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『炎夏饗宴』を読んで。

「大人の夏ホラー」エントリー作品です。

はじめにお断りしておきますと、この物語、主人公の身には特になにも起きません。不可思議な現象も、誰かの悪意のある行動もなにもありません。

ですが、とてもグロテスクな表現が多数出てきますので、そういった描写が苦手な方はお読みにならない方がよろしいです。

平気だという方は、どうぞ殺戮と血飛沫の世界をお楽しみ下さい……。



 見ると、原稿用紙が机の上に置いてあった。

 小学校6年生の娘の部屋だ。

 手書きの、女の子らしい丸っこい文字が並んでいる。小学生用の国語事典が隣に置いてある。そして、ブックカバーがかけられた、分厚いノベルスタイプの本が一冊。

 どうやら夏休みの読書感想文を書いていたようだ。


 娘のまりあと妻の聡子はおとといから、となりの市にある妻の実家に泊まりに行っている。今日の夕方には帰ってくる予定だ。

 私は、子ども達が夏休みに入っても平日は基本的に仕事だ。しかし今日は土曜日。仕事は休みだ。

 休みなのだがいつもどおりの時間に目が覚めた。午前7時。夏の朝日はすでにかなり眩しい。

 私は換気をしようと思い、平屋の一軒家である我が家の窓を開けて回っていた。


 まりあの部屋は、今どきの女の子の部屋らしく、ピンクやオレンジ色の小物や、キャラクターグッズ、ぬいぐるみ、少女マンガなどが整頓されて並んでいた。

 勉強机も片づけられていたが、原稿用紙と辞書とノベルスはそのまま置いてあったのだ。


(まりあも6年生にもなれば、自分で本を選んで自分で書くようになったってわけか)


 毎年夏になると「お父さん、なんの本を読んで書けばいいかなぁ?」「どんな風に書けばいいかなぁ?」と質問されては、図書館や本屋へ連れて行っていたのにと、一抹のさみしさを覚えながら思い返した。


(今年はなんの本を題材にしたんだ?)


 私は机の上のノベルスのブックカバーを取り外してみた。

 タイトルは、


炎夏饗宴えんかきょうえん


 とあった。

 作者は刺田紀伊花さすだ きいかというらしい。聞いたことのない作家だ。

 持ってみるとけっこう重たい。一昔前に特に流行った、いわゆる「ブロックバスター」と呼ばれるサイズのノベルスだ。

 裏表紙の紹介文を読んでみる。


「灼熱の無人島。集められた男女10名の生け贄たち。襲い来る3人の殺人鬼。“狩る側”と“狩られる側”に分かれて行われる、“饗宴”という名の殺戮の宴が、今はじまった!

 一人、また一人と、殺しを楽しむハンターの手にかかり血まみれの壮絶な死を遂げていく生け贄たち。しかし、この島の真の恐怖は、3人の殺人鬼以外にあった――。

究極のスプラッター・ホラーの幕が上がる!」


 私は目を疑った。

 なんだこの本は?

 こんな趣味の悪い小説が、なぜ娘の部屋の勉強机にあるのだ?


 表紙を見てみた。

 赤と黒を基調としたデザイン。

 炎夏饗宴――見たことも聞いたこともない小説だ。

 私はこれでもある程度の読書家だと思っている。今年で40歳にはなるが、ちまたでどんな本が売れているかには興味があるし、その辺りの情報には詳しいつもりだ。

 しかし「刺田紀伊花」なんて作家の名前に見覚えはなかった。

 だいたいなんだ、「刺田さすだ」って。あきらかに作った名前っぽい。「紀伊花きいか」も合わせて本名のアナグラムか何かになっているのかもしれないが、こんな読みにくいペンネームの作家の作品には、ろくなものがないと経験的に思う。

 私がよく「紀伊国屋」に行くから、最初「紀伊花」を「きのか」と読んでしまった。


 本当にまりあはこの本を読書感想文の題材に選んだのだろうか?

