焔―028 盃
新章開幕!
ここで時間軸的には影編最後に繋がります。
その日、その時。
影の物語は、静かに幕を閉じた。
――王の素質。
誰かに殺されることのない、絶対の資質。
歴史上類を見ない『素質』を持った者同士の激突は――内片方の、自滅という結果に幕を閉じた。
影の中に取り込まれていた『太陽』もまた消滅し、世界からは影と太陽が消失し、灰色に包まれた。
しかしその――通称『灰化』は混沌たちの住まう『悪魔界』を中心として、その世界に隣接する世界から進んでいるようで、時空間的にかなりの距離の存在する世界に被害が出るのはかなり先のことになるのだとか。
また、これは余談となるが、『影』の魂の確保、及び最悪の場合は転生まで視野に入れた死神は、灰化の直後にすぐ行動を起こすも、アルファの魂こそ見つかったものの、辛うじて器の残っている者達――大悪魔全員と、そして『影』の魂だけは、見つからなかったのだそうだ。
――影。
執行者、ギン=クラッシュベルの死。
どこからか漏れだしたその情報は瞬く間に大陸中へと拡散され、彼のクランがかつて存在していた場所からほど近い森の中に。
――ひっそりと、墓が作られたのだそうだ。
☆☆☆
パタンと、本を閉じる音がする。
「クハハッ、やはり死にましたか。あらかじめ未来を見ていたとはいえ、彼に肩入れしていた分、少しショックでもありますね」
木に背中を預けたメフィストは、近場の街で購入した『変わった世界と伝説の死』という本の表紙へと視線を落とす。
「にしても、一体『どこから』こんなにも詳しい情報が出回ったのでしょうかね。あれから一年も経っていないのに」
「さぁな。俺に聞かれても」
メフィストの遠まわしな表現に、感情の酷く欠けた、冷たい声が返ってくる。
その言葉にメフィストは口元に笑みを浮かべると。
「あぁ、貴方は彼ほど頭が良くないんでしたね。ならばストレートに聞きましょうか」
メフィストは本を放り投げる。
彼の視線は真っ直ぐ、その墓の前に立つ一人の人物へと向かっていた。
――赤いローブに、仮面を被った白髪の男。
メフィストは、十字架をモチーフとされた質素な墓を前に佇むその男の名を、口元の笑みを隠すことなく呟いた。
「さぁ、ギン=クラッシュベルは死にましたよ。そろそろ動き始めてはどうですか? ギル」
メフィストの言葉に、ギルは仮面の下で嘲笑する。
「動く? もう随分と大きく動いたつもりだが?」
「いやいや、まだまだ制限も残っておりますしー、何でしたっけ? あの探し物とかまだ残っておりますでしょう?」
――探し物、と。
その言葉に、墓を前に立っていたギルは背後のメフィストフェレスを振り返る。
「最も可能性のある王国には存在しなかった。あの男のクランの本拠地が残されている王都。そしてあの男に最も縁のある始まりの街、パシリア。そして白夜。この三つに無かったとなると、残りは……」
「恭香殿か、あるいは――と言った感じですかな」
その言葉にギルはふっと虚空を見上げる。
「……はぁ」
それは、どんな思いが込められた吐息だったか。
諦念か呆れか嘲笑か、あるいはただの哀愁か。
「思えば、遠い所まで来たものだ」
「……まぁ、否定はしませんが」
メフィストの言葉にギルは小さく笑みを零すと、懐から一つの盃と水筒を取り出した。
「なぁ、ギン=クラッシュベル。貴様は俺が間違っていると思うか?」
水筒を傾ければ盃の中が水で満たされてゆき、小さな盃はすぐにその臨界点を迎える。
「俺はこの道が正しいと確信している。世界に救いなどありはせず、待っているのは小さな幸せとその犠牲となった多くの不幸、それだけだ。なればそんな世界など壊してしまえ。救いがないと分かったのならば、今この瞬間に終わらせてしませ。さすればせめて、次代の不幸は現れぬであろうさ」
ギルは水筒を放り、盃を掲げる。
「とは言ったものの、それらは全て此の身からこぼれ落ちた我が儘よ。人類に『滅びるか』と問うたところで『否』と答えるだろう。故に問わん。黙って滅びろ、滅びの運命を受け入れよ。次代を思ってその身その命、世界と共に無へと帰せ」
そう笑った彼は、その水を十字架の墓へと振り撒いた。飲むでもなく、与えるでもなく、ただ物を投げつけるようにして振り撒いた。
「俺はこれより世界を壊す。まだ約束の時までは時間はあるが、その間にもやらねばならぬことが多くてな。故に決別だ執行者。世界で一番の愚か者、幸せの礎となり続けた世界で一番の犠牲者よ」
パリィンっと、叩きつけられた盃が割れる。
それはもう、ここへは帰ってこないということの証明。決死の覚悟を決めたという、何よりの証拠。
