1
わたしが目をさまして一番にしたことは、布団から距離を取ることだった。それはかつての狩猟生活がそうさせたのか。
無理やりの寝起きにより呼吸が整わず、室内のこもった空気がそれを後押しし、気分を煩わしくさせた。痛みを感じた耳の状態を確認すべきか、痛みの原因を調べるための状況を確認すべきか。わたしが瞬時に選んだのは前者であった。
見慣れた畳の狭い部屋に、見慣れた布団。そこから血が点々とわたしの方に向かって落ちていた。
布団の近くに蹲っている人影に警戒を向ける。人影は怯えるように眼球を震わせ、それでもじっとわたしを見ていた。なにか言おうとしているが、その口から洩れているのはうめき声だけだった。
わたしは半分だけ警戒を解き、人影に叫ぶ。
「何をしてやがんだ!その手元にある鉈は何だ親父!ああくそったれが!」
叫んだことで、耳に痛みが響いた。痛む部分に手を当てるも、有るべき場所に耳はなく、ただ血が流れ続けているだけであった。
わたしの叫び声に父は驚いたように方を震えた「違うんだ、違うんだ。これには訳があって」
「何が訳だ!娘の耳を切り落とすのにどんな訳がいるってんだ。酒が切れて、ちょいとツマミでもしようと思ったってか。笑わせんな」
夢の中のかつての父が私の脳内に浮かび上がりかける。わたしは無理やりそれを押し込めた。まごついている父より先に前に出て、落ちている豚飼人特有の長い耳を拾うと、父は怯えたように顔の前に腕を持ってきた。
その姿を見てわたしは呆れの感情でいっぱいになったが、そんなことで怒りの感情が消えるはずはなかった。だが頭に血が上るごとに出血が酷くなり脈打つように痛みが増幅された。
「ごめんよ、ごめんよ」父は蹲り、うわ言を繰り返す。
わたしは舌打ちをし、ほおって置いて大丈夫と判断し、救護箱を取り出し手当てにかかった。
「で、何でこんなことをしたんだ」
応急処置をしていると不思議と興奮は落ち着いてきた。このまま家から出て医者に向かったり病院に向かったりするべきなのだろうが、不思議とそんな気分にはなれなかった。アルコール中毒で、無職な父だけど、八つ当たりで怒鳴り散らすことはあったが、わたしに不必要な暴力を振るったことはなかった。何か深い訳があるのかもしれない。
わたしは住み慣れたこのアパートの一室を見回す。六畳半の古びた一室を、切れかけた電球が照らしていた。家具は必要最低限しか置いておらず、寝る時は食事に使う卓袱台が襖に立てかけてある。部屋の隅に壁の土が少し崩れ汚していた。古びた振り子時計が気まずい時間を刻んでいる。
ああそうか。わたしが何でこんなに落ち着いているのか不思議だったが、その理由が今わかった。きっと父から離れる理由ができて清々しているのだろう。どんな理由があるにせよ実の娘の耳を切り落とす父とは一緒にいるのは無理に近い。少なくとも、多少なりとも精神を病んでいる父を見捨てても、大抵の人は納得してくれるだろう。
父がおかしくなった時期は正確にはわからない。ただ少しずつ精神を衰退させていった。それを戦争のせいだとか、環境の変化を理由とするのはたやすいだろう。しかし父はそのような理由ではないと定期的に愚痴をこぼしていた。
かつてわたし達は狩猟民族であった。森で猟をして暮らし、文明とは敵対をしていた。だが魔女という共通の敵が現れたとき、様々なことがありわたし達は文明と手を組むことになった。
戦火は森を焼き、町を潰し100年の時をへてわたし達の勝利という形で終わりを告げた。
だがわたし達は住む森はほとんど失い、町に住むしか進むべき道はなかった。こうして我々はかつて敵対していた文明に溶け込むこととなったのだった。
戦争が終わる前からわたしは父にこうなることを父に聞かされていた。
「いろいろ困難なことはあるかもしれない。だが俺は強く生きていきたい」
かつて父が云っていた言葉だ。文明と敵対していたころ父は穏健派であった。今の自分達とやり方は古いのかもしれない。そうもらしていたそうだ。
「約束…」
