暁鐘7
「ーー、落ち着きましたか?」
「うん…うん、大丈夫。ハンカチありがとう。ごめんね、汚しちゃって」
彼は慎重に言葉を選ぶようにして優しく微笑んだ。
無理して笑顔をつくっているのが顕著に表れていて、さらに痛ましく思わせた。
「ハンカチなら心配しないで下さい。それで、えっと…あなたは…、」
彼を何と呼んだら良いか迷うと、柔らかい声で私の言葉に続けた。
「僕の名前は由月。自由の由にお月様の月で由月っていうんだ」
「由月、さん…」
彼の名前を繰り返すと由月さんは嬉しそうに頷く。
しかしその表情には陰りが差していて、何処か寂しそうにしていた。
その理由が分かる訳でも聞ける訳でもないのでその事に関して私は目を瞑るしかできないのだが。
「私の名前は暁といいます。あかつき、と書いて暁です」
わざわざ名乗ってくれたので私も同様に名前を言う。
暁さんだね、と呟いて彼は俯いた。
「かんじが違うんだ…」
「え?」
「ああ、何でもないよ。君は暁さんっていうんだね…。
それより手掴んじゃってごめんね。痛かったでしょう」
「大丈夫です。
それよりも由月さんが泣いていたことの方が混乱しました」
「それは本当に申し訳ない…僕、人探しで必死で…
やっと見つけられたと思ったんだ」
由月さんは爪先に視線を落として声を沈めていた。
彼の靴はよくある黒革のビジネスシューズで、アスファルトによって削られた傷が無数にあった。
それの傷み具合が半端ではなく、決して短くはない距離を歩きまわっていたことを物語っていた。
その靴に加わり、彼のスーツでさえも、非常にくたびれている。
いいものだっただろう黒い生地に、皺が深く刻まれていた。
「ーー探している人、見つかるといいですね」
「うん…本当に」
私は特別、顔が広いというわけでも、彼の人探しを手伝えるわけでもなく、ただ見つかることを祈るしかできない。
彼の寂しげな横顔を見て、己の無力さにため息ばかりが出る。
「ミリはね、急にいなくなっちゃってね…中々見つからないんだ」
「失踪、ですか?」
「失踪なのかな…」
「警察に行った方がいいんじゃ…」
そう提案すると、由月さんは首を横に振った。
「いなくなった理由は知っているんだ。
特殊な事情だし、多分警察は動いてくれないと思う」
「そうですか…」
「でも、どうしても事務所に戻ってきて欲しいから…」
「事務所に…」
「懐月堂事務所って言うんだけど、知ってる?」
「いや…申し訳ないですが…」
「だよね。
むしろ君が知ってたら驚いたくらいだよ」
懐月堂…かいげつどう…
事務所と言っていたが果たして何の事務所なのだろうか。
ミリ、と呼ばれる彼女は姿を消しても尚、こうして忘れられることなくその上必死に探されるなんて凄く偉いもしくは重要な人だったのだろう。
そう考えるとミリさんの人物像が全く浮かばなかった。
私くらいの歳で急に姿を消し、さらに重役とは…まったくの謎である。
「無事に見つかればいいんだけど…」
「そうだといいですね」
「うん…。ねえ、君はさ、」
「なんですか?」
日が暮れてきて辺りが仄暗くなり始めると、街灯に明かりがつきはじめた。
オレンジ色の光が上から優しく降りてきて私たちがいる周りを照らす。
由月さんの黒髪がその光に反射して光沢を帯びて美しい。まるで映画のワンシーンの中にいるように感じて息を飲んだ。
「君は今、幸せ?」
少し火照った頬を手の平で擦って彼はそう問った。
その質問の意図が掴めきれずに素直に答える。
「ええ? ああ、はい。幸せですけど…」
「病気とかしてない?」
「してません」
「目は大丈夫?」
「目ですか?私、視力いい方なんですよ。
両目合わせて2.0です」
「それならよかった」
安心したようで彼は強張っていた肩の力を抜いていた。その一方で、私は首を捻るばかりであった。
何故その問い掛けを私にするのだろう。
暫く一人暮らしをしている子供を心配した親のような質問である。
それをするべきは他にあり初対面の私ではない筈だ。
それに、由月さんが"無事な私"に安心しているのも引っかかった。
「あの、由月さん…」
何故そんなことを聞いたことを知りたくて呼びかけると、彼ははっと我に返ったように姿勢を正して周囲を見回した。
「?」
「もうすっかり暗くなってしまったけど、君は家に帰らなくていいの?」
その一言で桐恵さんのことを思い出す。
そうだ、私はスーパーに買い出しを頼まれていたのに。
こんなところで油を売っている時間などなかった。
「あああそうだ!!
えっとすいません、用事を思い出したので失礼します!!」
「う、うん。あっハンカチ」
「差し上げます!さようなら!」
「さようなら…」
慌てて立ち上がり私は猛ダッシュでスーパーへ向かった。
それから頼まれたものを買ったのちに帰宅すると、心配した桐恵さんに怒られたのは言うまでもないだろう。
【暁鐘・終】