もう彼は絶対に止まらない。
手足を失い、目を奪われ、脳を喰われ、世界中から嘲笑われても、それでもなお知ったことかと突き進む。
元より止まることなど知らぬその身は。
「さて、世界終焉の始まりだ」
世界が終わるその日まで。
きっと、止まることはないであろう。
☆☆☆
世界は決して、美しくないし面白くもない。
それが彼女の持論であった。
世界は決して美しくない。
世界は冷たくて、恐ろしくて、そして何より残酷だ。
こんなものを作り上げた創造神のおじいちゃんに何度恨みを抱いたか知れない。何度地母神のおばあちゃんに抗議しに行ったか知れない。
けれどまぁ、ごく稀に。
面白い輝きを放つ存在も、居るには居るのだ。
「……はぁ」
その吐息は、どんな感情によるものか。
ただのため息だったのかもしれない。
もしかしたら複雑な感情を言葉に言い表せずに漏れ出たものだったかもしれないし、あるいは自らの危機を察知しておきながら、それを回避できない運命を呪ったものだったのかもしれない。
「……私も、死んじゃうのかな」
ふっと、彼女は笑った。
彼女自身が魅了された『輝き』はもう消えた。世界に押し潰されて、死んでいった。
もちろん一度は絶望した、けれど。
『世話かけて悪いな。頼むよゼウス』
その言葉を思い出して、ふっと笑った。
「そう言われたら、断れないよ。ギンくん」
そう呟いた彼女――全能神ゼウスは、ふっと顔を上げる。
広がるのは灰色に染まった自分の世界。
窓を開け放ち、廊下に座って外を見ていた彼女は、その光景の中に見覚えのない男が立っていることに気付いていた。
赤い外套。
天蓋を被ったその男は片腕で小さくそれを押し上げると、その下からは白い髪と、一枚の仮面が窺えた。
「お初にお目にかかる、全能神ゼウス。俺の名は――」
「御託はいい。お前の正体も、何をしようとしてるかも、みんなみんな知っている。そして、こうして会うのが『二回目』だってことも、知っている」
その男――ギルの言葉を一蹴したゼウスは廊下から立ち上がって庭へと降り立つと、スッと右手を肩の横まで上げる。
するとその掌には彼女が誇る最古にして最高の神器、雷霆ケラウノスが召喚される。
「目的は、ギンくんが私に預けた『モノ』を奪いに来た、って感じ、でしょ? エルメス王国にも、白夜ちゃんにも無かったから、恭香ちゃんに会う自信がなくて、仕方なく私のところに来た」
「……ふっ、会う自信が無い? 何を馬鹿な――」
「そういう『演技』が要らないと言っている」
淡々と一蹴された言葉を飲み込むと、ギルは仮面越しにゼウスの作り出した世界を見渡してゆく。
「……演技、か。悪いがこれは演技じゃないさ。心の底からこう思って、そして自信を持って動いてる。別に、お前にどうこう言われる筋合いはないはずだがな。全能神ゼウス」
かくしてふっと笑った彼は、改めてゼウスへと視線を投げる。
「俺は言ったはずだ。偽りの平和など要らぬと。世界を救済することなど出来ぬと。俺な求めるは屍の上に成り立った小さな幸せ。それだけだ」
「……」
その言葉に瞼を閉ざしたゼウスは、小さく息を吐いた。
「全知全能の神の名の元に断ずる。貴方は最後に失敗する。決して、救いの熾火は完成しない」
直後に雷霆が帯電を始め、バチバチと危険な音が周囲へと鳴り響く。
ゼウスは瞼を開く。
そのオッドアイで真っ直ぐにギルを見つめた彼女は。
迷うでもなく、言いどもるでも無く。
大きな自身を以て、断言した。
「失敗する確率は――100%だよ」
「戯言を抜かすな雑魚が」
直後、衝撃波が吹き荒れた。
一瞬にして掻き消えた二人は庭の真中で拳を激突させており、たったそれだけで地面が割れ、ゼウスの家が崩壊してゆく。
「フ――ッ!」
ギルの拳が唸りを上げてゼウスの腹へと叩き込まれるが、直前に割り込ませた腕で拳を避けた彼女は、足でギルの顎を蹴りあげる。
ギルの被っていた天蓋が宙を舞い、一瞬だけギルの姿がゼウスの視界から隠れ――その直後、ゼウスの背後にギルの姿が浮かび上がる。だが。
「チッ……!」
上空に浮遊していた雷霆から数多の雷撃が降り注ぎ、拳を構えていたギルは咄嗟にその場を飛び退る。
――全能神ゼウスは、到達者ではない。
にも関わらずこれだけの力を誇っているからこそ、あのクロノスが養子として向かい入れ、全能の神の名を冠することを許されたのだ。
「全く……、存在が反則という言葉を体現しているな」
「もちろん。なにせ私は全知全能の神様だから」
そう小さく笑んだ彼女はふっと雷霆を手元に浮かべると。
「私の強さは、絶対に劣らない」
その言葉に、ギルは仮面の下で獰猛に笑った。




