第1話 土の中にいる
「くうちゃん。」
彼女はいつも笑って俺の名前を呼んでくれた。
「私はくうちゃんと一緒にいたいな。」
夕日に染まる花畑で彼女はそう言って笑った。からっとした風が吹いて、君の黒い髪が揺れる。俺は君の言った言葉の意味も分からず、ただ君に見とれていた。君はそんな俺を見て、また笑った。彼女の白い、俺より少し小さな手が俺の頬を包み込む。そうしておでことおでこをくっつけて
「本当にいつまでも、一緒にいれたら良いのにね。」
赤く染まる空の下、泣きそうな声でそう言った君がどんな表情をしていたのか、俺は知らない。
目を開いたら、目の前が真っ暗だった。目が開いていないのかとも思ったけれど、どうやら違うようだ。本当に、光が届かない暗闇にいる。ただそれだけのようだ。手を伸ばせば湿った土のような感触がある。ペタペタと手で触ればひんやりとしていて、どうやら自分の体の周りに一定の空間を空けて土があることがわかる。小さな小さな部屋のような場所だった。土を押してみても何も起きない。どうして自分はここにいるんだろう。いつからここにいるんだろう。土の中にいる。どれくらいの深さなのかも想像できない。
ああ、どうでも良いか。もう一回、目を閉じて、寝てしまおう。ああ、確か前回もそうしたんだ。何て、感覚的に、思う。眠い。寝よう。起きてても、何も――――――
「くうちゃん。」
目を閉じて意識を手放そうとした俺の脳裏に夢で見た光景が浮かぶ。夢で見た、それでも、確かに過去にあった真実。怖いくらい赤い空。浮かぶ雲すら逆光で黒く見えるような禍々しさすら感じる空。その下で、赤に染められた花畑で、ほほ笑む少女。彼女の口が動く。
「くうちゃん。」
それは確かに俺の名前だった。途端に、寝てはいけないと思った。暗闇の中で目を見開く。彼女を、彼女を探さなければいけない。そんな焦りだけが心に湧き上がってくる。肩まで伸びた髪は黒かった。肌は俺より白かった。彼女を探さなければいけない。
「あ、あ゛あ゛あ゛あ゛!!あああああああああ!!」
必死で目の前の、自分の上の土を削る。耳に届いた醜い音が何なのか、そんなことを考えることも出来なかった。
彼女に会いたい。
彼女に会わなくちゃいけない!
そのためにはここから出なくてはいけない。
土が自分の体の上に落ちてきた。目にも口にも入ってきた。それでも手を動かすのを止められなかった。
土が、土が俺の体であったなら全ての土が俺なら、ここじゃなくてもっと上の方、地上の様子もすぐにわかるのに!!そんなことを頭の片隅で思った時だった。
体から重力がなくなるような、肉体を失うような奇妙な感覚を覚える。まるで土が水のような、空気のような、そんな感覚。気が付いたら俺は地面の上に倒れていた。何が起きたのか分からなかった。
けれど、これでやっと彼女を探せる。口元が知らないうちに緩む。ふらふらと立ち上がって辺りを見渡す。木がたくさん生えているから、森か林か。頭の中の記憶と上手くかみ合わない。寝起きだからか何も思い出せない。そもそも、今まで自分がどこにいたのか、どうしてそこにいたのかすら思い出せなかった。けれど彼女を探さなければいけない、という気持ちだけが俺の中を支配している。キョロキョロ辺りを見渡していると
「あなた!そんなところで何やってるのよ!!」
甲高い少女の声がした。声がしたほうを振り返れば茶色い柔らかそうな髪を頭の上の方で二つに結んだ女の子がいた。年齢は……10歳過ぎと言ったところだろうか。俺と同じか少し下くらいだろう。そう、俺は確か12……?くらいの年だった気がする。
「もう!ドロドロじゃない!!子供がそんなにドロドロじゃダメなのよ!!」
そう言った女の子はぴょんぴょん跳ねるように俺の前までやって来た。
「ほら、お母さんに綺麗にしてもらえるように言ってあげるから、うちに来なさい!」
そう言って女の子は俺の手を取った。取られた自分の手は確かに泥だらけだった。汚れた俺の手を迷わず取ったのか。少し驚いたけれど、そう言えば彼女もそうだった。
「汚れても洗えばいいの。くうちゃんと手を繋げないほうが問題よ。」
目の前の女の子は、彼女ではない。女の子は何者なんだろうか。尋ねようとして口を開いて
「ぎぐほっ!!!ごほっ!ごほごほっ!!!」
盛大にむせた。今までずっと使っていなかった部分を無理に動かしたみたいに、その部分が動くことを拒絶する。
「大丈夫?!あなた、風邪もひいてるの?お母さんにお薬も貰わなきゃ!!」
女の子は俺の手を引いて歩いて行った。