今まで黙っていた父から言葉が漏れた。どのぐらいの時間黙っていただろうか。グラスに注いだ水の氷がほとんど溶けていた。
「なんだって?」とわたし。
「まだ戦争が始まってない時の話だ…」気持ちが落ち着いたのか、父の口は滑らかになっていた「まだ俺が子供だった時の話しだ。そのころ俺には唯一無二の親友がいた。ある日俺その友人と2人で小竜狩をしていたんだ。大人達に狩の範囲を決められていたんだが、その友人がもっと奥に向かおうっていってきた。俺は反対しなかった。あのころ俺は若かった。好奇心旺盛だった。そして道無き道を進んでいくと一つの洞窟を見つけたんだ」
約束という単語が出てきたから、わたしの耳が借金の担保にもされたのかと思ったが、父の子供のころまで話が飛ぶとは意外だった。
「続けて親父」
「ああ、俺達は洞窟の奥に向かった。蝙蝠が多く、糞の臭いで鼻が曲がりそうだったよ。だが不思議なことに洞窟内の道はヒトの形をしたものにとって、かなりの進みやすさだった。そしてだ。中に入って半刻ほどたった時だった。その友人が青い炎に包まれたんだ」
父はそこで喋り疲れてのどが渇いたのか茶碗に入った水を口に含んだ。
父は続ける。
「俺は前を歩いていたために、初めはなにが起こったのかわからなかった。突然洞窟内が明るくなってそれに驚き、振り向いたら炎に包まれたあいつが倒れていた。それと同時に頭の中に声が響いたんだ。『我は第八の魔女リムリリリス、この地は我の住んでいる家である。不法に侵入したこのものに罰を与えた』と」
「そんな馬鹿な。魔女みたいな存在がそんなちゃちな場所に住むもんか」
「ああ、俺もそう思ったよ。だが2つ前の戦争の敗北によりこの地では魔法は法に基づき人を罰することのみに許可されている。不法侵入程度で人を燃やすことのできる存在なんて魔女か神ぐらいのものだよ。俺は泣いて謝ったよ。『俺は罰していいからこいつは助けてくれって』そうしたら誠意が伝わったのか答えが返ってきた。『我は今機嫌がいい。未来のお前の子を生むことがあればそいつは長く生きられないという呪いをかける。それを受け入れればそいつは助けてやろう』ってな。自慢じゃないがそのころ俺の顔はよい方じゃなかった。戦争が始まっておらず、集落にも男も豊富だったし、村長に訳を話せば一生子を産まない生活だって可能だって思った。俺はすぐに了承したよ。気がつくと俺と友人は森の中に倒れていた。友人は洞窟の中に入ったことを覚えてないらしい。後日洞窟を探してみたけどそんなものはどこにもなかったよ」
なんだろう。どうもわたしの魔女のイメージと大きく離れたエピソードだ。魔女。かつての戦争の主犯。人間の上位的存在。残虐非道で指を一振りしただけで一軍が壊滅し、どんな場所からどんなこともできるという。全能ではないにしても万能の存在。魔法とは魔の法律でもある。人によっては魔法が使えると思っているものがいる。しかしそれは間違いで人は魔法に使われているだけだ。ただその例外が魔女なのだ。魔女の話を聞けば聞くほどどうやって戦争に勝ったのか不思議だった。聞いてみても何か精神的というか宗教的という科学的か哲学的に難しい話をしてくるだけでよくわからなかった。
「それで魔女に勝てそうになっていたからわたしを生んだと?」
「ああ戦争で多くの仲間が死に跡継ぎも必要となった。そして戦争に勝利し、呪いは解けたと思われた。だが最近になってアルコールに見をゆだね浅い眠りにつくと頭にあの声が響くようになった。あの魔女の声が」
「それとわたしの耳を切り落とすのとどんな関係が?」
「魔女っていうのは下位の存在の見分けをするのが困難らしいんだ。ちょうど俺達が話せない猫とかの区別をするのが難しいように。万能の存在だから、できないはずは無いんだが、時間がかかるらしい。ましてや死んでいてはなおさら。死んでいては、というのは想像なんだが。それでだ。その種族ごと特徴を無くしてしまえばせめて100年ぐらいは魔女にも探しにくくなるんじゃないだろうか。片方だけ耳の長い種族もいることだし。そういう本を昔読んだことがあったんだ」
