1.Trance
じっとりとした湿気が肌に感じられる。光源がなければ一メートル先も見えないトンネルの中で、手持ちの懐中電灯だけが好奇心にあてられた少年たちを守ってくれる気がした。
「こんな時期に肝試ししようなんて言い出したの、誰だよ」
鼻にかかったような濁声とアフロのように盛り上がった天然パーマが特徴的なヤナギが、じろりとこちらを見上げてくる。
今は三月末。春休みも終わる直前、高校二年生に進級するという時期に肝試しすることを発案したレンは、居心地悪そうに目にかかる長さの前髪を撫でた。
「悪かったって。去年の夏休み、中学の友達と違うとこに行った時は全然怖くなかったからさぁ」
「お前が高一の時に行ったのはただの城の跡地だろ! ただの更地! そんなの、怖いわけないじゃんか!」
ヤナギがトンネルに反響するほど大きな声で、懐中電灯を振り回しながらレンを責める。そんなことをしたところで現状の恐怖は払拭できないので、できればもう一人の同行者のように黙っていて欲しかった。
「ネジキは怖くないのかよ?」
レンと話しても埒が開かないと思ったのか、ヤナギは無言で後ろをついてくる長身短髪の少年に声をかけた。
ネジキは相変わらず何事にも動じなさそうな佇まいで首肯する。
「お化けなんているわけないから」
「そんなの、わかんないじゃんかよ!」
「ありえない。今までに死んだ人の数を考えたら、そこら中お化けだらけ」
「そりゃ、そうだけどよー」
ネジキの理論もわかる。恨みを持った人間が死後お化けになるなら、この世界は満足に食糧も確保できなかった時代や略奪が当たり前の時代の人々がお化けとなり、ごった返していることだろう。
しかし実際そうでない以上、お化けなど存在しないのだ。
「でも、俺らは霊感がないだけかもしんないじゃん」
「なら仮にお化けがいたとしても見れない。尚更安心」
「ははっ、確かに」
ネジキの返しにレンは噴き出した。そもそも霊感という概念自体よくわからないが、それがお化けを見ることができない体質だとすれば肝試し中は安心だ。
「だけどよぉ。どうせ肝試しすんなら、女子の一人や二人くらい呼んでこいよな」
「もしレンが女子を呼んでたら、ヤナギは無様な姿を見られるだけだったと思う」
「ネジキの癖にうるせ!」
不満そうなヤナギを黙らせるオーバーキルなひと言をネジキが放ったことで、少しばかり恐怖が和らぐ。
「それに女子っつったって、俺はそんなに女友達多くないぞ」
「俺やネジキに比べりゃマシだろ。言ってて悲しいけどよ……」
じゃあ言うなよ、というツッコミは飲み込んだ。
「ほら、お前には幼馴染のナノハちゃんがいるじゃん。あの子に何人か呼んで貰えば良かったのに」
「もっとイケメンがいないと集まらねえよ」
レンの辛辣な物言いにムッとするヤナギ。しかし、レンが幼馴染のナノハを誘わなかった理由はそれだけではない。
「あいつは天然ボケだからダメだ。こういうところに連れてくると、多分幽霊とか関係なく怪我する」
「それはあるかもしれない。この前も廊下の何もないところで転んでた」
「うわぁ……」
二人も想像がついたようで、ナノハを呼ばなかったことに納得する。女子がいれば、というヤナギの意見もわかるが、これは女友達の少ない自分達の自業自得だろう。
レンたちは決してクラスの中心グループなどではないのだ。学内カーストはどちらかといえば中堅以下。一番下という程でもないくらいの、ごく平凡な立ち位置なのである。
「はぁ、どうせならあの子がいればなぁ」
「あの子?」
「ほら、他クラスだからあんま性格とかは分かんないけど、優等生の美少女で有名な子いるじゃん」
その噂はレンも聞いたことがあった。
学年一の美少女としても良く名前が挙がる女の子。勉強も運動も得意で、人当たりも良い。自分達のようにクラスが違った関係で高校一年生の間関わりがなかった人間でも、顔と名前くらいは知っている。
名前は確か、ハマサジといったか。
「いや、そもそも話したことねえんだから無理だろ」
「だよなぁ」
どことなく、気づいた時には消えてしまいそうな儚い雰囲気を持つ彼女に惹かれる男子生徒は多い。ヤナギもきっと、その一人なのだろう。
確かにレンも彼女と一度話してみたいとは思うが、吊り合わないだろうというのが本音だった。
なんとなく、彼女はどこか別世界の人間なのだと思うのだ。レンの知らない世界を生きている人間なのだと、そんな感じがした。
そこで話題が途切れ、会話が止まる。トンネルには再び重々しい空気が流れ、明るい話が掻き消していた恐怖心が少しずつ戻ってきた。
