、レンはハマサジの姿を追った。



 ハマサジは駅前のロータリーで見知らぬ男と合流していた。側には黒いスポーツバイクと二人乗りするためのヘルメット。

 おそらく、ハマサジの同業なのだろう。

 彼がハマサジを『現場』へと連れていくのだ。


「ハマサジ、本当に行くのか? 俺が代わってやっても……」


「ダメだよ。そんなことしたら、お爺ちゃんになんて言われるかわかんないもん」


「ったく、それは! わかるけどよ……」


 レンにはわからないやり取りを交わす二人。男の方も、どうやらハマサジを妖怪退治に向かわせることに賛成ではないようだった。

 しかしここでも出てくるのは、お爺ちゃんの存在。

 ハマサジのお爺ちゃん。レンも少しは聞いたことがあった。その人が、ハマサジに戦いを強制していることも。

 もしも彼女が、彼女の祖父に無理やり戦わされているのだとしたら――。


「許せるわけ、ないだろ」


 ハマサジはまだ、高校生だ。

 幸せになっても良いんだと、教えてやる。

 レンはずかずかと二人に目掛けて歩いて行った。先にそれに気付いたのは男の方だった。

 彼からすればレンは一般人にしか見えない。聞かれたくない話だとして、すぐに移動しようとハマサジにヘルメットを手渡した。自分もヘルメットを被り、バイクに跨る。

 その急な行動に困惑するハマサジ。わけがわからないながら、渡されたヘルメットを被ろうとしたところでレンは彼女の名を呼んだ。


「ハマサジ」


 彼女はびくっと肩を震わせた。

 少し予感はしていたのだろう。すぐに振り返らないのは、いずれこうなることを想定していたからだ。


「知り合いか?」


 男がハマサジに尋ねる。

 彼女は一瞬躊躇った後、こちらを向かないままヘルメットを被った。


「んーん、知らない人」


 突き放すようなセリフ。

 きっとレンが変な疑いをかけられないように、そうしたのだろう。

 ヘルメットはフルフェイスだった。だからハマサジの表情はわからない。だけど顔が見えなくても、声のトーンと大きさだけで彼女の気持ちは痛いほど伝わってきた。


「ったく。知らねぇやつだったら、そんな泣きそうな声出ねぇだろ。下りろ」


「えっ?」


「今日はやめとけ。仕事は俺が片付けておく。お前はそいつと話してこい」


「でも、おじさん。ダメだよ、私……!」


「良いから」


 そうして男はハマサジをバイクから下ろすと、ヘルメットを取り上げた。


「ったく、知らん間に良い友達が出来たな。それで良いんだよ、お前は」


「――――」


 男は一度こちらを見て、何か安心したように笑うとバイクを走らせて行った。

 残されたのはレンとハマサジの二人。急に、どう声をかけるべきかわからなくなった。

 考えなしに来た。勢いだけでハマサジを追ってきたから、彼女がどういう言葉を求めているのかわからない。

 だから最初に口を開いたのは、ハマサジの方だった。


「どうして、来ちゃったの」


 君が辛そうだったから。

 そう言いたかった。それが本音だから。

 普通になって欲しい。命の恩人に幸せでいて欲しいと思うのは、そんなにおかしいことだろうか。

 だけど軽はずみにそんなことを言って良い雰囲気ではなかった。

 レンはおそらく今、ハマサジの心根の何かを破壊したのだ。

 崖ぎわギリギリのところで踏ん張っていた彼女の背を押すように、心の一線を踏み越えさせてしまった。

 では、弁解するべきなのだろうか。

 それは、違った。

 レンがハマサジに対して思うことは、やはり幸せになって欲しいという一点なのだから。


「ちょっと、その辺を歩こうぜ」


 この鉢姫市は駅前こそ商業施設も多く、映画館やゲームセンターなどの娯楽施設もあるが少し歩けばすぐに住宅街が待っている。

 だから景色はすぐに移り変わり、見慣れたものになった。

 時刻も夕方に向かっており、人通りも減り始める。そんな中をギクシャクした雰囲気で歩くのは、空気が重たかった。


「レンくんは」


 ハマサジは、彼女にしては珍しく怒ったような調子で訊ねる。


「私に、巫術師を辞めて欲しいって思ってるの?」


「それは……」


 違う、とは言い切れない。

 レンとしては彼女に危険が及ぶことすら嫌だった。いくらハマサジがとても強いということを、巫術師としての才能も十二分にあることを知っていても、それは戦場に向かわせる理由にはならない。