 本の帯には「阿鼻叫喚! 殺戮のサバイバルホラーノベル!!」と書いてある。

 私は恐る恐る、机の上の原稿用紙を手にとった。






 読書感想文


『炎夏饗宴』を読んで。

6年1組 出席番号27番 鈴木まりあ



 わたしがこの本をえらんだ理由は、クラスメイトの楠木奈緒ちゃんがある本をススめてくれたことがきっかけでした。

 奈緒ちゃんが貸してくれたその本は『HUMAN HUNTING』というタイトルの本で、人間が人間を狩るというお話でした。

 5人の人たちが「狩る側」で、6人の人たちが「狩られる側」という設定でした。

 大人の人たちが、命をかけて鬼ごっこをするみたいなストーリーでした。

 わたしはそれまでそういったお話を読んだことがなかったので、とてもドキドキして読みました。

 その『HUMAN HUNTING』のあとがきで、解説者の人がこう書いていました。


「本作は、1985年に発表された刺田紀伊花の『炎夏饗宴』の影響を色濃く受けている。――(中略)――発表後、スプラッターノベルの一大ムーブメントを巻き起こした。それ以降、二番煎じの“人間狩り”を題材モティーフにした作品が続けざまに発表されることになったが、『炎夏饗宴』はそれらの作品群の聖典として扱われることとなる。」


 この解説を読んで、わたしは刺田紀伊花さんの『炎夏饗宴』がどうしても読みたくなりました。

 でも、街の本屋さんに行ったときに店員さんに探してもらったのですが、売ってありませんでした。

 わたしは楠木奈緒ちゃんに相談しました。奈緒ちゃんは「なんとかなると思うよ」と答えてくれました。

 奈緒ちゃんには高校生のお兄さんがいて、そのお兄さんがインターネットの通信販売で『炎夏饗宴』を取り寄せてくれたのです。

 わたしは代金の590円を払い、『炎夏饗宴』を手に入れたのです。

 これまでに自分で買った本の中で、一番嬉しかったです。

 本の帯には「阿鼻叫喚! 殺戮のサバイバルホラーノベル!!」と書かれていました。

 わたしは胸がドキドキしました。そして、すぐに読みはじめました。


『炎夏饗宴』の登場人物は全員で13人。

「狩る側」が3人で、「狩られる側」が10人でした。

 狩る側の一人目はドクター柳岡。筋骨リュウリュウのマッチョ。顔がわからないようにプロレスラーみたいなマスクをつけた、肉体派の殺人鬼です。柳岡は学生のころ外科医を目指していたけど勉強ができなくてあきらめて、父親が経営する大企業の幹部になりました。だからお金はたくさん持っていました。

 そうそう、言い忘れていましたが、この「人間狩り」、通称「饗宴」に参加するには一人6,300万円の参加費用が必要なのです。お金をたくさん持っていないと参加できないのです。

 わたしのお小遣いが月3千円なので、6,300万円貯めるためには、1750年かかってしまいます。すごい大金です。


 二人目の狩る側の人間は、本山十和子という41歳の主婦です。

 実家がこれまた大財閥で、だけど親の反対を押し切って結婚した十和子は、男の子と女の子を一人ずつ生んで、裕福ではないけど平凡で幸せな生活を送っていました。

 だけど、もともとがお嬢さまで甘やかされて育ったせいか堪え性がありませんでした。育児のストレスもありましたし、なにより、夫がとてもおしゃべりで、毎日聞かされる夫の仕事の愚痴に心の底から嫌気がさしていたのです。

 そんなときに十和子は、昔の友人を通じて“饗宴”のことを知り、実家の祖父に内緒で頼み込んでお金を用立ててもらい、日頃のウップン晴らしに饗宴に参加することにしたのでした。参加を決めるまでは十和子は肌の手入れもせず、ぶくぶく太るにまかせて毎日を過ごしていたのですが(体重は約80kg)、参加が決まってからは体力つけるために毎日ジムに通い、人間を殺すためのキョウジンな筋肉と持久力を身につけました。お肌もつやつやし、表情もいきいきしてきました。

 やっぱり女は生き甲斐があると美しくなるんでしょうか。


 そして最後の殺人鬼。三人目のハンターは、メガネをかけて高級なスーツを着た、「円城寺えんじょうじ乱論らんろん」という、32歳の若き実業家。インターネット関連の会社の顧問をしたり、株なんかでもお金をかせいでいて、お金の使い道に困っている人です。「女を守るのが男の使命だ」と常日頃から云っていて、「フェミニスト」だそうです。“狩られる側”の中の女の子を助けて「ヒーロー」になりたくてこの饗宴に参加しました。

女の子を助けるためにドクター柳岡や本山十和子を出し抜こうとしますし、他の「狩られる側」男の人たちの命を奪うことには少しも抵抗はありません。

 わたしは、メガネをかけている人や、スーツを着ている人は、「マジメな人」ってイメージを持っていました。この乱論という男の人みたいな人も世の中にはたくさんいるのかなと思うと、ヘンな感じがします。