「なんか、このトンネル空気が重たい気がすんだよな……」
やがてその空気感に耐えきれず、ヤナギが口を開く。
気のせいだと言ってしまえばそれで終わりだが、実際にレンも、少しだけその感覚に共感できた。
閉鎖された古いトンネルは思ったよりも長く、道もまっすぐではなくカーブしている。だから出口が見えず、振り返ったところで入り口もすでに見えない。それが恐怖を加速させていたのだ。
手入れのされていないひび割れた壁面。その上からびっしりと生えた苔と、スプレーによる落書き。アスファルトも舗装面はところどころ割れており、そこから雑草が伸びている。
湿り気を帯びたぬるい風が、時折り自分達の肌を撫でながら通り抜けていくのが不快だった。
ここにきて口数が増えたのは、きっと恐怖を誤魔化すため。軽口を言って笑ってみせるのは、きっと怯えを隠すためだった。
ただのトンネルが、怖い。曰く付きで、丑三つ時で、トンネルに光が灯っていないというだけなのに、こんなにも。
そろそろ出口が見えても良い頃だと思った。今は使われていない古いトンネルにしては長すぎるくらいだ。引き返してさっさと帰ってしまいたいと思いながら歩みを進めていたところで、突然ネジキの足が止まった。
「ネジキ?」
レンが何気なく振り返ると、見たこともないくらい顔面蒼白なネジキに驚いた。普段はテストの点数が一桁だろうが何とも思わないような肝の座った男なのに、血の気を失ったように立ち竦んでいる。
ネジキは焦点の合っていない目で前方を見つめながら、震える手で何かを指差していた。
レンとヤナギはその指の方に目と、懐中電灯を向ける。光が地面を照らし、ゆっくりと前方へと向かって行って、その先に、小綺麗な女性が立っているのが見えた。
「ち、ちょっと……待て」
ヤナギも絶句したように口元を手で覆う。それはそうだ。こんなところに、女性が一人で来るわけがない。まして、少年たちを待っているかのようにこちらを向いて立っているのはなんだ。
「あ、あの……こんなところで、何を……?」
レンが恐る恐る話しかけるも反応はない。
ヤナギの持つ懐中電灯の光がゆっくりと、女性の足元から上へと向かっていった。白いパンプス、白のソックス、白のワンピース、そして全身の血液が抜けたように白すぎる肌。
見に纏うものの全てが、死装束にしか見えなくて、そして――。
「ヒッ」
暗闇の中で照らし出されたその顔には、およそ顔のパーツと呼べるものがなかった。
コンクリートのような質感ののっぺりとした顔が、暗いトンネルの中で生気を失ったように青白く輝いていた。
「わああああああああ!!」
最初に逃げ出したのは、ネジキだった。
彼は普段の佇まいからは想像もできないほどに取り乱した様子で、パニックのままに駆け出してしまったのだ。
そして女の方も立ち止まったままではない。逃げ出したネジキを追うようにして、こちらへと向かってきた。小綺麗な女性とは思えないほど手足をバタつかせて駆けてくる。まるで、適当に動かしたマリオネットのように。
「やばい、やばいやばい!!」
レンとヤナギも遅れて走り出す。もしこれが、以前ここに肝試しに来た連中が悪ふざけでカラクリ人形を置いていただけだったとしたらどれだけよかったか。
後ろからバタバタと迫ってくるパンプスの足音が、そうではないことを証明していた。
出口が遥か遠くに感じた。もうカーブを過ぎ、トンネルの外が見えているというのに。
後ろの女はトンネルを出ても追ってくるのだろうか。だとすれば、どこまで逃げれば振り切れるのだろうか。
その時だった。
「――あっ」
経年劣化でひび割れ、盛り上がっていたアスファルトに躓いたヤナギが顔面から転んだのだ。
咄嗟に目を向けた時、ヤナギは呆けたように目を丸くした後、縋るような瞳をこちらに向けた。
足音は迫っている。自分たちは女を引き離せていない。このままではすぐに追いつかれる。追いつかれたらどうなる? 知るかボケ、考えてる場合じゃないだろうが。
だからレンはその一瞬で、身を翻した。
「逃げろ!」
その顔は、かっこつけるには余りにも恐怖に歪んでいた。
何かを言おうとするヤナギを置いて、レンは自分たちを追ってくる女めがけてUターンする。
何でこんなことした。元はといえば肝試しに誘ってしまった自分のせいだからか。アホか、どう考えても逃げないとダメだろ。
頭の中ではたくさんの文句がぐるぐると巡っていたが、既に駆け出してしまったのだからもう止まれない。
「……っらぁ!」
そのままの勢いで、レンは無我夢中で女にタックルした。
何らかの攻撃を受けることも覚悟していたが、女は予想外にそのまま吹っ飛ぶ。そのために、つんのめってレンまで倒れてしまった。
