焔―008 蝿の王
エルメス王国。
その首都の中心で、エルグリッドは巨大な蝿を冒険者達と共に殴り倒していた。
「クソッ! どうなってんだこりゃァッッ!」
前国王、エルグリッド・フォン・エルメス。
彼の背後には傷を負った多くの冒険者たちの姿があり、思わず背後を振り返って歯噛みする。
(クソ……ッ! 数年前と比べりゃ冒険者たちも力がついてきたが、それでもこの蝿一匹仕留めるのに熟練冒険者が数人は必要ときた。俺もせいぜい三、四匹が限度……)
参ったなこりゃあ、と。
エルグリッドは頬についた返り血を拭いながら苦笑する。
――始まりは唐突だった。
王国が誇る宮廷魔導師たちが、南方より迫り来る【蝿】の群れを確認したのがおおよそ三十分前。
それら一匹一匹が五メートル近い体格を持っており、不幸中の幸い、一匹一匹はさほど強くはないが――
「如何せん、数が多すぎるぞよ」
隣から聞こえてきた声に視線を向ければ、そこには昔からの顔なじみである一人の女性が佇んでいた。
「グレイスさん……、軽く見積もって何匹くらいいるんでしょうかね?」
「そうさのぅ……。かる――――く、見積もっても」
言って上空を見上げる二人。
その視線の先には灰色の空は存在しておらず、空をを埋め尽くすほどの――【蝿】で溢れていた。
「――億は、いっとるんじゃないかの」
軽く見積もって、億。
その事実に笑うほかなかったエルグリッドは大きく息を吐くと、両腕につけたガントレットを突き付ける。
「まぁ、久瀬パーティもいない今、内半分以上は貴女にお任せする流れになると思いますが……」
「そうなるかの、やっぱり」
「そうなりますね、やっぱり」
ポリポリと頬をかいたグレイスは小さくため息を吐く。
視線の先には、上空に広がる群れの中から飛び出してくる数匹の蝿の姿があり、それを見てグレイスは――
「面倒くさいのぅ……」
――瞬間、周囲一体が氷土と化した。
上空を飛んでいた蝿は冷気に当てられて凍り付き、上空の蝿たちが警戒したように大きくざわめく。
蝿――つまりは虫の弱点。
それはきっと……冷気だろう。
「最近は食っちゃ寝ては久瀬の小僧と遊んでただけだしの。たまにはちっと、師匠らしいところも見せるぞよ」
氷魔の王――グレイス。
かつてのギンの師であり、久瀬たちの師匠でもある彼女は。
かつての彼のように口の端を吊り上げ、笑って見せた。
☆☆☆
「こぉれは……、不味いかしらねぇ?」
その男――【暴食の罪】を司る蝿の王は、眼下の光景を眺めながら小さく呟く。
視線の先には、どこかで見覚えのある少女が自らの眷属たる蝿の群れ相手に無双劇を繰り広げている。
(どこで見たんだったかしら……?)
そう考えて、ふと思い出す。
「あ、合コン会場で会ったわね、そう言えば」
そう、それはギンがまだ学園に通っていた頃。
たまには人間の♂でも『喰おう』と考えていたベルゼブブは、人間に扮して合コンへと乱入したのだ。
ちょうどその時、女性側としていたのが彼女――ちょうどギンがクランへと帰省していた時のグレイスである。
「なぁるほど。あの容姿で合コン来てる時点で只者じゃないとは思ってたけれど……、かなり強い相手みたいねぇん♡」
――ガイズちゃんでも呼び戻そうかしら。
ふと、そんなことを考えたが、話に聞くに、彼が任された『森』というのもかなり重要度が高いようであった。
故に、それなりの抗戦が予想されるとされていた。
「まぁ、ガイズちゃんに関してはそこら辺気にしてないけれど、仕事中だったら嫌だものねぇー」
――戒神衆の筆頭、ガイズ。
かつて白夜と輝夜を同時に相手してもなお生き残り、かつて、サタンと相対した際のギンと戦っても生き延びるだろうと、他でもないサタンがそう認めるほどの実力者。
さらには現・時空神たる白夜でさえ取り逃すほどの逃げ足の速さを持つガイズ。もしも今の彼を倒しきれるとすれば、それは間違いなくベルゼブブと同格……いや、サタンと同格か、それ以上でなければならない。