“饗宴”という名の、命をかけた死のゲームがはじまりました。

 舞台は無人島。饗宴は三日間行われます。今年は8月の7,8,9日の三日間です。

 このゲーム被害者――“狩られる側”は、様々な理由でこの島に連れて来られます。

 借金のカタに。所属している組織からのセイサイソチとして。前回の被害者の遺族が恨みを晴らそうと饗宴の主催者側のことを調べていたら捕まってしまった。騙されて拉致されてしまった恋人を取りもどそうとして、自分も追加で捕まってしまった、などなど。

 中にはこの死の饗宴をやめさせようと、国際警察機構インターポールが送りこんだ捜査員もいます。

 被害者の男女比は、ちょうど5:5。年齢層も50代から20代までバラバラです。

 わたしはいま12歳ですが、子どもが拉致されていなくてよかったなと思いました。だって、大人の人でもほとんどが生き延びられずにセイサンな殺され方をしていくのに、子どもだったら可哀想だからです。






 娘の読書感想文をここまで読み進めて、私は目をそむけたい気持ちになっていた。


 いつのまにまりあはこんな悪趣味なホラー小説なんかを好んで読むようになったのだ?!


 私は『炎夏饗宴』を手にとってパラパラとめくってみた。


 目次を見ると、本編はプロローグにはじまり、第1章から第12章までがあって、エピローグで終わるという、全14章構成だった。


 推理小説などによくあるように、巻頭に登場人物の簡単な紹介が載っている。


〈狩られる側〉


石坂いしざか 浩伸ひろのぶ

52歳

気の弱いヤクザ


川端かわばた 貴明たかあき

43歳

お笑い芸人のマネージャー 矢崎怜の恋人


ほし 太司ふとし

36歳

ICPO関西支部のエージェント


鳥取とっとり 刃吾じんご

29歳

スポーツインストラクター


五代ごだい 英之輔えいのすけ

20歳

大学生 モデル


奥田おくだ 邦子くにこ

48歳

華道の師範 前回の参加者の遺族


檜川ひかわ 友美ともみ

34歳

ICPO関西支部のエージェント


矢崎やざき れい

27歳

OL 川端貴明の恋人


神楽坂かぐらざか 龍子りゅうこ

25歳

地方公務員 運悪く紛れ込んだ


井上いのうえ 由織ゆおり

22歳

服飾デザイナー 英之輔の大学の先輩


〈狩る側〉


ドクター柳岡どくたー やなおか

46歳

資本家


本山もとやま 十和子とわこ

41歳

主婦 実家が大財閥


円城寺えんじょうじ 乱論らんろん

32歳

実業家



 自分の娘が、――しかもまだ小学校6年生の女の子が読んでいる本という先入観がなかったならば、もっと冷静にこの小説を評価できたのかもしれないが、今の私は、認めたくはないが動揺していた。

 文字通り目に入れても痛くないと言っていいほど溺愛している愛娘だ。それが得体の知れないホラー小説を読んでいるという事実に、私は言いようのない不安と恐怖を覚えていた。


 プロローグから、恐る恐るパラパラとめくってみた。


 なんだがよくわからないモノローグのようなものではじまっている。

 私は、このような意味深な、しかし一読しても意味がわからない用の思わせぶりのオープニングが苦手だ。詩のようなものではじまっていると、よけいに読む気がそがれる。

 もちろん唐突にストーリーがはじまるのがいいと絶対的に思っているわけではない。ディテールを積み重ね、登場人物たちの日常をきちんと描いた上で、その世界を崩していくという手法もあるし、一方で、いきなり問答無用で現在進行形の事態に読者を引きずり込むようにして物語を唐突にスタートさせる手法もあるだろう。

 どちらが優れていると言うことではない。

 ただ、この『炎夏饗宴』はディテールを積み重ねて日常を描くところからスタートしている作品のようだった。

 第1章では、生け贄となる被害者達の日常が描かれる。そして、拉致される経緯や理由などが漠然とではあるが描かれていく。三人称で書かれており、視点は次々に変化していく。