だが、これでヤナギが立ち上がる時間くらいは稼げたはずだ。
振り返ると、やはりヤナギは出口へと走り去っていた。レンに対するせめてもの配慮か、懐中電灯は置いてある。馬鹿か、逃げながら地面に置かれた懐中電灯なんて拾えるわけないだろ。
しかしこれで、後は自分が逃げるだけだ。
レンは出口に向かって走りながら、ヤナギの置いた懐中電灯を軽く蹴った。狙い通り、懐中電灯は地面を回転してから出口の方を向く。
後ろから迫ってくるパンプスの音からして拾うほどの余裕はなかったが、これで出口までの道は見えた。
一気に駆け抜ける。トンネルを抜け、そのまま木々が生い茂る山道を下っていった。
坂道のお陰でバテ気味ではあるが、スピードが乗る。持久力に自信があるわけではないのでありがたかった。
そうしてがむしゃらに走るうち、いつの間にかパンプスの足音は聞こえなくなっていた。
「……巻いたのか?」
恐る恐る振り返る。そこに女はいない。ただの、舗装された山道があるだけだった。
三、四十メートルおき程度に取り付けられている弱々しい電灯。懐中電灯のない今、それだけが頼りだった。
レンはとりあえず周囲に化け物の気配がないことを確認し、歩きながら息を整えることにした。
「マジで何だったんだ、あの化け物」
顔のない女。いわゆる、のっぺらぼうだ。
まさか、自分がこういう事態に巻き込まれるとは思わなかった。
本当に、そんな存在がいるとは。
「あの旧トンネルに棲みついてる地縛霊ってとこか?」
化け物はトンネルを出てしばらく走ったところで追って来なくなった。まだ安心できるわけではないが、ひとまずはそういうことだと考えておく。
でなければ、心が落ち着かなかった。
例えばまだ、後ろにいるなどとは考えたくない。
「……う」
そう思っただけで背筋がぞくっとした。もう、後ろは振り返れそうにない。
ネジキとヤナギはどこまで逃げたのか、先の方に目を向けても姿は見えなかった。置いていくなんて薄情だとは思うが、こんな事態になってしまえば仕方もない。
元はと言えば、肝試しに誘った自分が悪いのだから。
「とりあえず、チャリの置いてあるところまで戻らないとな……」
レンたちは自転車で肝試しに来ていた。
ただ、おそらくこのトンネルが心霊スポットとして有名なせいだろう。自治体の手が入っており、かなり手前で柵が立てられていた。
レンたちは柵の前に自転車を停め、自分たちだけで肝試しに来ていたのだ。
とりあえずそこまで戻ることができればひと安心だ。さっさと自転車を飛ばして、こんな場所からは立ち去らなければ。
「――は?」
しかしようやく辿り着いた柵の向こうには、三台の自転車があった。否、残っていたという方が正しい。
「なん、で……あいつら、先に逃げたはずじゃあ……?」
なぜまだ、ネジキやヤナギの自転車がそこにあるのか。
レンは彼らを逃すために殿を務めた。だというのに、彼らは逃げ切れていないというのか。
知らぬ間に二人を追い越したということはない。道は一本道だからだ。
そして半狂乱だったネジキはともかく、理性の残っているヤナギが自転車を捨てて走って逃げるなんてことはあり得ないだろう。
ならば彼らは、どこへ行ったのか。
「――――」
レンは、思わず振り返った。
そこに化け物はいない。あの、旧トンネルへと続く古びた山道があるだけだ。
化け物は、トンネルを出た時点でレンを追って来なくなった。その時点で急にいなくなった。
では、果たしてどこに消えたのか。
「――先回りして、二人を?」
殺した、とは思いたくなかった。化け物の目的は不明だが、二人は捕らえられたのだと思いたかった。まだ生きているのだと信じたかった。
だが、それでどうする。
レンは二人を置いて逃げれば良いのか。
それで明日二人が学校に登校しなかった時、自分は耐えられるのだろうか。
「……ああ、クソッ」
レンは頭を左右に振って、迷いをなくそうとする。そんなことで恐怖や動揺は飛んでいったりしないけれど、少年は再び旧トンネルを目指した。
逃げてきた道を戻り、またその場所に着く。
トンネルの中は一層暗くなっているように感じた。腕時計に目を凝らせば、時間は朝四時に近い。そろそろ空も明るくなり始めて良いだろうに、星々はまだ輝いていた。
レンは一度深呼吸してから、再びトンネルに入る。
三人で歩いても怖かったトンネルだ。一人で来て、それにあんな化け物を見た後で怖くないわけがない。
だからレンは恐怖を掻き消すために、無関係なことを考えた。
