奥方様の便利屋稼業
「この結婚は私が望んだものではない。それでも結婚はしたのだからこの屋敷には迎え入れるが、貴女と夫婦としてやっていく気はない。だから貴女は好きに過ごしてくれていい」
旦那様はいかにも不機嫌そうな表情でいきなり奥様にそう告げられました。
ですが奥様は表情を崩しません。おそらく予想されておられたのでしょう。
「本当に私の好きなようにしてもよろしいのですね?」
「ああ、過度な出費は控えてほしいがな」
奥様にそう言い残して旦那様はさっさと自室へ去っていきました。
執事である私や使用人達は内心ハラハラしておりましたが、奥様は微笑んでおっしゃいました。
「今はまだこの屋敷の奥方としてうまくやっていける自信はありませんけれど、皆様どうかよろしくお願いいたしますわね」
旦那様はこの家の三男で、本来なら家を継ぐ立場ではありませんでした。ですが、当主となられたばかりのご長男が病に倒れて急死し、次男はすでに他家へ婿入りしていたため、急遽継ぐこととなりました。
そして当主となると同時に亡くなられたご長男と婚約しておられたご令嬢を娶ることとなりました。この家に嫁ぐ者として以前から出入りしておられましたから、我々使用人はすでにその人となりもよく存じております。
王都のアカデミーで研究者として勤めておられた旦那様は、現在は領地経営を学んでおられるところですが、王都から遠く離れて打ち込んでいた研究を断念せざるを得ない状況となり、常に不機嫌そうな顔をしておられます。
旦那様が領地に戻られてしばらく経った頃、王都にお住まいの大奥様から旦那様宛てにお手紙が届きました。執事である私のところにも手紙が届いておりましたので、おおよその内容はすでに把握しております。
「おはよう。あ~、その、アレはいるか?」
「はて、アレとは何のことでございましょうか?」
「執事のくせに察しが悪い奴だな!…その、私の…妻であるあの女だ」
旦那様が少し口ごもります。大変面白いです。
「ああ、奥様のことでございましたか。ただいま出かけられておりますが」
「出かけた?こんな朝早くからどこへ行ったというのだ?」
ああ、旦那様はご存知ありませんでしたね。
「本日は水曜日でございますから、朝はパン屋、午後からは独り暮らしのご高齢のご婦人方の家をまわり、夕方は図書館のご予定ですね」
旦那様は驚きで目を丸くしておられます。
「貴族の妻だというのに、その予定はいったい何なんだ?!」
「奥様は便利屋を営まれておりますので、大変多忙なのでございます」
「…便利屋だと?!」
おや、ずいぶんと驚かれているようでございますね。
「ええ、朝はパン屋の店員の1人が現在産休で人手不足なのでほぼ毎日でしょうか。午後のご高齢のご婦人方の話し相手と買い物代行、夕方の図書館は清掃の助っ人に入られております」
「なぜそんなことをやっているんだ?!」
「旦那様が奥様に好きにしてよいとおっしゃられたではございませんか」
「貴族の妻が働きづめなど、周囲から見ればいい笑いものだろうが!」
旦那様は顔を真っ赤にして怒っておられます。
「奥様を笑う方など私は存じませんが。奥方様は役目がない時は暇だからと街の者たちの困りごとに対応されておられるのです」
旦那様はご存じないでしょうが、実は便利屋はこの街での認知度はかなり高いのです。
「だからと言ってだな…」
もう面倒なのでここで話を切ってしまいましょうか。
「それよりも奥様に何か御用があるのではございませんか?」
「あ、そうだった…王都から母上が来るそうなんだ」
旦那様はようやく本来の用件を思い出したようです。
「おや、そうでございましたか。急ぎお迎えする準備をせねばなりませんね」
「母上の滞在中、アレには私の妻らしく振舞ってもらわねばならない」
それはそうでございましょうね。
「奥様は夕食の後であれば時間が取れると思いますので、どうぞ直接お話しくださいませ」
「わかった。では、帰宅したら夕食後にサロンで少し話がしたいと伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
私は深々と一礼しました。
「すまないが母の滞在中は妻らしく振舞って欲しい」
夕食後にサロンで話を切り出した旦那様を奥様は真っ直ぐ見つめて答えました。
「かしこまりました。便利屋の仕事としてならお受けいたしましょう」
「仕事として、だと?」
「ええ、本来なら時間単位で請け負いますが、1日単位での設定も可能ですわ」
営業スマイルの奥様に対して声を荒げる旦那様。
「妻が妻の役割を果たすのに金を寄越せというのか?!」
「あら、『夫婦としてやっていく気はない、好きに過ごしていい』そうおっしゃったのは貴方の方ではありませんか。貴方の都合で私の時間を費やすのですから対価は必要だと思いますけれど?それがお嫌ならば正直にお義母様におっしゃればよろしいだけですわ。私達の間に夫婦の絆など欠片もないと」
