1.亜里砂とセラフと鏡
夕闇が迫る川岸に、まん丸で大きな鏡が、通せんぼするように浮かんでいた。
「何よ、この鏡?」
高校一年生の夜空亜里砂は、目の前の見慣れぬ犬に突進しようとする愛犬セラフのリードをしっかり握って引っ張りながら、ひどく平凡な疑問を口にした。
平凡。素晴らしい。
平均。美しい。
亜里砂は、目立つこととか、異常事態を好まない。そういうのは、ごく少数の、選ばれた優れた人に任せて、目立たないように生きていたい。
だって、面倒くさいから。
これまで、人生で目立っていいことなど、一度もなかった。
劣って目立てば、イジられる。
優れて目立てば、やっかまれる。
平凡がいい。
平穏がいい。
なのに、一年でレギュラーに抜擢とか、コーチはロクなことをしない。
亜里砂に圧倒的な才能があるなら、かまわない。実力が違うのだからと、他の部員にも納得してもらえるだろう。しかし、そんなものはないのだ。一年の中ではちょっと上の方だが、先輩たちに比べると全然、たいしたことがない。
今は試験期間だから部活は休みだが、試験が終わったら、部活が再会され、亜里砂の心の平穏はズタズタにされてしまう。
試験はイヤだが、試験期間が終わるのもイヤ。
ストレスばかり溜まる中、犬の散歩を名目に家を出たら、出会ったのが鏡である。
「で、これは何よ?」
「バウバウ!」
セラフは、鏡の中の犬に吠えて威嚇している。セラフはバカだが、亜里砂を守ろうという気概だけはいっちょ前だ。
鏡の中の犬も、負けじとセラフを吠えて威嚇する。
そりゃそうだ、鏡なのだから。
では、鏡の中でこっちを見つめている、髪をゴムで大雑把に留めた、冴えない顔した女は何だ。
何が気に入らないのか、口元を歪め、亜里砂をにらんでいる。
なんと可愛げのない女だろう。
これが自分だと思うと、人生にあらゆる希望がもてなくなる。
今まで、たいした希望をもっていたわけではないが。
一番だいそれた希望は、幼稚園の時に絵にした将来の夢で、外国に行く船の船長だった。
なぜ船長だったのかはよく覚えていない。テレビか、絵本か、見たものに影響されたのだろう。
「……写真でも撮って、アップしよっか。どーせ、イタズラか何かだろうけど」
亜里砂はポケットに手を突っ込んでスマホを取りだそうとする。ない。
そういえば、試験期間なので家に帰ったら母親に預けて、そのままだった。
顔を上げると、鏡の中の女が、ポケットの中に手を突っ込んで間抜けな顔をしていた。
むかつく。
「あんたねえ、もうちょっと身だしなみとか、人からどう見られてるかとか、気にしなさいよ」
思わず説教してしまった。
鏡の中の女に反省の色は見えない。
何言ってやがんだ、という顔をしている。
こうなるともう、止まらない。
「平凡がいい? 目立ちたくない? 何の努力もせずに、平凡になれるわけないじゃない。みんな頑張ってるんだよ? あんたも頑張ってみんなに追いつかなきゃ、平凡も、目立たない人生も、手に入らないわよ」
言った後、手を伸ばしたのは、特に意味はなかった。
鏡の中の女を突き飛ばすほど強くはなかったはずだ。
鏡の表面に、ぺちっ、と触れて。それで「何やってんだ、私は」と我に返るとか、そういう流れを、亜里砂は想定していた。
亜里砂は平凡な女なので。
リアクションも平凡なのだ。
だから、平凡でなかったのは亜里砂ではなく。
目の前の鏡だった。
いくら周囲が暗くなっているからといっても、亜里砂はもう少し観察し、思考するべきであった。
完全な円を描く、完全な鏡。
それが、地面の上に“浮いて”いるのだ。
これが、二十世紀の高校生ならば、まだしも目の前の情景に疑いを抱いただろう。
しかし、亜里砂は情報化が進んだ、仮想現実がふんだんにある二十一世紀の日本で暮らす高校生だった。
この時代の進化したアトラクションは、一見するとだまし絵のような光景でも作り上げることができる。亜里砂は目の前の鏡に対しても「なんか、あり得ないんだけど、誰かがうまいことやってるんだろうなー。すごいなー」と考えてしまっていた。
亜里砂の指が触れた瞬間、目の前の鏡が強い輝きを放つ。
亜里砂が驚いて目を見開く。
リードを持つ腕の力がゆるむ。
亜里砂を守ろうと、セラフが鏡に体当たりする。
そのセラフが――亜里砂の目の前で――鏡の中に消えた。
亜里砂は思った。
――『鏡の国のアリス』みたい。アレだと猫だけど、私もアリスじゃなくて亜里砂だから、猫じゃなくて犬でもいいのかな。チェスじゃなくて将棋の国とか。
ちょっとずれた感想を抱きながら、セラフに続いて亜里砂も光の中に飲み込まれた。