高校生活とは、小中と続いてきた関係を断ち切り、全く新しい環境に慣れるための期間だ。
勉強も運動も、何もかもが平々凡々のレンには、キャラクターとして見れば大した面白味がない。だから入学当初の環境で友達を作るのには不安があった。
こういうものは、最初の印象が大切だ。普通すぎるレンは、周りの印象に残らない。そのため、広く浅い関係が二ヶ月ほど続いた。
ある時から絡むようになったのが、ヤナギとネジキだった。
他人の心に土足で入るような性格のヤナギや、逆に落ち着きすぎているネジキ。個性の塊のような二人と比べれば至って普通のレンだが、唯一持ち合わせている心の器の大きさが三人を親友とも呼べるほどに引き合わせた。
そう、ヤナギとネジキは親友だ。
かけがえのない、大切な友達なのだ。
だから――。
「――! ヤナギ、ネジキ……!」
トンネルの奥、置き去りにされていた懐中電灯を拾い上げて照らした先に、二つの人影が見えた。彼らは背中を向けていたが、身長差や身体的特徴からしても絶対にヤナギとネジキだった。
レンは走った。二人を化け物の手から救うために。どうすれば救えるのかなんて考えなかった。頭の中は真っ白だった。
ただ、とにかく全力で走った。後のことは、どうにかなると思った。
「大丈夫か!?」
そうしてヤナギの肩を掴み、こちらに向ける。強引に引っ張った小柄な身体はレンが思っている以上に力が抜けており、まるで死体か人形のようだった。
そしてこちらに向いたヤナギの顔はコンクリート質で、目鼻立ちがなく、のっぺりとしていた。
「わっ!」
レンは驚き、尻餅をついた。
どうして、ヤナギが化け物と同じ顔になっているのか。わからない。わからないことが、その理解不能がレンの恐怖を加速させた。
逃げなければと、自分の心臓がけたたましく警笛を鳴らしている。冷や汗が止まらない。口の中が乾いていく。だけど立ち上がれない。腰が、完全に抜けてしまっていた。
ヤナギの姿をした化け物は、目も鼻も口もない顔でレンを見下ろしていた。ネジキの姿をした化け物も、ゆっくりと振り返ると、同じような真っ白の顔でこちらを見つめる。
「だっ、誰かっ……たすっ……」
助けを乞えど救いはなく、後ろからは聞き覚えのあるパンプスの足音が近づいてきていた。
そちらを振り返る勇気は、もう、なかった。
その乾いた、規則的な足音は秒針のようだった。自分の命が終わるまでをカウントする秒針の音。今なら処刑を待つ囚人の気持ちも理解できる気がした。
やり直せたら、と思う。
時間を巻き戻せたら、二人をこんなところには連れて来なかった。友達を失うことはなかった。
レンはやがて、諦めるように瞳を閉じた。そして懺悔するように、神に救いを乞う。
処刑を告げる秒針の音は、すぐそこまできていた。
(――神様、どうか)
レンはただ、祈った。
(二人を、救ってください)
直後に鳴り響いた風鈴のような澄んだ音と、少女の声を、レンは生涯忘れることはない。
それが少年にとってこの先の、大きな指標になるのだから。
「――憑依」
直後、背後から穏やかな風が吹いた。
やがてその風はレンを避けるようにしてうねり、刃のような鋭さで化け物たちを切り裂いた。
霧が晴れるように、一気に周囲が開ける。恐怖に支配された空間は、それが幻だったように色を取り戻す。
レンは振り返った。
振り返って、その少女の姿を見た。
「――君は」
少女は降り積もる初雪のように白い着物を身につけていた。戦闘を想定しているのか動きやすいようにところどころがカットされ、地肌の露出しているところもある。
しかしそこに色気を感じるよりも先に、ただ美しいと思った。
彼女は同級生。栗色のボブカット。その優しそうな垂れ目を、レンは遠巻きに見たことがある。
名をハマサジ。
才色兼備。文武両道。完璧という言葉をその身に憑依させたような少女が、そこに立っていた。
「風の巫術、『龍嵐』」
ハマサジの声が凛とトンネル内に響き渡ると、ガラスが割れる様な音と共に化け物の身体が八方へ裂ける。
だが、レンにはそちらを見る余裕なんてない。目の前の幻想的な光景を生み出した少女から、片時も目を離せなかった。
ハマサジは胸の高さで狐の形にしていた手を解き、こちらまで歩いてきて差し出す。
「――大丈夫? 怪我はなかった?」
レンは普通の高校生だった。
ごく普通のありふれた家系に生まれ、特筆することもない人生を送ってきた。
しかしこの出会いが、少年のモノトーンでしかなかった人生を七色に彩る。漫画の背景のような日常を一変させる。
もう、モノクロの生活には戻れない。
そうして少年は、英雄と出会った。