「そんなもの、あの子以外有り得ないわよねぇ……」
ふと思い出すは、かつて自分を殺した一人の青年。
逆境に立たされてもなお、簡単にその戦況をひっくり返す。
言うなれば――【最強の“個”】だろうか。
「あの子は、強かったわねぇ……」
頬を赤く染め、ウットリとした表情で呟く彼。
強い者に惹かれる。それが同性――男だったならばなお惹かれる。それがベルゼブブという変態である。
閑話休題。
「ま、ガイズちゃんもあの子相手なら逃げられないと思うけれど。あの子も死んじゃったみたいだしぃ……、サタンちゃんからでも逃げられそうなあの子が死ぬなんて、そうそうないわよねぇ」
自分の中で一通りの納得をつけた彼は、再度眼下を見下す。
しかし、そこには先程まで暴れていたあの少女のような外見をした女性は存在しておらず――
「みぃつけた、ぞよ」
背後から、声が響いた。
「――ッッ!?」
咄嗟に両腕を頭の上で固めるが――
「がは……!?」
腹へと、重い拳が突き刺さる。
口から鮮血が溢れる。体ごと後方へと吹き飛ばされるが、咄嗟に近くの蝿の上へと飛び乗り、拳を受けた腹を押さえつける。
「だぁ……もう! こっちにもいるじゃないの、化け物が……!」
ベルゼブブが睨み据える先には、背中から氷の翼を生やしたグレイスが浮かんでいた。
その体からは膨大な冷気が溢れ出しており、その周囲に存在していた眷属たちが一瞬にして絶命してゆく。
――相性が悪い。
それはもちろんの事だが、それ以上に。
(コイツ……、ぶっちぎって強いわね)
もちろん、混沌と比べれば大したことは無い。
それでも、まず間違いなく――
(私と同格……いや、メフィストちゃん、サタンちゃんともマトモに殺り合えるレベルの怪物……ッ♡)
思わず身が震える。
彼は『男』が好きだ。
しかし『男』よりも『強者』の方が余程いい。
そんな、変態を通り越した。
悪魔界でも類を見ないほどの――
「ぃヒィッ♡」
――戦闘狂である。
獰猛に笑うベルゼブブを眺めていたグレイスは、冷気をあげる自らの拳へと視線を下ろしてため息を吐く。
「ふむ……、ワシも数年前と比べれば圧倒的に強くなったつもりだったのだが……。今ので倒せないとなると、大悪魔ぞよ?」
「せっいかぁーい♡ 強くて頭のいい子、私大好きよぉ♡」
「……ワシ、そっちの気ないぞよ」
思わずポカンとしてそう返すグレイスに。
大きく顔を『笑み』に歪めたベルゼブブは、両拳を構えた。
「そぉーんなのどうでもいいわッ! 私が愛していればそれでいい! 私が戦いで頂点へとイクことが出来ればそれでイイッ!」
その言葉に、その狂気に。
グレイスは思わず苦笑いしてしまう。
――なるほど。こういうタイプかと。
あまりにもキャラが濃すぎる。自分もなかなかに濃い方だとは思うが、それでもこの濃さは常軌を逸している。
――だが。
そう続け、フッと笑って思い出す。
円環龍にさえ喧嘩を売る我らがリーダー。
少し目を離せば気配が掴めない腹黒エルフ。
頑固者で分からず屋な土臭いドワーフ。
小さい癖に胸だけはある馬鹿魔王。
でかい図体と豪快さだけが取り得の馬鹿獣王。
そして、何だかんだで一番付き合いの長いのが、いつまでたっても結婚出来ない――行き遅れた死神。
「アイツらに比べれば、大したことは無いぞよ」
拳を構える。
その体は、かつて全盛期に使っていたものよりもさらに高位の防具によって固められており、彼女自身の力は、限界だと疑ってやまなかった全盛期――当時の彼女すらも、遥かに上回る。
「さての、最近、弟子に抜かれた上に先に逝かれ、勝ち逃げされた感があってストレスがたまっておったのぞよ」
――故に。
そう続けた彼女は凄惨に笑って。
「どこの誰だか知らぬが、とりあえず、ストレス発散にぶん殴らせて貰うぞよ」
その両拳は、膨大な冷気を吹き上げていた。
次回から、氷魔の王VS蝿の王をお送りします。
久瀬たちの出てくるのはもうちょい後です。