 第2章では、饗宴の舞台である無人島、「夏穂島」の描写と、10名の生け贄たちの様子、そして主催者側からこの「人間狩り」という死の鬼ごっこのルールが説明される。

 第3章では、いよいよ人間狩りのスタートだ。肉体派の殺人鬼、ドクター柳岡の動きがメインに描かれているようだった。

柳岡の最初のターゲットは、25歳の地方公務員、神楽坂龍子という登場人物。生まれついて運が悪いという設定らしく、開始早々ハンターである柳岡に発見される。ジャックナイフで腹部を切り裂かれる。柳岡は龍子のお腹に直接を手を突っ込み、腸を引きずり出そうとする。地獄のような激痛とパニックが描かれる。激痛でまともに身動きできないところを、上から押さえ込まれ、レイプされそうになるが、そこに「レディーの救世主」と自称する円城寺乱論が乱入し、柳岡から龍子を逃がす。龍子は重傷を負いながらも、逃亡に成功する。

 龍子の逃亡を成功させた乱論は柳岡とそれ以上争うことは避け、自分もその場を離れる。

 龍子の不運が乗り移ってしまったのか(この言いまわしは本文からそのまま引用した)、最初の犠牲者は、OLの矢崎怜だった。

 柳岡に筋弛緩剤を注射され、両脚を股間の付け根から切り離されてしまう。この描写は、下手な医学書の解剖の手順を読んでいるような書き方だった。そして、両脚を失った伶を、喜々としてレイプする柳岡の姿と、苦痛と死の恐怖に翻弄される伶の心情が描かれていた。柳岡は伶を犯したあと、まだ意識のある伶の両腕を切り落とす。多量の出血によりショック状態に陥った伶はここで死亡する。


 読んでいて、吐き気がしてきた。




 休憩することにした。

 冷蔵庫の中の、妻が作ってくれていた麦茶を取り出し、コップに注ぐ。

 窓から入ってくる風が、風鈴を揺らし、涼しげな音をたててくれる。


 まりあの昨年の読書感想文は、海外のファンタジー小説だった。

 読みやすいが本格的なハイ・ファンタジーで、原作は確かオーストラリア児童文学だった。

 児童文学の中にも、生や死などの難しいテーマに挑戦している読み応えのある作品は多い。一般の大衆文学や純文学と、内容的には何ら遜色のないものもあるのだ。

 まりあの読書傾向は、確かに年々変化し続けてきた。

 小さいときから妻も私も絵本の読み聞かせをしてあげていたし、幼稚園でも、小さな図書コーナーの本は自分で片っ端から読んでいくような子だった。


 まりあは今、いろんなジャンルの小説世界を見てまわり、模索をしているのだろうか?


 小学6年生。たしかにまだまだ完全に子どもだ。しかし、自分自身の目で世の中を見てみようという欲求と気概が強くなってきてもおかしくない年頃とも言えるのではないだろうか。


 父親として、もっと大きな心で子どもの成長を見守らなければならないのかもしれない。


 そのように考え、私は意を決して、『炎夏饗宴』の続きを通読してみることにした。




 第4章。このパートでの主役はハンター側の殺人鬼、本山十和子だ。

 彼女の最初の標的はお笑い芸人のマネージャーをしている、川端貴明という男だった。

 十和子は持参した出刃包丁を使い、貴明に襲いかかる。滅多刺しにしたあと、絶叫して命乞いをする貴明をご満悦そうに眺めながら、十和子は貴明のペニスと睾丸を包丁で切り落とす。貴明は気絶し、そのまま十和子に殺される。

 次のターゲットは華道の師範をしている奥田邦子だった。十和子は、邦子の商売道具でもある、年齢のわりには美しくてしわのほとんどない手の指から、一枚ずつ爪を剥がしてゆく。血まみれのなった指から爪を10枚剥ぎ終えると、今度は指を一本ずつ詰めていった。

 そして、包丁の他に持参していたヤットコを器用に用いて、歯を一本ずつ抜いていくのだ。前歯は抜きやすく、奥の方の歯になるにつれて抜きにくくなるのが丁寧に描写してある。11本の歯を引き抜いた時点で、邦子はあまりの痛さに気絶してしまう。

