影―036 黒騎士
まだ終わりませんとも。
『ギンさん、ネイルとキスしてください』
『…………は?』
そう、ネイルの母親から懇願されたのはつい先ほどのこと。
僕は長い沈黙の後にそう返すことしか出来なかったが、それを受けたエルザは虚空を見上げてこう呟いた。
『ネイルの中には父親たるメデューサから引き継いだ力が眠っています。その力は何故か自我を持っており、あの娘がピンチの時、そして心から力を望んだ時にその力を与えると、そう言っていました。おそらく今回の暴走は心が壊れかけたネイルへと、咄嗟にその自身の力を分け与え、精神崩壊による狂人化を、単なる力の暴走状態へとシフトチェンジしたのでしょう。どちらも良い状態とは言えませんが』
その言葉には色々と聞き正したいこともあったが、けれどもそれらを総合して返事を考えたとする。
それでもかなりの長文になるわけで、あまり長く話す気分になれなかった僕は彼女へと短文でこう返した。
『いや、だからなんでキスしなきゃなんないのさ』と。
そう、結局はその一言に尽きるのだ。
けれどもその言葉に僕へと視線を向けたエルザはこう口を開く。
『その暴走状態を解く方法は二つ。一つは彼女へと精神的なショックを与えて目覚めさせるという力技。二つ目は彼女が自力で自我を取り戻すのを延々の待ち続けるか』
『とりあえず二つ目は無しだ。あんな状態で放っておけない』
その言葉にそう即答する僕。
そりゃ僕だってネイルなら自力でも何とかするだろうと信じてる。けれども一目見ればわかる――あの状態はネイルへと負担をかけているのだ、と。
僕は彼女を少しでも早く、楽にしてやりたい。
そう思っての言葉だったのだが――
『だからです。どうか私の可愛い可愛い娘と母親たる私の前でファーストキッスを――』
『エルザ、お前わざと言ってるよね!?』
むしろこれでわざとでなかったのだとしたら、それはもうある意味で怪物だろう。まぁ、エルザはある意味にしなくとも怪物なのだが。
エルザは僕の声にコホンコホンと数度咳をつくと、僕へと今度こそ真面目な視線を向けてきた。
『その三つ目の助ける方法――つまりは正攻法ですね。それは彼女の王子様が彼女へとキスをすること。そうすれば彼女の精神世界に入れますので、そこで彼女の《力》たるメデューサとガチバトって貰います』
『……なんだその超展開は』
全く意味のわからないその展開。
けれどもとりあえず嘘は言っていなさそうなので僕は額に手を当ててため息を吐いた。
『あー、分かったよ。どうせメデューサって言ってもEXランクかせいぜいがerror級だろう? 三年前の暁穂――あの伝説のフェンリルでさえEXランクだったんだから』
『……なんか無性に馬鹿にされてる気がするのですが』
気のせいだ、気のせい。
僕は内心でそう呟いて、案外簡単そうなそのミッションに少し頬を緩めながらも視線を――
『……あ、そういえば。ネイルの精神世界の中では彼女のことをどれだけ大切に思っているかで力が変わるんでした』
『うぉい! 相手って生まれた時からネイルの中にいるやつだよな!?』
『はい、間違いなく大悪魔級――恐らくはギンさんが倒したあのルシファーよりも強いかと』
それから一転、ものすごく苦い汁を舐めたような、そんなシワの寄った顔を浮かべてしまう僕。
僕も魂に二匹の怪物を飼っているだけあって知っているが、自分の全てをリアルタイムで知られているというのはそれだけでも絆が芽生えるものなのである。
たまに鬱陶しい時もなくもなくもなくもないが、それでもまだ三年しか一緒に過ごしていない僕らでこの状態だ。生まれた時から一緒にいるその『力』――果たしてその世界ではどれだけの力を手にしているのだろうか。
考えるだけで眉根にシワが寄ってしまう。それだけ今回の戦いはどう転ぶか想像がつかない。
『ちなみにですが、その世界へと行けるのはもちろんネイルのナイト様ただ一人。ギンさんの中に眠る力に関してはなんの問題もありませんが、中に入ったが最後――今回は本気でやらねば、死にますよ?』
『……分かってるよ、それくらい』
僕はフゥと息を吐くと、スッと瞼を薄く開いた。
『んで、やることはそれだけか?』
『いえ、力を倒した後、一瞬だけネイルの意識が表層へと出てきます。そこで何かしら彼女がこちらへ戻りたいと、そう願うような甘い言葉を投げかけてください』
『つまりは僕に新たな黒歴史を創り出せ、と』
『何を今更。恋愛なんて後から考えれば全てを黒歴史ですよ』
なるほど、確かにそうに違いない。
全員が全員そうだとは思えないけれど、僕にとって恋愛は麻薬だ。その感情はとても心地いいが、それでも僕の知性を酷く鈍らせる。それは毎度毎度のことで嫌という程に思い知らされている。
恭香が誰か知らない男と話してたら嫉妬するし、白夜が他人に責められて喜んでたら拳骨を下ろしたくなる。
