表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

月と河童と...

作者: 伊井下 弦

 墨田川に架かる両国橋を、ほんの少しだけ下ったところから枝分かれして流れる堅川の、2つ目の小さな橋のたもとに彼は居た。彼に気づく人間は、もう誰もいなかった。一昔前までは、この辺にも仲間がいたような覚えがある。元来彼らは自由な存在だったから何処に行こうと、それを引き留めもしないし誘いもしない。でも、最後までいた友は、頭上に石の道が張り巡らされたころ、「空が無くなった。」と言った。そう言ったあくる日に、姿を消した。川の上流に登ったか、天の川に昇ったか解らない。でも、河童は川なしでは居られない性分だから、どのみち川の側に居るに違いない。でもそんなことは、彼にとってもどうでもいいことだった。だって河童は、自由な存在だったから。


 彼は、月が好きだった。夜になるとこっそり起き出して、橋のたもとに植え付けられた柳の下で、膝を抱えて空を見るのが常だった。昔に比べると月を探し辛くはなったけど、でも時々は、頭上を渡って行く月を夜が明けるまで見ることができた。だから、彼はこの場所を捨てようとは思わなかった。月の来ない夜は、橋を見ていた。ただ朝が来るのを待っていた。そんな夜は何も起こらない事が、普通だったけど、でも極希に、橋の欄干から野良猫が流れを覗き込んでいたり、春には桜の花弁が春風に舞っていたりした。雨の降っているときは、月を見ることが出来なかったが、彼は雨も好きだった。だって、河童だったから。だから、日照りが続いた後、大粒の雨が音を立て始めると、橋の中央で朝まで、堪らず小躍りをしたりした。


 この夜も、彼は柳の下で膝を抱えて空を見ていた。でも、月は見あたら無かった。暫く月を待っては見たが、月は姿を見せる気配はなく、今度は橋を見ることにした。桜はずいぶんと前に散ってしまったはずだったし、今夜は野良猫も居なかった。結局、彼は橋を見ながら、朝を待つことにした。回りの家々の明かりが徐々に数を減らし、気が付くと道の脇に据えられた街灯が、点々と連なっているだけになっていた。「どうして最近の人間は、こうも器用に真っ直ぐに明かりを灯すのだろう。」と考えた。


その瞬間、生暖かい風が吹き頭上の柳が、わさわさと音を立てた。ふと頭上の柳に気を取られ、再び橋を見たとき、橋の真ん中には、中年の男が立っていた。どうやら男は酷く酔っているらしく、足元がおぼつかない様子だった。男は、よたよたと橋を渡ると、柳のすぐ側に置かれている石の腰掛けに腰を下ろした。男は、息苦しいのか襟元を掻きむしるように拡げ、時折ため息を繰り返した。大きな白い背中が、揺れるのを見ていると、河童はある衝動に駆られた。「一つこいつを驚かしてみよう。」彼にとって、そんな衝動に駆られることは、ずいぶんと久しいことであった。男は、終始俯いたまま、ため息を繰り返していた。そこで河童は、柳の葉を幾枚かむしり取り、男に近寄り正面にしゃがみこんで、男の顔を下から覗き込んでみた。苦しそうに肩で息を繰り返す男は、やはり彼に気付く様子はなかった。そこで彼は、手に持っていた葉を、男の頭からばらとばらまいてみた。男は、顔を左右にして柳の葉を払いのけ、そのうちの一枚を手に取って、それを首を傾げながらしげしげと見つめた。そんな様子を見て、彼は腹を抱えて笑いころげた。でも男が、再び肩で息をはじめると今度は、小さな石を一つ拾った。そして俯いた男の真下に来ると、今度は石を左から右へ、又右から左へと、ころがして見せた。男は、目をパチパチさせながらその小石を地面から拾い上げようとした。すかさず彼は小石を横取りし、つまみ上げた。男は、目を何度もこすりながら、宙に浮く小石を不思議そうに目で追った。彼は、ゆっくりと小石を持ち上げ、ちょうど男の額の上に来たところで、小石を手放した。小石は、一旦男の額に当り、地面へところがリ落ちた。次の瞬間男は、連なる街灯の彼方へと転がるようにして逃げ去った。河童は、逃げていく男の背中を指さして笑った、甲羅を地面に付け足をばたつかせながら、笑い転げた。