 十和子は興味をそがれ、包丁で左胸を一突きしてとどめを刺した。


 延々と続くグロテスクな描写に、吐き気が強くなってきた。

 そう云えば朝起きてからまだ何も食べていない。空腹なのでよけいに気持ち悪いのかもしれないが、かといって食欲は失せてしまっている。

 昨日買ってきていたスティック状のパンをビニールからひとつ取り出し、囓ったが、美味くなかった。



 第5章は、フェミニストなマッドヒーロー、円城寺乱論が主役のパートだ。

 乱論はこの夏穂島にいる女性を助けてヒーローになる目的でこのゲームに参加しているのだが、基本的には彼も殺人鬼に違いはなかった。

 まずは若い男をセレクトした。五代英之輔。大学に通いながら、ファッション雑誌の読者モデルもしている彼は、いわゆる“イケメン”だ。彼も日本刀で切られ、致命傷を負う。出血多量で瀕死のところを、ガソリンをかけられ、火をかけられる。焼死。

 このあと乱論は、このゲームで最大の的と目する、ライバルハンターのドクター柳岡と直接対決を挑む。柳岡には、矢崎怜を殺されてしまっていて、神楽坂龍子も瀕死の重傷を負わされてしまっている。乱論から見れば歯がゆい邪魔者なのだ。

 肉体派の柳岡と技巧派の乱論の対決は熾烈を極めるが、一瞬の隙をついた乱論が柳岡を日本刀で串刺しにし、身動きを封じる。乱論は柳岡の顔面を踏みつけ、そのまま踏み続けて脳みそがはみ出てくるまで踏みつけて踏み殺した。




 こんなに悪趣味な小説は久しぶりに読んだ。いや、はじめて読んだ、といっても過言ではない。

 私が好んで読むのは時代小説や歴史小説や自伝、そしてエッセイなどの読み物だ。

 若いころはSFばかり読みあさっていたころもあったが、もう10年以上SFは読んでいない。

 フィクション性の強いものもたまに読むが、異世界を舞台にしたようなファンタジー作品などは趣味ではなかった。

 ミステリーも読むが、密室殺人などが行われたり猟奇的な連続殺人などが繰り広げられるようなものはほとんど読まず、もっぱら社会派のミステリーを好んで読んでいた。


 こんなスプラッター映画のような小説を好んで読むものがどれほどいるのだろうか?


 ……一瞬失念していた。我が子が、この本を読んでいるのだ。しかも喜んで、自分から。


 気がつくと時刻は午後1時を回っていた。




『炎夏饗宴』の第6章の最初のページに、可愛い付箋紙がついていた。

 まりあの字で、【まりあのお気に入りの章☆ すっごい迫力!】と書いてある。



「……むぅ……」

 私は思わずうなり声を漏らしながら、目をそむけたくなるようなその小説の続きを開いた。







 第6章 



 髪の毛は完全に燃えてしまっており、ガソリンをかけて焼かれた顔面は灼けて焦げ果ててしまっていて、それがあの端正だった五代英之輔だったと見分けるのはたとえ彼の同居の家族であっても困難であっただろう。

 ましてや、同じサークルに所属していたとはいえ、特別な間柄でもなんでもなかった井上由織が、英之輔の焼死体を見て、彼だと判別できなかったのは当然のことであった。

 ただ、注意深く見ていればその死体が履いている泥だらけのスニーカーが、以前由織が「趣味がいいね」と誉めたことのある白いPUMAのスニーカーであることに気づいていたかもしれない。

 しかし今の由織に死体の履いているスニーカーを観察する余裕などあるはずもなかった。


 由織はあのキチガイ主婦――リアル山姥やまんば――出刃包丁とヤットコを握った殺人鬼――様々な呼び名が脳裏を交錯する――、本山十和子に追われていた。

 この遁走劇がはじまって半時間は経つ。まだ22歳の若い由織に対し、十和子は41歳。体力では由織に分があるはずなのだが、いかんせん学生時代は文化部ばかりで運動音痴、社会に出てからもスポーツらしいスポーツは何もしてこなかった由織だ。両脚は瘧がかかったように震えてきている。なんとか前方を向き、力の入らぬ脚に鞭を打って、すでにかなり日も傾いてきた鬱蒼たる森の斜面を滑るようにして駆けてゆく。

 十和子の追跡は驚異的で神がかっていた。ときおり「――逃げても無駄よ〜……」「――そんなに走ってどこへ行こうというの〜……」などと、不気味に殷々と響き渡る陰鬱な声が岩壁にこだまするのが遠くに――いや案外近いのかもしれない、と恐怖心でそう感じる――聞こえてくる。

 走った。

 これまで目撃してしまった幾人かのメンバーの壮絶な死に様がフラッシュバックする。

 走って体温が上がったことによる発汗と、恐怖による発汗で、由織のタンクトップは重く湿って、爽やかなブルーではなく泥だらけの、青と鈍色の混じったような色に変色していた。

