影―107 鬼
いつの間にこうなった……。
アルファは、今の一撃を躱したサタンに、内心で大きな焦りを感じていた。
(おいおい……、今のを躱すってマジかよ……)
今の一撃は、アルファが自らに負担をかけないように加速した最大速度である。その一撃――しかも不意打ちを、頬に傷一つつけただけで躱すなど……。
(コイツ、本当に生物って域かよ……?)
小さく、頬に冷や汗が伝ったのが分かった。
――焦っている。
その事実はいくら誤魔化そうと変わらない。サタンは想像していた以上に強すぎたのだ。――それこそ、あの男が本当に敗北しかけない程に。
それに関しては『ギンが敗北した』という言葉を軽く見たアルファの落ち度。けれどアルファは、サタンの予想以上の強さに焦ってはいても――後悔してはいなかった。
「……ふぅ」
大きく息を吐き出して、拳を構える。
誰かに戦い方を習ったことなど一度もない。誰かから技を盗んだことも一度としてない。
皆無の才能と、絶対の努力によって磨かれたその構えは未完成にして完成形。アルファの戦闘方法に極限まで特化した、彼だけの構え。
「こういう極限に至って、改めて実感するぜ。信じられるのは、自分の強さと努力だけだ、ってな」
アルファは、どこかで直感していた。
サタンは、自分の同類。
――才能の欠如した、努力馬鹿だと言うことを。
そして、それはサタンも同じだったのか。
「ククッ……、果てしなく同感だ――ッ!」
直後、サタンが先ほどのアルファにも迫る勢いで駆け出した。
根源化を使わず既にその速度。
目を細め、拳を握りしめたアルファは――
「フッ!」
――背後から飛来した、緑色の槍を手の甲で弾き飛ばした。
『うーん……、今のは自信あったんだけどなぁ』
緑色の大蠍――ベルフェゴールの声が響き渡った直後、周囲へと紫色の霧が立ちこめる。
「チッ……!」
――毒霧。
一瞬にしてそこまで考え至ったアルファはすぐさまその場から退避するべく走り出す。
アルファの持つユニークスキル『ド根性』は、言うなれば我慢と根性によるスキルである。
ド根性ならば、たしかにこの毒霧を無効化することが出来るだろう。けれど、それは正確に言えば無効化ではなく――痩せ我慢である。
たとえ限りなく無効化できたとしても、負担の一握りは自らの体に溜まってゆく。その結果、もしも痩せ我慢が溜まりに溜まってしまったら――その痩せ我慢は、体の崩壊となって表に現れる。
故に、サタンとの死闘が迫る今、こんな霧ごときで負担を増やすことは出来ないと察したアルファはすぐさま走り出して――
「――ッッ!!」
背後から迸る膨大な殺気に、思わず背筋を凍らせた。
「一瞬、俺から意識を逸らしたな?」
彼がサタンから意識を外していたのは――時間にしてコンマ一秒にも満たない一瞬だった。
しかしサタンを前にその一瞬は、致命的だった。
「さて、この傷の借りを返すとしよう」
一瞬にして背後へと移動していたサタンは、ぎゅっと右の拳を握りしめる。
ボウッと拳へと炎がまとわりつき、アルファの身体中の細胞がその拳に警報を上げ始める。
受ければ――ヤバイ。
直感しながらも、目を見開いたアルファは――
「これで終わりだ。『悪魔の絶拳』」
周囲へと爆炎が荒れ狂い、アルファは目の前へと迫る拳をただ見つめていた。
☆☆☆
未開地の奥地。
そこには二人の老人が隠れ住んでいる。
その場所はかつて未開地に住んでいた白夜や、修行中のギンでさえ絶対に近づかなかった深奥。
その空間には空間を歪める結界が貼られており、その中に存在するのは広大な荒野。error級が闊歩し、Deus級の姿さえ見られる――正しく地獄。
その場所から魔物が出ないように守っているのがその老人夫婦であり――アルファは、三年間その地獄に住んでいた。
ゼロやアイクは老人たちに技を教わり、更なる進化を遂げたが、二人の戦い方はあくまでも剣術。アルファには到底合わない戦い方だった。
だからこそ彼は――そこ場所の【主】に、教えを乞うことにした。
その歪んだ荒野の、さらに奥。
瘴気が立ちこめる、Deus級の魔物でさえ滅多なことでは立ち入らないとされる危険地帯。
その中心地に――奴は封印されていた。
『来客とは、珍しい。神々は俺を殺すことが出来ないと知り、ここに封印したのだと思っていたんだが』
かつて、世界を恐怖のどん底へと陥れた最強の鬼。
