0.Prologue
十年が経った今でも、私はその夢を見る。
心地よい潮風と、波の音を覚えていた。鼻腔を満たす磯の香りは、今でも鮮明に思い出すことができる。
家族で海に来ていた。父と、母と三人で。
まだ六歳の幼い少女だった私は、それが幸せだということに気付けなかった。
家族がいて、どこかに出かけることができて、笑い合うことができるという幸せを、当たり前のものとして受け止めていた。
この幸せをもっと噛み締めておくべきだったのだと、今なら思う。
「お父さん、見て! すごい! おっきい波!」
強風に引っ張られるようにして、大きな波が砂浜に押し寄せる。それは風と波の鬼ごっこに見えた。
波は手前の水を飲み込むようにして大きく、高くなって、砂浜に到達したところで乾いた砂に吸い込まれる。
「今のは、ハマサジの背丈より大きいんじゃないかな?」
「む。わたしの方が大きいもん!」
「うーん、どうかな?」
「なんで張り合うことになるのよ」
砂浜には、幼い対抗心で頬を膨らませる私と、悪戯に微笑む父。そして二人を優しく見守る母の姿があった。
「わたし、波さんと背比べしてくる!」
「あ、ハマサジ!?」
「ちょっと! 貴方、追いかけて!」
海に向けて全力で駆け出した私を、母に背中を押され、大慌てで追いかける父。
だけど私は砂浜に足を取られて思うように走れない。
そうしてもがいている内に振り返れば、父が普通の地面を駆けるのと同じ速度でこちらへ向かって来ている。
まるで、砂浜の方が父に道を譲っているように見えた。英雄の凱旋を讃える民衆のように、砂浜の方から走りやすい地面へと変化していたのだ。
それゆえに、私はすぐに追いつかれてしまった。
「やーだ! 波さんと背比べするの!」
「まだ危ないから! ハマサジはまだ泳げないだろう?」
「すーるーのー!」
父に抱えられ、私は大暴れする。
あまりに駄々をこねるので、父も困り果てたようだった。
すると私の説得に悩む父の横から、小走りで追いついてきた母が海で遊ぶ許可を出す。
「それじゃあ、少しだけだよ? 膝までしか入っちゃダメだからね?」
「うん!」
「ちゃんと気をつけるんだよ?」
「お母さん、ありがとう!」
隣で父は母の正気を疑うような顔をしていた。それだけ、私のことが心配だったのだろう。
思えば珍しい構図だった。家族といえば父親の方が適当で、心配性な母親がそれに怒るという構図をよく耳にする気がする。私の両親は、それとは逆だった。
しかし決して母は根負けして無責任に許可を出したわけではない。私の運動神経を信じ、溺れないだろうと安直に判断して送り出したわけでもないのだ。
母が私を海で泳がせてくれたのは、きっと、父のことを信頼していたからだ。
もし私が溺れそうになっても、父が必ず助けるのだという信頼があったのだ。
そして父も多分そのことがわかっていたから、それ以上は何も言わなかった。嘆息し、私を地面に下ろす時に片方の手を地面につけて、小さな声でひと言呟く。
「――憑依」
それは、魔法の言葉。奇跡を起こすためのおまじないだった。
時々、父の口から出るその言葉は私に向けられた言葉ではなかった。だから当時は全く意味が分からなくて、気にもしなかった。
そのおまじないを唱えることが父の優しさだったことに気づけていれば、ありがとうの言葉をもっと多く言えていたのかもしれない。
海に向けて歩いていく私を、二人は後ろから見守っていた。
父は不安そうに、母は幸せそうに。その浜辺にはきっと、どこよりも幸せな家族があったのだ。
私はこんな日々がずっと続くのだと思っていた。笑い合って、愛し合って、そんなありふれた日常がいつまでも続くのだと愚直に思っていた。
――しかしその幸せは、呆気なく終わる。
崩れゆく家屋。血だらけの母と、相対する巨大な骸骨の化け物。そして私の首に巻かれた、どんな衝撃も寄せ付けない魔法が閉じ込められた青いマフラー。
母は、私を守るために必死で戦っていた。
「憑依……!!」
母が叫んだのは、また、その言葉。
しかし骸骨の化け物は、笑いながらすべてを破壊する。私たち家族から何もかもを奪い去った。
母の不思議な力による攻撃を羽虫ように払うと、何の躊躇もなく叩きのめした。
骸骨は、自分が成り上がるためにはこうすることが必要なのだと言っていた。
まるで誰かに依頼されて母を手にかけたような口ぶり。しかしあんなにも優しかった母が他人に恨まれているなど、考えられなかった。
斃れた母の血が降りかかり、紅に塗れた私にはわからない。
どうして、家が壊されるのか。
どうして、母が殺されるのか。
どうして、父は助けに来てくれなかったのか。
「――――」
すべてが壊される前に、母は私に何か大切なことを言った。忘れないでね、と言われたその言葉の内容は、今ではもう覚えていない。
