焔―024 仮面の男
――その時。
その場にいた誰もが、その膨大な魔力に気が付いた。
霧で姿なんて見えやしない。
けれども、これだけ距離が離れていてもなお感じられるその膨大な魔力に、思わずウラノスはフッと吹き出したように笑ってしまう。
「……どうやら、引き継ぎは終わったみたいだね」
そう言った彼は真正面へと向き直る。
そこには傷つき、命を落として全滅した戒神衆の姿と、それらを背後に佇んでいる一人の男の姿があった。
その男はかの方向へと視線を向けたまま固まっており、その姿にウラノスは冷笑を貼り付ける。
「さーて、こちらの準備は整った。君はどうするんだい、ギル?」
「……」
その男――ギルはウラノスの言葉に小さくため息を吐くと、ウラノスの方へと視線を投げる。
「……時間稼ぎに徹しているかと思えば、初めからこれが理由か。神王ウラノス」
「正解。彼の器はドン引きするくらい大きかったからね。まず間違いなく、扉を開ければ当時のギンやクロノスを超えるだろうって確信してた」
なるほど。そう小さく頷いたギルは、再びその方向へと視線を投げる。
そして一言――
「なれば、俺が出るか」
――瞬間、薄い刃を首筋に当てられたような戦慄が走り抜け、ウラノスは一瞬の硬直の後に駆け出した。
「させると思ったかい!」
その手に取り出したのは、彼が秘密裏に創り出した一振りの神剣。その刃は真っ直ぐにギルの首へと向かってゆき――ふっと、空を斬り裂いた。
「な――」
「貴様ごときに本気を出していたとでも思ったか?」
どこからか声が響き、とっさに周囲を見渡したウラノスであったが、けれど彼の姿はどこにも見当たらない。
全身に汗が流れるような不気味さに思わず拳を握りしめ、その魔力の溢れる方向へと視線を向ける。
すると、ギルの赤い背中が霧の中へと消えてゆくのが視界に入り――
「ま、まずい……! まずいまずいまずい! 久瀬くん! 今すぐにそこから逃げるんだ!」
咄嗟に送ったその念話は。
かくして『なにか』にジャミングされて、彼の場所へは届かなかった。
☆☆☆
ふと、何か違和感を覚えた。
まるで世界そのものが別のものへと挿げ替えられたような、理性ではなく直感の部分で感じてしまった小さな違和感。
咄嗟に周囲へと視線を巡らせて――けれど、それより先にベルフェゴールが動き出した。
「レヴィ! 僕達がここで死ぬのはまずい! ボスも来てる事だし一旦逃げるよ!」
「うん、賛成……」
そう声を上げる二人に視線を向けると、そこには――まだ在庫が残っていたのか、数多くの武具が浮遊していた。
「悪いね久瀬竜馬! 僕はこれでも、勝ち目のない戦いはしない主義なんだ! だからさようなら永遠に会いませんように!」
ベルフェゴールがそう言いながら逃亡し、レヴィアタンとその従者の二人がフッとその場から消失する。おそらく毒の霧を深くして身を隠したのだろう。
――けれど。
「逃がすとでも思ったか?」
片頬に刃のような冷笑を貼り付けて、体の底から膨大な魔力を汲み上げる。
「行くぞ青龍」
『ふん、いきなり頼もしくなったものだな? まぁよい、今の貴様なら私の力も余すところなく使えそうだ』
青龍がそう呟いた――次の瞬間。
漂っていた青い魔力が形を変え、鋭い槍のように変形する。
青龍の力――それは、魔力の具現化。
魔力そのものに形と攻撃性を持たせ、防御させる暇もなく破壊し尽くす最強の攻撃屋。
それこそが青龍であり、その力は一転、防御にも応用できる。
「全てを貫け――『蒼の魔槍』」
俺の周囲に漂っていた全ての魔力が一気に放出され、数多の槍が一斉に噴射される。
それらは空中でさらに枝分かれしていくつもの小さな槍へと姿を変え、一瞬にしてそれらの武具を貫き尽くす。
「げぇっ!? 僕の長年集めたコレクションが!!」
小さく振り向いたベルフェゴールが愕然と声を上げ、それと同時に奴の方へと走り出す。
