影―102 間違いと本音
冷たい風が頬を撫でる。
ローブが音を立てて風になびき、短く刈った髪が小さく風に揺れている。
「ふぅ……」
大きく息を吐き、閉ざした瞼を薄く開く。
見据える先には、全ての元凶たる混沌と。
そして、かつて救えなかった友の姿が。
「……ここまで、来たのね」
「……あぁ」
今はもう、彼女は笑わない。
彼女が笑ってなかった時など、僕は片手で足りるほどしか知らない。まるで太陽のような笑みを浮かべて僕の名を呼んでくれる彼女は――もう居ない。
目の前にいるのは、僕に裏切られ、失望し、悲しみの中にいる一人の女の子だけなのだ。
彼女の悲しげな無表情に、思わず視線を下ろしてしまう。
大きく息を吸って、吐く。
心臓が大きく鼓動する。
胸に手を当てて気持ちを落ち着かせると、改めてアポロンへと視線を向けた。
「今度こそ、助けに来た」
「……」
彼女の表情は変わらない。
僕は一度、彼女の信頼を裏切った。
守れもしない約束をして、裏切ったんだ。
今、彼女から僕へと向けられているのは純然たる不信。
こんな状態で、僕から彼女へ何か言ったとしても、それは単なる薄っぺらい文字の羅列でしかない。
だからこそ――
「分かってる。今度は、行動で示すから」
仲直りできるか、正直わからない。
それだけのことをした自覚はあるし、前と全く同じように、という訳にはいかないだろう。
だけど、もしも友達には戻れないんだとしても。
「だから、待ってろ」
僕に賭けられるものなんてそうないけれど。
それでも、僕の持っている全てを賭けて。
「――命を賭して、お前を救い出す」
例え勝ち目が見えないとしても。
この命を削ってでも、お前のことを救い出す。
☆☆☆
アポロンは、小さく息を吐いて混沌へと視線を向けた。
「……クロノス。ギンとは、私にやらせてほしい」
「……そうはいかない。今は我が配下だとしてもお前はあの男の友だった。手を抜かれては――」
――困る。
混沌がそう言い切るよりも先に、アポロンの体から超高熱の青い炎が迸った。
――炎天下。
アポロンだけが持つ炎系統最強の能力だ。
第一段階――青い炎の『始焔』から始まり。
二段階『天焔』、最終段階『終焔』の三つから成り、最後の焔を見たものは生きて帰ることは無いとまで言われる、炎属性の頂点に立つ最強のユニークスキル。
また、太陽の神には『炎』や『熱』という概念は効かず、存在そのものがあらゆる闇と影を晴らす絶対的な力を誇る。
つまり、僕のメインウェポンたる銀炎は無効化され、影系統の魔法もまた、半端な威力では彼女の元にまで届かないということ――
――相性が、最悪だということ。
天界にいた頃からゼウスにも比肩する才能を持っていた彼女。そんな彼女が努力し、その上で強化されている。
改めて思い知らされる無力感。
だけど、勝たなきゃいけない。
勝たなきゃ、僕に生きる資格なんてない。
「……安心していいわ、クロノス。私は手心なんて加えない」
何故か、その理由は言わなかった。
――言うまでもなかった。
アポロンは混沌から視線を切り、僕へと怒りの情が滲み出る双眸を向けてくる。
「それに、今じゃ私の方が――強いから」
――直後、僕らの周囲を囲むように巨大な炎柱が立ち上る。
咄嗟に周囲を見渡し、身を固くしたが、どうやらこれは僕を逃がさないための処置らしい。炎柱の間を抜けようとすればあの超高熱の炎柱そのものが襲いかかってくるだろう。
「ねぇ、ギン」
ふと、悲しげな声が耳朶を打つ。
「私はね、貴方とずっと一緒にいたかった。一緒に遊んで、一緒に笑って……、あの時間がとっても幸せだった」
カツ――カツ――……
ヒールの音が響き渡り、その足音が徐々に近寄ってくる。
視線を動かし、彼女を見据えて――目を見開いた。
そこにいた彼女は――泣いていたから。
「……私ね、守ってくれるって、信じてた」
「……ッ」
思わず、顔を歪ませた。
分かっていた。彼女と会えばこうなるってことは分かっていた。だからこそ白夜が僕の前を去った時、咄嗟にこの未来まで予知できてしまった僕は――心が折れた。