 否定はできない。

 でもそれは、ハマサジもそうなのではないのか。

 普通の生活に憧れるハマサジこそ、巫術師を辞めたいのではないのだろうか。


「辞められないよ、私は」


「辞め、られない……?」


「どうしても、戦わないといけない理由があるの」


「それはハマサジ自身の願いを踏み躙ってでも、そうしなきゃいけないものなのか?」


 ハマサジは言い淀むように唇を噛んだ。

 残酷な質問をしたのかもしれない。彼女は、あのトンネルで自分の才能がレンにあればと言いかけていた。

 踏み躙ることが許されるなら、ハマサジはきっと普通の幸せが欲しかっただろう。


「レンくんには、わかんないよ……」


 また、その顔だ。

 儚い顔。勉強もスポーツもなんでも出来て、怖いものなんて何一つないはずなのに、世界から置いてけぼりを食らっているような何かを諦めた顔。

 どうして、この期に及んで話してくれないのか。


「ああ、そうだよ」


「……ぇ?」


「わかんないよ、わかるわけないだろうが」


 そうだ。自分が何に我慢ならなかったのかが、今わかった。

 それはレンが、ハマサジのことを何もわからなかったからだ。知らないから、何も共感できない。寄り添ってやることもできない。

 せっかくどちらの世界の価値観でも共有できる立場にいるのに、彼女が自分のことを何も話してくれないから、何もわからないから、我慢ならなかったのだ。

 レンにはハマサジがわからない。そんなのは、当たり前だ。レンは、ハマサジではないのだから。


「何にも知らないのに、わかるわけないだろ!?」


「わかんないなら、踏み込んでこないでよ!」


 たまらず声を荒げるレンに対して、ハマサジも黙っていない。彼女は潤んだ瞳で振り切るように怒鳴る。


「私が危険な仕事をしてるのはレンくんだってわかってるでしょ!? 死んじゃう人だっているの!」


 彼女は優しい。こうして怒鳴るのも、自分の我儘ではなくレンのため。どうして、そんなに心が澄んでいる子がこんな辛そうな顔をしなくてはならないのだ。


「レンくんは、知っててくれるだけで良いの。応援してくれるだけで良いの。私が辛いってことを知ってる人が一人でもいてくれたら、それだけで、私、頑張れるから……」


 どうして巫術師という環境は、彼女の祖父は、ハマサジを幸せにしてやらない。それがレンには許せないのだ。


「本気で言ってるのか」


「――――」


「黙って見てろだなんて、できるわけないだろ!」


 レンはハマサジの両肩を掴んだ。

 そして心に訴えかける。まだ日は浅くとも、築いた関係をなくさないために。これから先の関係を守っていくために。

 彼女にとって、最高の友達でいてあげたいから。


「そんな顔してる友達を、放っておけるわけがないだろ!? 俺は君の応援団をするために友達になったんじゃない。そんな、君にとって都合の良い関係では、いてやらない」


「なんで……」


「命を救ってくれたからだよ! 危険? 知るか。死人が出る? 上等だよ。俺は君がいなきゃもうとっくに死んでんだ、覚悟なんてとっくに決まってんだよ!」


 あの日あのトンネルで救われてから、自分の命の使い方は決めた。あの時死ななかった意味は、この関係を守っていくためにあるのだ。

 今度はレンが、ハマサジを救ってやらなければつり合いが取れない。だけどレンが返してやれるものなんて、これくらいしかないのだ。

 だから教えてやる。

 彼女がわかっていないことを。

 友達というのが、どういうものなのかを。


「辛いなら、辛いって言って良いんだよ!」


 彼女が使命から逃げようとすることをどうして責められる。普通の生活をしたいと、誰もが享受する当たり前を願う彼女に、それを諦めて戦えなどとどうして言える。

 弱音は、いくらだって吐いて良いのだ。

 それが辛いことなら、逃げたって良いのだ。


「何だって話してくれよ!? そりゃ、君からすりゃ俺なんて頼りないかもしれない。君が俺のことを心配してくれるのだってわかってる! でも!」


「――――」


「それと同じくらい、俺だって君が心配なんだよ!」


「――――」


 ボロボロになっていくのを見てられない。

 笑顔が消えていくのを見てられない。

 それを知っているのに何もできない自分の弱さが許せない。

 だからレンは一歩踏み出すのだ。

 ハマサジがどういう事情で戦っているのかを知ることで、レンはきっと、もっと寄り添ってやれる。寄り添うことで自分の命が危険になろうが、知ったことではない。

 あの時、レンはあのトンネルでハマサジに言ったのだ。


「俺が、君を『普通』にする」


「――――」


「そんな顔、させない」


「――認めないよ」


 その時だった。

 時間が凍結したような錯覚とともに、老人の声が耳元で聞こえたのは。

 ぞっとし、一瞬で振り返る。しかし老人は視界にいない。


「ハマサジ、ここで何をしているのかな」


 ハマサジの方へ向き直ると、そこには心の底からの恐怖を浮かべた彼女と、その肩に手を添える和装の老人がいた。この一瞬でそちらに移動したというのか。


「僕はユリグルマと任務に向かうようにと、そう連絡したはずだけど」


「ご、ごめんなさい……」


「やれやれ、ユリグルマと行動させるのも考え物だな。あいつは、君に甘すぎる」


 その老人は冷めた目をしていた。

 ハマサジに似た垂れ目。しかしそこに彼女のような慈愛はなく、一切の迷いを切り捨てたような冷酷な黒瞳が世界を射抜いていた。

 普通ではない目だ。それだけが、普通であるレンにわかるすべてだった。


「君が学校生活でどんな関係を持とうが構わない。スポーツも勉学も習い事も、趣味嗜好もすべて僕は許容してきたよね」


「はい……」


「君は好きに生きて良い。ただひとつ、たったひとつの使命を果たしてくれれば」


 老人はそこでレンの方を見た。

 ナイフで刺されたような、では済まない。

 日本刀で五体を切り刻まれ、煮詰められるような殺気に震えた。

 声が出なかった。

 反抗してやろうという意思も覚悟も、すべてが打ち砕かれた。

 この老人は、妖怪なんかよりもよっぽど怪物であると、魂の底から滲んでくる冷や汗が叫んでいた。

 ばくばくと心臓が強く鼓動する。そんな時間が時間にして一分、体感にして十分は下らないほど続いた。

 突然、老人は柔和な笑みを浮かべた。


「――君が、英雄にさえなってくれれば」


 これが、理由。

 ハマサジが普通の生活を諦めてでも、妖怪たちと戦わなければならない理由。

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