奥様は真顔に戻って言い切りました。旦那様は返す言葉も出てこないようです。
「書類上では夫婦ですが、望まない婚姻だった私達はしょせん他人でしょう?ですから私達の関係はあくまで仕事と考えればよろしいではございませんか。便利屋として報酬がいただけるのでしたら、お義母様の滞在中は完璧に妻として振舞ってみせますわ」
旦那様がとまどった表情をなさっていますが、どうやら心を決めたようです。
「母上に心配はかけたくない。だから、すまないがよろしく頼む」
旦那様は渋々納得なさったようです。
「確かに承りましたわ。では、のちほど契約書類をお渡しいたしますので、サインをお願いいたします。さて、お義母様の滞在中は通常の業務ができなくなりますから、早めに調整しないとですわね」
「よくわからんが、大丈夫なのか?」
奥様は笑顔で答えました。
「便利屋は別に私1人でやっているわけではありませんのよ。優秀な仲間がたくさんおりますから上手く調整してみせますわ」
それからしばらく経った頃、大奥様がお見えになりました。
旦那様と奥様も仲むつまじい夫婦を完璧に演じておられます…と言いたいところですが、奥様はともかく旦那様はあちこちでボロが出ておりますね。誰もそのことに触れてはおりませんが。
領地に居られた頃の大奥様は街の方々とも交流を持っておられましたので、街の散策でもあちこちで話が弾みます。
「母上はともかく、みんな君にまでずいぶん親しげなのだな」
大奥様の様子を眺めながら旦那様が小声で奥様に話しかけます。
「普段から便利屋として活動しておりますので、顔なじみも多いのですわ」
大奥様が王都に戻られる前日の夜。
旦那様は以前から決まっていた街の有力者達との会合でだいぶ飲まされたようで、少々酔っておられるようでした。
サロンでの介抱をいったん奥様と大奥様に任せて水差しとグラスを運ぼうとした時、聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んでまいりました。
「街の有力者達にもいろいろ言われたが、話題の便利屋なんてしょせんは女のお遊び、君の自己満足にすぎないのではないか?」
凍りついたような奥様の表情が視界に入り、飛び出していこうとした時。
パシン!
私より先に旦那様の頬を叩いた方がおりました。
「…母上?」
「なんてことを言うの?!便利屋のお仕事はこの家に嫁いでくることが決まった彼女に私から引き継いだものなのよ!」
「えっ?」
呆然とする旦那様。大奥様は震える奥様の肩を抱いて歩き出しました。
「本当に馬鹿な息子でごめんなさいね。貴女がとてもがんばってくれていること、私もこの家の使用人達もよく知っているわ。お願い、だからもう泣かないで」
「お義母様…」
涙声の奥様は大奥様とともに廊下の奥へと消えていきました。
「旦那様は本当にどうしようもないお方ですね」
酔っ払いに説教など無駄だとは重々承知の上で私は口を開きました。
「便利屋は代々この家の奥方の役割なのです。もっとも普通は資金援助くらいで、自ら働いているのは今の奥様くらいでございましょうが」
旦那様が驚きで目を見開きました。
「なぜ…便利屋なんかを?」
「世の中にはさまざまな事情で職に就けなかったり制約がある方々もおられます。そんな方々の一助のためというのがそもそもの始まりですが、市井の方々との交流によりさまざまな情報を吸い上げたりしておられるのです。そして奥様は便利屋を単なる慈善事業ではなく、仕事として成立させるべく奮闘しておられるのですよ」
今はまだ酔っておられますが、本来の旦那様は論理的思考の持ち主ですから、これだけ伝えておけば後はご自分で考えられるでしょう。
「それからもう1つ。旦那様はご自分だけが不幸だと思ってはおりませんか?」
「…?」
どうやら思いつかないようなので、しかたありませんから教えて差し上げましょうか。
「奥様は心を通わせておられた婚約者に突然先立たれ、悲しむ間もなく婚約者の弟の妻となりました。しかし肝心の夫は自分をないがしろにしている。王都の学院では才媛と評判だった方なのに、下位貴族の女性というだけでその未来は半ば閉ざされていたのです。そんな中で便利屋稼業に自らの進むべき道を見出したのに、夫に自己満足と貶められる奥様の心情がおわかりになりますか?」
「う…」
「私からはこれ以上何も申しません。さぁ、そろそろ少しは酔いも冷めたでしょうから、どうかお部屋に戻ってお休みくださいませ」
翌日。
朝食前に旦那様は奥様と大奥様に謝罪しました。
「あとは2人でよく話し合いなさい」
そう言い残して大奥様は王都に戻られていきました。
サロンで旦那様と奥様が向かい合って座りました。執事である私は壁際に控えております。