神々も応戦したが殺しきることは出来ず、結果として鬼を幾つもの肉体と魂にわけ、各地に封印した。
そのうち殆どが『奈落』へと封印されていたが、うち一つだけが、この大陸へと封印された。
この地に封印された鬼の魂は、まだ善良な部分。逆に奈落へと封印されたのは、極悪な部分、人間味のある部分、様々だ。
その『善良な部分』へと、アルファは開口一番にこう言ったのだ。
『悪鬼羅刹。俺を鍛えろ』
彼は数年前――悪鬼羅刹に弟子入りした。
☆☆☆
その上から目線な『命令』に、悪鬼羅刹は鼻で笑った。
いくら善良な部分をかき集めた悪鬼羅刹の分体とはいえ、それでもかつては極悪の限りを尽くした最強最悪の鬼である。初対面にそんな命令をされて素直に聞くわけがない。
『断る、名も知らぬ人間よ。貴様のような弱々しい人間を鍛えてやる義理などどこにもないからな』
言って悪鬼羅刹は瞼を閉ざす。
まるで『もう話すことは無い』と言わんばかりに。
悪鬼羅刹の体は黒い鎖に繋がれており、彼は胡座をかいた状態で両腕と胴体を縛り上げられている。
アルファはその姿を見あげると。
『俺は、まだまだ弱い』
ピクリと、悪鬼羅刹が反応する。
『そうだな。分体の俺でも、今の貴様ならば一分かからずに殺せる自信がある。それこそ、この状態だったとしてもな』
『だろうな。だから内心、結構ビビってるんだぜ?』
肩を竦めてみせるアルファに、悪鬼羅刹は瞼を開き、眉根を寄せて見せた。
『格上相手にその口調を続けるのか。元から貴様を鍛えるつもりなど毛頭ないが、それでも――』
『――それでも、だ』
被せるように言い放ったアルファの声に、悪鬼羅刹はさらに眉根へとシワを寄せたが――しかし、彼の瞳を見て、背筋が凍った。
『俺は、いつか誰よりも強くなる。アイツをぶちのめすってのはそういう事で――俺らは、お前よりずっと強くなる。しかも、近い将来だ』
薄ら笑いを浮かべた彼は――狂っているようにも見えた。
狂気すら窺わせるその様子に寒気にも、恐怖にも近いものを感じた悪鬼羅刹。
(この俺が……分体とはいえ、恐怖した、だと?)
――勘違い、で済ませられる程度のものではなかった。
今のは明確な恐怖。
かつて、あの男と相対した時と同じ恐怖。
――やぁ、君なんだか最近調子乗ってるんだって? びっくりしたよ、まさか神王たる僕のところにまで依頼が来るだなんてさ。
男はへらへらとした様子で自分の元まで現れ――そして、自らに実力で勝つことこそ叶わなかったが、見事悪鬼羅刹を幾つもの欠片に分けて封印しきってしまった。
悪鬼羅刹にとって、唯一尊敬できる相手はあの男だけで、これから先も、あれ以上の怪物は現れないだろうと思っていた。
――だが、最近になって一人、それすらも超える怪物が現れた。
(この男も……あの男と同じというわけか)
いつもいつも、平然と自らの力をその身に降ろし、その力を百パーセント使ってみせるあの怪物。化物と言っても差し支えない。
あの男は、間違いなくあの『神王』を超えるだろう。幾度となく奴の体に降ろされて、嫌という程に思い知った。
――ふと、アルファの言っていた『アイツ』という言葉を、悪鬼羅刹は思い出した。
もしかして……、いや、もしなしなくてもだろう。
気がつけば悪鬼羅刹は笑みを浮かべ――
『自称、今はか弱き少年よ。もしや貴様の言う、その《アイツ》とやらの名前は――』
☆☆☆
サタンは、目の前の光景に愕然としていた。
「……な」
目の前には唸りを上げ、アルファへと迫っていたはずの拳が――その場で止まっていた。
――否、止められていた。
「まさか、初っ端からこの力を使わされるとはな。油断……って訳じゃねぇが、悪かったなサタン。お前、まだまだ引き出しあったんだな」
サタンの拳を難なく受け止めながら、アルファはそう言ってのけた。サタンの拳を受け止めている腕には真っ赤なオーラが纏われており――サタンは、その魔力を知っていた。
「――ッッ!?」
その正体に至るや否や、サタンは全力で後ずさる。
かつて、神界から悪魔界まで、複数の世界を恐怖のどん底へと突き落とした最悪にして最強の存在。
今の混沌よりも強いだろうと疑って止むことの出来ない、最強の鬼。
その鬼の名は――
「行くぜ……『鬼モード』ッ!」
その名は――悪鬼羅刹
アルファの体を覆い尽くす、鎧のような赤いオーラを見て、サタンはこの男の底知れなさに、心のどこかで恐怖した。