 夏らしい涼しげなコーデだったのに、と、由織は恨めしく思う。

 タンクトップの背中は大胆に大きく開いており、そこからはブラの、ピンクがかった赤色のリボンが覗いている。白いショートパンツも眩しいほどの爽やかさだったのだ。

 髪も夏ヘアーらしくゆるめに結って、白いレースのシュシュで斜めにまとめていた。

 それが今はこの見るも無惨であろう姿となっている。

 突然制御できない怒りが込み上がってきた。

「なっ……!」

 息の上がりきったのどから言葉がもれる。

「――なんでっ、あたしがっ……こんな目に遭わなきゃいけないのよぉっ!!」

 不条理な現状への怒りが噴出した。そのとき由織は一瞬恐怖を忘れていた。

 急な坂道を無謀と思える勢いですべり降りる。恐怖はなかった。無我夢中で辺りの枝に手を伸ばしてブレーキをかけながら斜面を落下するように下りてゆく。

 由織は自分がムササビにでもなったかのような解放感を覚えていた。

 谷の底にたどり着く。それでも怒りにまかせ、全力――いや、限界を超えた速度で疾走する。鬱蒼とした谷底。なだらかに別の斜面へ上ってゆける獣道のようなものを発見。駆けのぼる。

 樹々の数が減ってくる。岩が増える。

 激しい息づかい。

 誰? なんなの?!

 再び沸き起こる恐怖心。パニック。

 その息づかいは追っ手のものではないことに、由織は気づく。

 そうだ、この荒く汚いかすれた呼吸音は自分自身のものだ。


 荒涼とした場所に、由織はたどり着いていた。


 夕日が辺りを熟れたオレンジに鮮血を撒き散らしたような色彩に染め上げてゆく。

 地獄の一丁目から、あたしは地獄の二丁目を走り抜けて、いま地獄の三丁目に佇んでいるのだ。

 由織は亡者の歩む速度でとぼとぼと前進しながら、いつの間にか殺人鬼の一人、本山十和子の悪趣味な追跡から逃れることに成功していたことに気がついた。


 眼前の地形が赤い夕日に照らされて燃えているように見える。

 人生最悪の夏。燃える炎の夏。

 このままでは高い確率で、人生最後の夏となる。

「……うっ――うぐっ、……げほぉっ!」

 由織は嘔吐した。固形食糧を口にしてから2時間、最後に水を口にしてから1時間以上経っている。胃液と胆汁の混ざった苦くて酸っぱい液体が食道とノドを灼いていく。

 目からは涙が吹き出す。


「――?!」

 物音がした。

 

 生ぬるい風が吹き、汗にまみれた由織の頬からわずかに体温を奪う。

 なんなの?

 霊感などは一切ない由織だ。しかしたったいま、空気が変わったのをはっきりと感じた。

 由織に今の状況を言葉にして表現できる余裕はなかった。もし、由織が直感的に察知したことを言葉で表現するとするならば、写真の映像がポジからネガに切り替わるように、周囲の風景に漂う空気の色が“生”から“死”へ、――言い換えるならエロスからタナトスへと変質するのを由織は感じ取っていたのだ。


 薄闇の色合いが濃くなった。

 由織は、己の肌に嫌な空気がまとわりついていくような錯覚を覚えた。


 前方の岩陰から、見覚えのある女性の姿が現れた。

 女は腹部を両手で抱きしめるように押さえていたが、下半身がびっしょり、まっ赤に濡れていた。

 出血しているのだ。

 押さえている手の端から、何かがはみ出ているのが見える。

 長いウインナー――腸詰めのようなものだ。しかし食欲をそそるような色ではけしてない。

「――龍子さん……?!」

 

 そこに立っていたのは、腹部から己の腸をはみ出させた、神楽坂龍子だった。





 檜川友美こそがこの“死の饗宴”を主催している組織「カンタン」を壊滅させるべく遣わされたICPOのエージェントであった。

 しかし、今は組織の潜入捜査どころではない。ともに潜入したパートナー、星太司とははぐれてしまい、逆に組織が「狩られる側」の中に潜ませていた人物、鳥取刃吾に狙われ、追撃を受けていたのだ。