その速度は今までとは比べ物にならず、思わずバランスを崩してしまいそうになる。
けれど、これなら追いつく。
まだまだこの力には慣れていないし、扱いきれてもいないけれど。……それでも、これなら勝てる。
そう走り出して――
「――――」
どこからか――鼻歌が聞こえてきた。
「こ、これは……!?」
咄嗟に足を止めて、周囲を見渡す。
それは、妙に覚えのある鼻歌だった。
もう忘れることなんて出来やしない、俺のよく知る、鼻歌だった。
「世界は、理不尽だとは思わないか? 努力は報われず、苦労しても何もなし得ず、一度の失敗で全てが無駄と散るこの世界が、醜いとは思わないか?」
どこからか、聞き覚えのない声が聞こえる。
血も凍るような不気味さに思わず一歩後退り――
「――ようこそ到達者よ。早速だが死にたまえ」
――首筋に、鎌がかけられている事に気付く。
「――ッ!? 九尾ッ!」
『分かっとるわ!!』
すぐさま俺の姿が転移し、それと同時に先程まで俺のいた場所を黒い鎌が斬り裂いた。
「ハァッ、ハァッ……」
刹那の瞬間に浴びせられた膨大な殺気に、思わず息が荒くなる。恐怖に息が詰まり、絶望の淵に追いやられたかの如く足が竦みそうになる。
「……ふむ。到達者相手に油断が過ぎたか。いかんな、まだまだ調節が不十分らしい」
そう淡々と呟いたのは、一人の男。
赤い外套に身を包み、天蓋を被ったその男は。
短く刈られた白髪を小さく風に揺らしながら――その仮面の奥の瞳を、スッと俺へと向けてきた。
事前に聞いたとおりの風貌に、今の俺でさえ感じる濃厚な『敗色』の気配。
間違いない、この男が『ギル』だ。
そう、ギルに違いないのだ。
――なのに。
「――そ、その、仮面は……!」
その仮面を見て、俺は唖然と目を見開いた。
知っている、俺はその仮面を、その鼻歌を、よく知っている。
両眼のところに穴の空いた、子供が被るにしてはいろいろとセンスがおかしな、一枚の仮面。
見間違うはずもない。その仮面は……。
「やぁ少年。久しぶりで、初めましてだ」
思わず拳を握りしめる。
――思い至る一つの可能性。
有り得るはずがない……けれど。
何故、ウラノスさんはこの男に会いに行った?
何故、コイツの存在を誰一人として知らなかった?
何故、コイツはあの過去を知っている?
考えたくもない最悪の答え。
それでも、全細胞がその答えを指し示す。
コイツは……、コイツの正体は――
「……ほう、俺の前で考え事とは随分と余裕があったものだな、久瀬竜馬」
ふと響いた言葉に目が覚める。
見れば鎌を片手に持ったその男は真っ直ぐに俺へと視線を向けてきており、吹きすさぶ風がその外套を揺らしてゆく。
「俺の正体。そんなものはどうだっていい。俺はこの世界が気に食わん。努力が報われず、夢も叶わず、ただ残酷な現実のみが我が物顔で跋扈するこの世界に、悲嘆せずにはいられない。いや、慨嘆、と言った方が正しいか。だからこそ壊す。それ以下でも、それ以上でもない。ましてや俺の正体など……そこに介入する必要あるまいさ」
そう嘆くように言った男は、スッとその鎌の切っ先を俺へと向けてくる。
「悲しみ嘆いているのではない。この世界に悲しむ価値などどこにもない。故に俺は、怒り嘆いているのだ。醜く、おぞましく、浅ましいこの世界に、慨嘆せざるを得ないのだ」
ふと、レヴィアタンの言葉を思い出す。
『今のボスは混沌ほど優しくはないけれど、それでも彼のやってることを、間違ってるだなんて言えっこない。だから私は協力する』
あぁ、確かに間違っているだなんて言えっこない。
この男の正体を知ってしまえば、俺たちにこの男を否定することなんて出来やしないのだ。
この男は最高に間違っていて、正しいのだから。
間違っているのに正しい。最悪の矛盾を抱え込んだこの男――ギルを前に、恐怖を噛み殺して立ち上がる。