暁穂が他人に裸を見せびらかしていたのはガチでブチギレかけたし、未だここにいない面々。アイツらは結構抜けてるところあるから、変な男に引っ掛けられてたらと考えると夜も眠れない。普通に爆睡してるけど。
だけど――
『ま、たまには僕も、知性の化物を休業するさ』
そのエルザとの会話を思い出しながらも、僕はスッと瞼を開けた。
目の前に広がるのは天高く聳え立つ木々に囲まれた森の広場。
その大きさはかなりのものであり、流石に帝国の闘技場程ではないが、軽く見ても直径数キロはあるだろう。
そして、僕の視線の先にはその巨体。
「ふふっ、やっと来たようね、ネイルのナイト様」
「おうよ。初めましてだなメデューサさん」
その視線の先にいたのは、半人半蛇の女性だった。
先程までのネイルよりもさらに巨大なその体躯に、その身から迸るは莫大な威圧感。
それは混沌の力を授かったルシファーよりも更に力強く、僕は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「これはまた……とんでもないこって」
そう呟くと同時、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ぎ、ギンさん!? な、なんでここにっ!?」
その声に視線を向ければ、その先にあったのは巨大な鳥籠。
その中にはその檻に両手をついてこちらへと視線を向けている彼女――ネイルの姿があり、その姿を見るに現時点ではあまり向こうからの影響も無さそうだ。
「なんでって……助けに来たんだろうが」
僕は彼女の言葉にそう返す。
するとは彼女は信じられないとばかりに目を見開くと、
「な、なんでそんな理由でっ! ギンさん、まだ間に合います! だから早く逃げてくださいっ!」
「……そうね。悪いけれど、今の貴方じゃどう頑張っても私には勝てそうにないわよ?」
ネイルの言葉にメデューサすらも同意を見せる。
それには僕も思わず苦笑してしまう。
「なんだよ。メデューサさんめちゃくちゃいい人じゃん」
「……これでも二代目メデューサなのよ? 神様なのよ? 基本的に悪い神様なんて居ないんだからね?」
「いや、僕悪い神様知ってるんだけど」
主に狡知神ロキとか。
僕は内心でそう呟いてみたが、どうやら軽口を叩いていられるのもこれまでのようだ。
僕の言葉にメデューサはスッと瞼を閉ざすと、次の瞬間彼女の身体から大量の殺気が迸った。
その莫大な殺気は風となって僕の黒いマントを揺らし、僕の髪を撫でてゆく。
「もう一度言うわ。貴方は確かにとてつもなく強いけれど、それでもこの世界で私に勝てるほど強くはない。その状態――聖獣化の状態からさらに強くなれるというのならば別だけれど、それでもせいぜいが互角のステータスがやっと、と言ったところ。今ならばまだ見逃してあげる。踵を返して逃げなさい」
やっぱりこの人、優しい人だ。
僕は内心でそう呟いて笑みを浮かべると、右手を開き、その甲を上にした状態で前へと突き出した。
「『月蝕』」
瞬間、僕の掌に血色の魔力が纏わり、直後に黒色のロングソードを創り出した。
その血色の魔力を吹き出している長剣にメデューサは少し眉を顰めたが、けれどもその行動にはもう一つの意味も含まれていたのだろう。
「……正気? 貴方、本当に死ぬわよ?」
僕の行動は紛うことなき『反逆』の証。
逃げるという選択肢を捨て、抗うことを――戦うことを選んだということの、何よりの表れ。
それにはネイルも目尻に涙を浮かべて叫びをあげた。
「ギンさん! お願いです! にげて……逃げてくださいっ! 私のことなんてどうでもい――」
「良い訳がないだろうがッ!!」
瞬間、僕の怒鳴り声が、彼女の叫びをかき消した。
僕はガッとその剣を地面へと突き刺すと、声高々にこう叫んだ。
「この世界はお前への思いの強さが力のして現れる世界と聞いた! 故にこの世界で僕が誰かに負けることなど、万が一にも有り得はしない!」
確かに相手は強いさ。ずっと一緒にいたのだから。
けれど、それなら僕だって負けてない。
一緒に過ごした時こそ、メデューサやミリー、エロース、ソフィアに比べたら少ないけれど。
それでも――僕が彼女と過ごした時間が、嘘になるって訳では無いだろう。
思い出すは、彼女との思い出。
初めて会ったのは、ギルドでのことだった。
その後、大きな荷物を背負って旅立つ僕らについて行くと言い出し、学園では色々とあったけれど、それでも毎朝膝が笑うまで走り続け。その度にふたりして笑ったものだ。
「あの思い出は、消えたりしない」
僕はそう呟いてニヤリと笑みを浮かべると。
「我が名はギン=クラッシュベル! 我らが大切な仲間を取り戻しに参った!」
――我、仲間を守りし黒騎士なり!
僕の言葉に、メデューサは笑みを浮かべて襲いかかってきた。
次回、ガチバトルです。