「改めて貴女にお詫びしたい。便利屋のことを自己満足などと言ってしまい、本当に申し訳なかった。町の有力者たちが貴女のことを褒めてばかりで、勝手にイラッとしてしまっていたのだ」
そう言って旦那様は奥様に深々と頭を下げました。
「頭を上げてくださいませ。謝罪を受け入れますわ」
旦那様が頭を上げて奥様を真っ直ぐ見つめました。
「酔いが冷めてから聞いた話を思い出して考えてみたが、便利屋は救いの手がなかなか届かないところに光を当てるためにも必要なことだと思う。貴女さえよければこれからも続けて欲しい。もちろん私も協力したいと思っている。ただ、あまり無理はしないでほしいが」
そう言う旦那様に奥様はお答えになりました。
「かしこまりました。お許しいただけるのなら、これからも続けてまいりたいと思っておりますわ」
頭を上げた旦那様はさらに話を続けます。
「そして貴女が私の妻としてこの家に来た時、貴女という人をよく知りもしないのにひどいことを言ってしまった。どうか許して欲しい。いきなり夫婦というのは難しいかもしれないが、まずは家族として始めていければと思っている…だが、その前に聞かせて欲しいことがある」
「何でございましょう?」
奥様が少しだけ首をかしげる。
「貴女は…その、亡くなった兄上を愛しておられたのか?」
少し寂しげな表情になる奥様。
「あれが愛と呼べるかどうかはわかりませんけれど、尊敬しておりましたわ。私のような小娘の生意気な意見でもきちんと聞いてくださって、よいところがあれば褒めてくださり、おかしい点があればわかりやすく指摘してくださいました。2人で語り合う時間はとても楽しかったのです」
少しの間の後、旦那様が口を開きました。
「実は私が研究者を目指したのも兄上の影響だった」
奥様は驚かれたのか少し目を見開きました。
「今にして思えば兄上自身が研究の道に進みたかったのだと思う。だが自分は家のためにあきらめ、私にアカデミーを目指すことを勧めてくれた。優しくて知的で自慢の兄だった」
「ええ、よく存じております。本当に素敵な方でしたわ」
「そんな兄のためにも、そして我々2人のためにも最初からやり直したい。これからお互いを知っていきたいと思う。貴女はどうだろうか?」
奥様は真っ直ぐ旦那様を見つめました。
「私でよろしければ。お互いに知った上でその後の判断をいたしましょう」
「せっかくの機会だ。貴女も何か言いたいことがあれば話して欲しい」
奥様はしばし考えて旦那様を見つめました。
「それでは2点ほどよろしいでしょうか?」
「ああ」
旦那様がうなずきます。
「旦那様がなさっていた研究というのは王都でなければ出来ませんの?」
「え…?」
「どんなことをなさっていたのかは存じませんけれど、もしも資料や機材などが必要なら少しずつ揃えていけばよろしいではありませんか。家を継ぐために他をすべてあきらめてしまわなくてもよいと思いますの。もちろん領地経営など私も可能な限り支えてまいりますわ」
今度は旦那様が驚きで目を見開きました。
「いいのか…?」
うなずく奥様。
「もちろんですとも。好きなことに熱中できることはむしろ喜ぶべきことだと思いますわ。もちろんやるべきことをきちんとやった上でのことですけれど」
「ありがとう…貴女の柔軟さの方がよほど研究者に向いていると私は思う」
「あら、光栄ですわ」
奥様が初めて旦那様に微笑まれました。
「ではもう1点、よろしいでしょうか?」
「ああ」
「便利屋として請け負った妻として振舞う件は、お義母様が帰られた時点で終了としてよろしいのでしょうか?」
旦那様は少しだけ考えて奥様に告げました。
「すまないが、その件は延長してもらえないだろうか?」
「あら、いつまででございましょう?」
奥様は小さく首を傾げます。
「とりあえずお互いを知った上で判断するまでということで。今日までの分は支払うが、これからの分は一括後払いで頼む」
「かしこまりました。それでは後ほど契約書を交わしましょう」
お2人は微笑んでおられました。
私が父からこの屋敷の執事の役目を引き継いでから、もうどれくらい経ったでしょうか。
先日、この地の発展に尽力し、地方在住の研究者としても名が知れていた大旦那様が子供達や孫達に見守られながら眠るように息を引き取られ、今は大奥様とともに大旦那様の部屋の整理をしております。
「あらあら、ずいぶんと懐かしいものが出てきましたわ」
大旦那様とともに商業と福祉に尽力されていた大奥様が1枚の書類を手にしておられました。
それはすでに変色している大旦那様のサインが入った大奥様との契約書でした。
大奥様はうっすら涙を浮かべつつも微笑んでおっしゃいました。
「なんということでしょう!私としたことが踏み倒されてしまいましたわ。向こうへ行ったら文句を言わないといけませんわね」
天国のお父さん、大旦那様と大奥様の仲裁はいつものように貴方に任せたいと思います。
もっとも誰も大奥様には勝てないとは思いますが。