「……本当に、そうなのかは分からないけれど。でも、世界っていうのはそんなに悪くない。人々は楽しく日々を謳歌し、子供たちは笑ってはしゃいでいる。そんな世界を――」
「戯言を。貴様は何もわかっていない。世界を救う? あの男が我が物顔でいられる世界を守りたい? 笑わせるな、そんなものは自らの意思ではない。奴から託された洗脳に過ぎん。そんなもの、そこいらの犬にでも食わせておけ」
そう呟いた男はフッと肩を竦めると、貴様とて知っているだろうと言葉を続ける。
「貴様自身が一番知っているはずだ。この世界は残酷だ。強者が弱者をいたぶり、それを諌めるべき存在すらも見て見ぬふりを決行する。知っているはずだ。身をもって、覚えているはずだ。何より貴様は、それをその身で味わってきたのだから」
あぁ、忘れられるはずがない。
忘れたことなんて、一度もない。
いじめられ、周りからは『冗談だろ』の一言で済まされ、教師達にも見て見ぬふりをされ続けた――あの地獄。
忘れられるはずもない。
けれど――
「……それは、お前の傲慢で、我儘だろう?」
淡々と言い返すと、小さく首を傾げて鎌を下げたギルは、少しして堰が外れたように笑い出す。
「フハ、フハハハハ! ハハハハハハッ! そうか、我儘か、傲慢か! なるほど貴様、どうやら弱虫は止めていたらしい」
そう笑った彼は仮面を抑えると、喜色を声に滲ませてあぁそうだと言葉を続ける。
「その通りだ。悪いな人類。悪いな世界。悪いな神々。俺は自分の我儘で世界を滅ぼす。滅ぼし、破壊し尽くし、エデンの園を造り上げる。もう苦しまない、理不尽なんてどこにもない。理想郷を、桃源郷を、常世の国を、パラダイスを、この手で作り上げる」
――狂っている。
あぁ分かった。コイツはもう、狂ってる。
絶望の中に突き落とされ、苦悩し、悲嘆し、激昂し、慟哭し、その果てに慨嘆した。
そして――狂い果てた。
「なぁおい、一体誰が世界を救えるんだ? 逆に聞くぞ久瀬竜馬、貴様はあの男の意思を継ぎこの俺を倒し、その先に何を為す? そう、何も為しやしないだろう! 人も神も主人公でさえ、世界は絶対に救えない! 神がなんだ、人がなんだ。全てを蹴散らし、その後は優雅に暮らして死んでゆく。天寿を果たして死んでゆく。ならばその道程で不幸になったものはどうなる? 誰にも見られず路肩で死んでゆく子供達はどうなる? ――残された者は一体どうなる?」
「それ、は……」
どうすることも出来やしない。
世界から悲しみがなくなることなんて……あるはずが無い。
そんな世界は――多分、人だろうと神だろうと、そこに意思がある限り作ることなんて出来やしない。
俺の内心を読んだように奴はケラケラと嗤うと、握った拳を胸に叩きつける。
「もう、何も信じやしない。もう、全てを守るだなんて嘯かない。救えるもの、救えないもの。このちっぽけな手で拾えるもの。この小さな手じゃ拾い尽くせないもの。それら二つがある残酷な事実を受け止める」
それは悲痛な叫びだ。
考えに考え、絶望の中で苦しみ続け、その果てに狂ってしまった哀れな男の――その末路。
「世界を救済するなど嘯かんさ。世界を救うなど出来るはずもない。世界を救う、そんなものは栄誉を尽くしたい者の戯言よ。栄誉を尽くし、その影で路肩の子供を見殺しにする屑の理想論だ。希望的観測だ。だから俺は嘯かない。現実を見る。そしてその中で最善の手段を取った」
――それが、これだ。
そう呟く男の姿に、思わず奥歯を噛み締める。
あぁ、やっぱり否定なんて出来やしない。
この男の言っていることはすべてが我儘。
それ故に間違っていて――
「俺は世界を救えない。故に俺は選択する。大切な一握りの【一】を救うために――」
――きっとこの男は、誰よりも正しいのだ。
「俺は他の全てを――斬り捨てる」
混沌戦終わったときに「これ以上の書けるんですか」と考えた皆さまへ。
「うわきっつー……」ってレベルの見舞ってやりますとも。