ひとしきり笑い続けた後、小さなため息を1つ尽き、掌を枕に空を見上げた。やはり月はそこに無かった、仕方なくこのまま朝を待とうと決めたとき、彼は微かな足音が、近づいてくるのに気がついた。耳を澄ましてみると足音と共に、忙しない息づかいが橋に向かって近づいてきた。彼は音の正体を確かめようと、橋の中央の欄干に立ち見下ろすと、眠そうに欠伸を繰り返す女と紐に繋がれた犬が、橋に向かって歩いてきていた。犬はしきりに尾を振りながら、あちらこちらと忙しなく地面を嗅ぎ歩き、女は犬に引かれながら、煩わしそうに犬を目で追った。犬は、河童のいる欄干の真下に来て、おもむろに片足を上げ、小便を始めた。彼は、欄干から飛び降り、犬の尻をひっぱたいた。犬は、突然の衝撃に驚き、即座に足と尾を下ろし、飼い主の女を見上げた。彼は、クスクスと笑いながら、今度は、犬の尾を思い切り引っ張った。犬は、腰を抜かさんばかりに驚いて、尻を落として走り出した。彼は、賺さず犬に飛び乗り尻を何度も打ち、犬は驚き全速力で橋の上を走り回った。なにがなんだか解らない女は、悲鳴を上げた。その声に更に犬は驚き、今来た道を一目さんに逃げ帰った。彼は、橋の袂で犬から飛び降り、地面をたたいて笑った。そして小躍りしながら、女たちが消えてゆくのを見送った。


 彼が、上機嫌で橋の天辺まで戻って来ると、石の腰掛けに一人の若者が座っていた。彼は、柳の葉をむしり取り、若者の側に寄っていった。そして、しゃがみこんで、若者の顔を下から覗き込んでみた。すると、どうしたことか、若者は彼を凝視した。河童は、驚いたが、人が自分に気づくはずは無いのだからと、若者の目の前で柳の葉をばらまいた。するとどうしたことだろう、若者は突然。「どうしたの?」と言った。河童は、仰天し後ずさりして尻餅をついてしまった。彼は、ゆっくりと腰を持ち上げながら、おそるおそる若者に話しかけた。「君には、僕が見えるのかい。」若者は、彼にこう言った。「うん、ずいぶんと前からね。僕がこの街に来てこの橋を初めて渡ったとき、その柳の下で膝を抱えて、川を見ていた。」そこまで言うと、彼はもう一つの石の腰掛けに、河童を招き寄せた。河童は腰を掛けながら、こう言った。「何度も、僕を見ていたの。」「うん。最初の時は、川を見ていた。二度目は、どしゃぶりの雨の中で踊っていた。月が出ている夜は、柳の下で膝を抱え嬉しそうに、空を見ていた。」そこまで言って若者は、空を見上げた。そして、こう続けた。「今日は、月が出てないね。」河童は、「うん。」と言って、空を見上げると、それきり黙ってしまった。若者も話を切り出そうとはしなかった。街灯が二人を照らし、頭上を人工の光が交差していたが、橋を渡る人は、ひとりもいなかった。 どれくらい経ったのか、生暖かい風が吹き、柳をわさわさと音立てた。若者は、ゆっくりと腰を上げ、こう言った。「そろそろ、行くよ。」河童は、小さく頷きながら「うん。」とだけ言った。若者は、ゆっくりと小さな坂を下って行った。河童は、若者の方をじっと見ていたが、石の腰掛けからは、離れようとはしなかった。若者は、真っ直ぐに連なる街灯を一つ一つ越え、どんどん小さくなって行き、やがて見えなくなった。


次の夜から、河童は月ではなく若者を待つようになった。雨の夜でも踊りはしなかったし、月が出ていることは知ってはいたが、もうじっと空を見上げることも無くなった。ただ石の腰掛けに座って、橋の向こう側から現れる人影を目で追った。幾つかの雨の夜の後、幾つかの月の夜が続いた。そしてこの夜は、雨も月も無くただ重たい雲が空一面を覆っていた。河童は、この日も石の上だった。橋の頂上を見上げていると、生暖かい風が吹き、柳がわさわさと音を立てた。次の瞬間あの若者が、橋の向こう側に現れた。河童は、石から離れ橋の頂上に差し掛かる若者へと、駆け寄った。若者は、酷く疲れている様子だったが、河童を見ると少しだけ微笑んだ。河童が彼の隣に来ると、若者は、そっと手を差し出した。河童は少し躊躇したが、若者の袖を軽く握って彼を見上げた。二人は、石の前まで歩き、以前と同じ位置に腰掛けた。


二人は、ただ風にそよぐ柳の葉音に耳を傾けていた。ただ黙って座っている若者を、河童が覗き込んだとき、若者は、河童の方を振り向きながらこう言った。「久しぶり、どうしていた。やっぱり君は、月を見ていたのかい。」河童は「うん。」とだけ答え、彼を待っていたことは、言わなかった。「月は、きれいだったかい。」若者がこういうと、河童は小さくうなずいた。河童は、何か話がしたいと思ったが、相手を気遣って話題を選ぶ習慣は、彼の住む世界にはないことだった。だから河童は、必死になって考えた。そして、やっとのことでこう言った。「そう言えば何度か、雨の夜だった。」 河童がそう言うと、若者は少しだけ驚いた様子で、こう言った。「君は、雨も好きなんだろ。」 河童が、「うん。」と答えると、若者がこう続けた。「雨の夜は、踊っていたんだろう。」 河童は、少し照れた様子で、小さくうなずいた。