それが母の最期の言葉だったのに、私は恐怖と絶望でそれどころではなかった。
きっと、母は最後まで家族のことを心配していたはずだった。私のことを、父のことを。自分が死ぬと分かっていたからこそ、最期の瞬間まで家族の身を案じたのだ。
しかしそんな心優しい母は、既に骸となって動かない。
私は母の骸を抱き抱えた。母が何度も、そうやって愛してくれたように。遠ざかっていく愛情を、手離さないように。
「お母さん、お母さん……」
私はただ泣いていることしかできない。
だから、涙が枯れるまで泣いていた。
目的を果たし、骸骨の化け物が去っても。
周りに警察や救急車が集まっても。
遅れて父の親友が訪れても。
その人が連れてきた老人が私の親戚を名乗っても、私は涙を流し続けていた。
「お父さんは、どうしてお母さんを助けてくれなかったの」
私は親戚の老人に尋ねた。
老人には、わかるわけがないのに。
質問の内容を受けて、隣で父の親友が息を呑んだ。
「お父さんは、みんなの命を守ることが仕事だって言ってた。じゃあなんで、お母さんのことは守ってくれなかったの!!」
私は叫んだ。自分たち家族に降りかかった理不尽と不条理をぶつけるように。
六歳の子どもには、自分にのしかかった絶望を誰かにぶつけることしかできなかったのだ。
目の前の老人は私の言葉に目を細める。その姿を第三者が見たならば、私の言葉を受けても何も感じていないという風に映っただろう。
だけど私には、私だけには、違って見えた。
「弱かったからだよ」
「――ぇ」
私には老人が、心の奥底で泣いているように見えた。
泣いて泣いて泣き疲れて、涙の枯れ果てた先に立っているように映ったのだ。
この人は、どうして私よりも辛そうな顔をしているのだろうと思った。
「バンカは、弱かった。だから何も守れなかったんだ」
「お父さんは、弱くなんて――!!」
それでも、老人が父を愚弄したことは許せなかった。
泣き疲れたような情けない面構えで、自分の父を知ったように語ることが何よりも許せなかった。
だから私は、老人を否定しようとした。
しかし。
「弱いから、君のお母さんは亡くなったんだろう?」
「――――」
それは、ナイフよりも深く私を傷付ける言葉だった。
何も言い返せない。父が弱かったから、母の危機に駆けつけることができなかった。それを否定することは、私にはできなかった。
私が父を庇う根拠は、信頼だけだ。父がどれだけ強かったのかなんて、知るはずがない。
そして老人には、父の弱さを否定させないだけの圧があったのだ。
「ったく、それ以上は……!!」
父の親友が割って入ろうとする。これ以上私を傷つけないために、老人の言葉を止めようとした。
しかし老人は彼を睨みつけ、すぐに黙らせる。まだ私に対して言うことがあるのだと無言で主張する。
老人は私の両肩を強く掴むと、疲れ果てた面構えから一変した。その一瞬で何かを決心したように、あるいは何かを託すように、老人の目尻が垂れた瞳は鋭く私を射抜いた。
「君は、そうなっちゃいけない」
「――――」
その表情は、ともすれば懺悔するようにも見えた。覚悟を決め、懺悔を口にしたように。
私に待ち構える運命を憐れみ、未来を変えられないことを憎み、そうせざるを得ない自分の選択を嘆いているようだった。
「君は、何もかもを守ることができる英雄にならなくちゃいけない」
気付けば私の涙はせき止められていた。
それは桁外れに歪んだ老人の瞳に畏怖したから。そして、その目の黒すぎる濁りに恐怖したからだった。
何があったらこんな目をすることができるのかと、六歳の子どもながら思う。
「君はお父さんと同じ仕事に就く。そしてもう二度とお母さんのような死者を出さないように、誰よりも強くなるんだ」
「――――」
そして次の瞬間、老人は言い切る。
私の未来を、その指針を告げる。
それはきっと私の父がなろうとして、なりきれなかった存在――。
「君は、英雄になるんだ」
そうして老人は英雄という呪いを幼い私にかける。世界の未来を、まだ小さな肩に押し付ける。
私は戦わなくてはいけなくなった。
人類のために、世界のために。きっと、父がそうしたように。
世界を脅やかす存在と、向き合わなくてはならなくなったのだ。
――私は十年が経った今でも、その悪夢を見る。
今日も、そこで目を覚ました。
背にはじっとりと汗が染みている。ばくばくと脈打つ心臓は、何度見ても未だに悪夢に慣れていないことを示していた。
『君は、英雄になるんだ』
あの日、私の未来を決定づけた言葉。
それはある種の強迫観念のように、巨大な楔となって私の胸に突き刺さっている。胸を押さえたところで、楔が抜けることはない。
英雄。英雄、など。
まだ十六の女子高生である私には、――ハマサジには。
「――重すぎるよ」
そうして今朝も、枕を涙で濡らすのだった。