そこまでいっきにいって父は話を区切った。
「それでその友人というのは」とわたし。
「戦争で死んだよ」
私は苦い顔をし、茶碗の水を口に含み、思案する。
思ったよりまともな理由であった。なんでわたしに相談しなかったのかは疑問だが、それにもちゃんとした理由があって、きっとこの後話してくれるに違いない。呪いのことがあったのにわたしを生んだのは軽率だったかもしれないが、わたしにはそれを攻めることはできまい。生まれてきたことを呪うほどわたしは荒んではいない。アルコール中毒で無職で娘のヒモな父だけど、こうしてわたしの命の心配をしてくれることも解った。
今のことを聞いてわたしはもう少し父の面倒を見ようと思った。こんな父でもたった1人の家族なのだから。わたしは口を開いた。
「怒鳴って悪かったよ。いや、あの状況なら誰でも怒鳴るだろうが。なら相談してくれればよかったのに。もしかして誰かに話しちゃ駄目な呪いだとか?」
わたしの言葉に父は下を向いて黙りこくった。畳の藁を弄り始めた。
「どうした?」とわたしは尋ねた。
「その…わからないんだ」
嫌な予感がしたもののわたしは、黙って次の言葉を待った。
「その」と父「酒が切れて目が覚めたんだ。そして急に娘の耳を切り落とさなきゃだめだ、と使命感が沸いてきて、それで気づいたら道具箱から鉈を取り出していて…」
「それはアルコール中毒の依存症の幻覚じゃないのか?」
「そうかもしれない…」
「前言撤回…」
「え?」
「何でもない」
わたしはため息をついて、立ち上がり食器棚の奥に隠してあった封筒を取り出し机の上に置いた。
今の話だと呪いのことも捏造じゃないかという疑問も湧き上がってきた。死んだ魔女に怯え耳を切られたのではたまらない。子供のころの話から捏造という可能性まで出てきた。
再度わたしはため息をついた「ここにいくらか貯めたお金がある。わたしは親父を病院に入れる。それに使ってほしい。ゆっくり酒を抜いてほしい。ただあと数年は会うことはないだろうから」
「それはつまり」
「縁を切る」
わたしの言葉に父はこの世の終わりかと思うような顔をした。そして項垂れ、布団の中に潜り込んだ。しばらく黙っていると押し殺すようなすすり泣きが聞こえてきた。
わたしは話を続ける。
「しかし『大移動』の時に合うこともあるかもしれない。だがわたしはバイトをやめて西へ行こうと思う。西の労働者の町、泥霧地区へ」
わたしの言葉に父は勢いよく布団を飛び出した。
「あそこは駄目だ!なんでわざわざあんな場所に!」
父の顔は涙で歪んだ顔をしていた。
「このご時勢に耳の片方しかない豚飼人なんてあのあたりでしか食っていけない」
「じゃあなんでバイト辞めるんだよ!」
「あそこの店長豚飼人だから雇ったみたいだからさ。多分耳が無くなったらクビになると思う。客商売だからな。そもそも豚飼にとって耳が無いというのは戸籍がないのと等しいことだ」
自分のせいだと解ったからか、父は口をまごつかせた「いや、しかしだな」
「店長の視線がいやらしかったから元々辞めたかったのもあるけど」
父は完全に黙りこくった。
その日のうちにわたしは荷物をまとめて、大家と話をし、医者に行った後、アルバイトを辞める報告をしにいく。しかし、一つだけ連絡がとれないものがあって、どうしようか迷っていると、図ったようなタイミングで手紙がポストに届いていた。消印が無く、直接このポストに入れたようだ。
探偵24号。
そう封筒に書かれていた。まさしく連絡がつかないでいたわたしの雇い主であった。わたしは封筒から手紙を取り出し、中身を読む。
『君がアルバイトを辞めて回っているという話を聞いた。しかし僕の事務所は種族の特徴程度が無くても問題がない。君はおそらく泥霧地区に向かうのだろう。そこで仕事として頼みたいことがあるので、待っていってほしい』
少し迷ったが、食い扶持が一つでもなくならないのはありがたいと重い、そのままわたしはアパートを出発した。