「……貴方が、本気でそう思ってくれてたんだろうって言うのは分かる。あの時の貴方は、たぶん、嘘ついてなかった」
――けど、結果として嘘となった。
涙を流しながら、彼女は僕へと――微笑みかける。
それはかつて見た元気な笑みとは違う、全てを諦めきったような、悲しい微笑み。
「これは、私の思い上がり。貴方にとっては私はたぶん、その他大勢の一人でしかない。助けてくれなかったからって恨むなんて、間違ってる」
間違ってなんかない。
助けるって言って、助けられなかった僕が悪いんだ。
誰がどう見ても、そんなの分かりきってるじゃないか。
なのに……、何で――
「勝手に死んだ私が悪いんだけどさ……。ごめんね、ギン。私は貴方を、許せない」
――何でそんなに、申し訳なさそうにするんだよ。
彼女は両手に青い炎を纏わせる。
こちらへの歩みは止まらない。
ジリジリと肌が焼けるような痛みが走る。かつて共に遊んだはずの僕らの間に、決して超えることの出来ない壁ができたように感じてしまう。
「……なぁ、アポロン」
小さく、その名を呼んだ。
夢にまで見た彼女の名を。
気がつけば歩みは止まっており、僕は大きく天を仰いだ。
「これだけ考える能力があっても、人生、思い通りに行った試しがない。いつもどこかで失敗するし、完璧なんて一時のもの。大きな目で見たら僕の人生は――まぁ、失敗作だ」
紫色の夜空に真っ赤な月。
真紅の月光が僕らを照らす中、ゆっくりと、アポロンへと視線を向ける。
「救いたかった人を救えなかった。救いに来たけど、やっぱり思いは伝わらない。こんなにも大切に思っているのに、僕の言葉からは重みが消えた」
――どこで、道を間違えたんだろうな。
ふと考える。
どこで間違えたかと聞かれれば、きっと僕がこの世界に来てしまったこと自体が間違いだったのだろうと思う。
僕がここに来て、大した理由もなく強くなって、気がついたら仲間ができて、明確な敵ができて、敵味方共に僕の存在を認めるようになっていた。
――そして、アポロンが殺されたのだ。
「僕らは、本来出会う運命じゃなかった。出会うべきじゃなかった。僕はあのまま、日本で火事に巻き込まれて死んでしまうべきだったんだろう。お前は僕に出会うことなく、いつか来る混沌との戦争に備えていればよかった。僕らが出会ったからこそ、この不幸が訪れたんだろうってのは、客観的に見たら明らかだろう」
僕らは、出会うべきじゃなかった。
酷く冷たい言葉だけど、それが事実だ。
彼女のためにも、彼女が不幸にならないためにも、それが良かったはずなんだ。
――だけど、さ。
「だけど、僕はそうは思わない」
少し前までなら、そう思って疑わなかっただろう。
僕らが出会ったのが間違い。そんなに酷く冷たい考えを持ち、下らない合理性にこだわって生きていたんだろう。
でも、今の僕は『知性』じゃない。
――賢さだけが取り柄の、一人の男だ。
「一人の男として、お前に出会えて本当によかった。結果として不幸にさせちゃったけど、それでも一緒に過ごした過去は変わらない。あの『幸せ』は、絶対に消えやしない」
――それが、僕の本音だ。
涙を流す彼女は目を見開いて呆然としており、こんな状況だというのにも関わらず、思わず笑ってしまう。
「こうして話していても、どうせ僕の言葉になんて重みはない。どれだけ重ねようと、きっとお前は信じようとしないだろう」
ふと、思い出す。
彼女と一緒に過ごした時間を。
楽しくって、幸せで。
昔失った『本当の家族』と一緒にいたらこんな感じかなって、そんなことを思うようにもなっていた。
彼女はあの時間を幸せと称したけれど。
――僕だって、それ以上に幸せだったんだ。
拳を握りしめる。
大きく息を吸い、改めて覚悟を決め直す。
「もう迷わない。もう折れない。もう負けたりしない。もう二度と、お前を一人になんてさせない」
握りしめた拳を彼女の方へと突きつける。
目を見開き涙する彼女へ、いつものように頬の端を吊り上げて。
「もっかい言うぞアポロン。弁解しようだなんて思わない。助けてもいないのに謝らない。今は、この命に賭しても――」
――お前を、救い出す。
次回、アポロン戦突入です。