二人の頭上を、人工の光が幾本も渡っていったとき。若者は、ゆっくりと腰を上げ、河童に手を差し出した。河童が、不思議そうに、若者を見上げると、「握手。」と言いながら、河童の手を握り締めた。河童は、驚き握りしめられた手を、あわてて解いた。若者は、「それじゃ、またね。」と言いって、坂を下ってだんだんと小さくなっていった。河童は、石の腰掛けから降りて、道の真ん中で、若者が小さくなっていくのを、いつまでも見守っていた。

 幾つかの雨を数え、幾つかの月が渡って行ったある夜、河童はやはり石の腰掛けの上で若者を待っていた。この夜は、満月が眩しいぐらいに彼を照らしていた。こんなにきれいな月は、久しぶりだと思いながら、地面に映し出される自分の影を目で追っていた。暫くして自分の影の先に、もう一つの影があることに気がついた。影の先を見上げてみると、若者が、立っていた。若者は、以前にように疲れた様子はなく、とても優しげな眼差しで、河童を見て微笑んだ。河童も、微笑みながら、石の腰掛けに招き寄せ、こう言った。久しぶりだね。」若者は、腰掛けながら続けた。「ほんと久しぶり、どうしていた。」 河童は、月を見上げて「月を見ていた。」と言った。河童はやはり本当のことは言えなかった。若者も月を見上げながら、「今日の月は、とてもきれいだね。」と言った。河童は、「うん。」とだけ言って、二人は暫く月を見上げたまま何も話そうとなしなかった。


二人の後ろで風にそよぐ柳が微かな音をたて、眩しいほどの月の光が二人を包み込んでいた。この夜ばかりは、頭上を渡る人工の光も雑音も、街灯の光さえも二人には、届きはしなかった。どのくらい時間が経ったのだろうか、月が丁度二人の頭上に来たとき、若者がぽつりと言った。「君は、やっぱり月が一番好きなの。」河童は、少し間を於いて、「うん。」とだけ答え、若者の方に振り返った。若者は、次にこう続けた。「そうか。だったら君は、月が出ている夜は、必ず月を見ているの。」河童は、若者の瞳が酷く寂しげに変わったように思え、少し怖かった。「そうだね、大抵は月を見ている。」そう言うと、河童は足下に目を遣った。若者は、頭上にある月を見上げて、静かに話し出した。「そうか、君は月が出ている時は、大抵月を見てるんだ。・・・。」 


ここまで言うと若者の話は、少しとぎれが、若者は、暫くしてこう続けた。「実は今日、君にお別れを言いに来たんだ。明日、田舎に帰るんだ。街は、もうおしまいい、もうおしまいにするんだ。」驚いた河童は、小さく頷づくことしかできなかった。どうすることもできない河童は、俯いて足下をじっと見ていたが、暫くして、小さな手を若者に差し出し、「握手。」 と言った。 若者は、また優しげな瞳に戻り、小さな冷たい手を、力強く握りしめた。河童は、人の手が、こんなにも暖かいものであることを、初めて知った。いつまでもこのまま、若者の手に触れていたいと感じた、そしていつまでも若者の側にいたいと思った。でも、彼にはどうすることもできなかった、やっぱり彼は河童だったから。二人はそれきり何も話さず、ただ月がお互いの影を長くしていくのを、目で追っていた。すごく長いはずの時間が、二人の間を、足早に通り過ぎ、月がすっかり傾いた頃、若者は、握りしめていた手をそっと放した。「そろそろ行かなきゃ。」若者がそう言うと、河童は、俯いたまま何も返事をしなかった。ゆっくり腰を上げた若者は、河童の前に立ち、小さな声で、「ありがとう。」と言った。河童は、一旦は若者を見上げたが、すぐさま俯き、長くなった二人の影に目を落とした。若者の影は、暫く動きはしなかったが、やがて彼の影が、河童の視界から徐々に消えていった。若者の影がすっかり消えたとき、河童は、石の腰掛けから飛び降りて、小さな坂の終点にさしかかった若者に、走り寄った。そして、若者の手を掴み、若者を見上げながら、「ありがとう。」と言うと、握り返そうとする若者の手を払い、橋の中央へと走りだした。橋の中央までくると再び振り返り、何度も振り返りながら消えゆく若者の姿をいつまでも、見守っていた。いつまでも、いつまでも。夜が明けると、橋の袂から河童は姿を消していた。そして、二度とこの場所に、彼が現れることはなかった。

           (完)





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネット小説大賞五
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