 友美は命からがら刃吾の追跡を振り切り、この荒涼とした空間場所にたどり着いた。


 空間自体の色調に、異常なものが溶け込んでいる。そんな感覚を友美は覚えた。首筋の後ろにゾワゾワとした悪寒が上がってゆく。


 目の前に広がった場所の中央に、何者かが立っていた。





 柳岡の手で無理矢理に腹部を引き裂かれ、ぶりぶりっとしたハラワタを引きずり出されときの瞬間を、神楽坂龍子はぼんやりと思い返していた。

 皮膚の下には、黄色味がかった脂肪層が見えた。その奥には、赤い肉の層。自分の意志とは無関係に痙攣する筋肉。

 千切られた血管から漏れ出る血液。激痛に身を捩ると、驚くほど血飛沫が舞った。

 腹部の激痛は、主にはその傷口からのものだと感じた。腸がはみ出たことによる痛みというものは、意外と感じないものだ。ただ、強烈な違和感があるだけだ。

 激痛は腹部から背筋を通って頭部で爆発した。目がひっくり返りそうになり、気が遠くなった。

 柳岡は、恍惚とした表情で引きずり出した龍子の腸をやわやわと揉んでいた。

 この世に鬼がいるとしたら、この柳岡という男もその中の一匹だと思った。


 記憶はとぎれとぎれだ。その後どうやって柳岡の魔手から逃げ延びたのかも、どうやってこの森を歩いてきたのかもしっかりとは思い出せない。

 意識も、そして龍子の命の灯火も、限りなく薄らぎ儚いものになっていっていた。


“何か”が忍び寄ってきていた。

 奇妙な“接触”が彼女に訪れた。

 感じたのは皮膚への違和感。そして“それら”は、龍子の皮膚に染み入るようにして侵入してきた。

 痛みと快感が綯い交ぜになったような強烈な感覚。渇ききったノドに注ぎ込む強炭酸の刺激ような、足ツボに強めの刺激を受けたときのような、虫刺されの痕を思いっ切り掻いたときのような。先ほどまでの激痛に苛んだ非日常的な苦痛の感覚から比べると、奇妙に馴染みのある肉体感覚。

 気がつくと、激痛や苦痛には靄がかかったように薄らいでいた。

 その次に訪れたののは、愉悦の快楽だった。

 己の肉体が――肉体だけではない、魂さえもが――自分自身とは異なる異質な存在ととろけ合う根元的な愉楽――!

「……っ。……あ……っ」

 知らず、龍子は声を漏らしていた。

 夥しい失血で失われていた全身の血色が蘇ってくる。頬に朱がさす。

 と、不思議なことが起こっていた。

 はみ出していた腸が、腸自体が自らが意志を持つ生き物に変じたかのように、龍子の裂けた腹部の傷口の中へ潜り込んでいったのだ。そして、破けた皮膚がみるみるうちに再生していった。

 





 神楽坂龍子だった。膝がガクンと折れ、前に倒れ込む。

 しかし友美はすぐには駆け寄らなかった。

 ICPOで数年働いた中で培った直感だったのかもしれない。危険を察知していた。

 大地に寝ころんだ龍子は、しばらくのあいだゆるやかに蠢いていた。苦しみに身もだえているのかと言えば、そのような印象ではなかった。むずがっているような、そんな様子に見える。

 身体に力が入ったかと思うと、虚脱する。よく見ると、股間から染みのようなものが拡がった。血ではない。失禁したようだ。

「――なにが起こってんの……?!」

 龍子の身体に生じている異常に、友美は嫌な予感を強くする。


「……ぐぅぅ……ぐぉおぉぅ……」

 龍子のノドから、獣のような、地響きのような低い呻き声が発せられていた。

「……ぐおうぅ……!」

 ゆらり、と、龍子はその身を起こしかけた。

“人”ではない。

 友美は直感でそう悟った。

 眼前に動いている“それ”は、少なくとも人ではない。

人どころか、生き物であるのかもよくわからない。

「ごがぁああオウゥ……! ……があぁあアアっ!!」

 それは吠えた。





「龍子さん……? どうしたのっ?! 何があったの?!」

 由織は恐る恐る龍子に近寄った。

 と、

「……うごォルがあァアアっ!!」

 龍子の姿をした何者かが、非人間的な声で吠え声を上げた!

「ひぃっ?!」

 由織は驚いて、尻餅をつく。

 龍子が、由織の存在に気づいた。

 目の色がおかしかった。

 白目の部分がない。本来白いはずの白眼の部分が墨のように黒いのだ。

 そして、本来黒いはずのまなこの部分は、赤かった。

 目の中に、昏い炎が燃えているようだ、と由織は思った。

 ゆらり。

 龍子が由織の方へと歩いてくる。

 ヤバイ。

 これは、龍子さんではない。

 化け物だ。

 龍子が身に纏っている邪悪なオーラが目に見えるようだ。肉眼で確認できる、物質的なオーラ。

 有機物である、悪霊。

 そんな不気味で不可解な代物に、神楽坂龍子だったものは支配されていたのだ。

「きゃああああああぁぁっ!!」

 由織が悲鳴を上げた。

 化け物は身じろぎもせず、由織に近づいてくる。

「由織ちゃんっ逃げてっ!」

 声がした。

 聞き覚えがある。

 あの人だ。あの、関西弁の女性だ!

 助けに来てくれた!

「立ち上がって!」

 檜川友美だ。

 しかし由織は、身が竦んでいて、すぐには立ち上がれない。

 そんな由織の様子を察したのか、友美は化け物に体当たりをした。

 走り寄ってきたその勢いのまま、激突した。

 龍子の姿をした化け物は、倒れるはず――だった。運動力学的にいって。

 ところが吹き飛んだのは友美の方だった。化け物は、そのままの姿勢で突っ立っていた。

「なっ――?!」

 友美が驚愕の声をあげる。


 化け物が、友美の方を向き直した。

 化け物は、友美の右腕を掴んだ。

 すばやい動きだった。躱すことができず友美は腕をねじり上げられる。

「くぅっ!」

 友美は痛みに声を漏らしながらも、身につけている護身術で応戦しようと試みた。

 左膝蹴りを化け物の腹に叩き込む!

「痛っ?!」

 硬い!

 分厚く硬いゴムかなにかに膝蹴りしたような衝撃。

 そして次の瞬間。

「ああっ?!」

 友美は悲鳴というより驚きの声を上げていた。

 化け物が、友美の右腕の二の腕に喰らいついたのだ!

「ぎゃあっ!!」

 突然の激痛に今度は悲鳴を上げる。

 噛みつき、肉を引き千切る。

 皮膚が破け、血が流れ出る。肉が覗く。

 かなり深く噛まれた。肉の奥に、骨が見えていた。

「ぎゃああああああぁぁっっ!!!」

(食べた、こいつ)

 友美は信じられない思いで、元は神楽坂龍子だったこの、昏い炎のような目をした化け物を見た。

 くちゃくちゃという、嫌な咀嚼音が耳に障る。

 目の前にいるこの正体不明の存在に、百戦錬磨のICPOの捜査員も、心の底から恐怖を覚えた。

 化け物は、ニタリと嗤った。そして、強烈な握力で掴んだままの友美の腕を、肘の曲がる方向とは逆の方向――逆間接に――容赦なく力を込めた。一気に。

 ボキッ!

「ぐわあぁっ!」

 友美の肘が、通常の方向とは逆の方へへし曲げられた。その一撃で、友美の右肘は完全に折れていた。

「ひいいぃ!!」

 パニックの声が出る。自制できない。

(腕が――肘が――)

 化け物のアクションはそれだけでは終わらなかった。

(なんなのこの化け物――!!)

 化け物は、友美の髪の毛を容赦なく掴むと、凶悪な力で一気に引っ張った!

 ぶぢっ!

「うわあああああッッ!!」

 大量の頭髪が引き抜かれた。根元には、毛根どころか頭皮――血まみれの肉片が一緒について来た。

 びしゅうぅぅ

 激しい出血。あっという間に友美の顔面は鮮血に濡れてゆく。

 友美の心と頭はパニックを起こしていた。まともな判断などできようもない。ただ、「この化け物から逃げなければ」という生の本能により、足掻いていた。が、化け物の魔の手は獲物を捕らえたまま離さなかった。

左腕をしっかりと掴む。肘をまん中に、右手と左手でしっかりと。

「や、やめて……」

 友美はそう声にしたつもりだったが、実際口から出たのは掠れたような呼吸音だけだった。

 ごきっ!

 右肘に続き、今後は左肘がへし折られる。

 骨が折れ、筋肉、脂肪層、皮膚を突き破って外へ出てくる。

 迸るまっ赤な血液。

 両腕が見るも無惨にへし折られ、血まみれにされてしまった。力が入らない。友美は大地に突っ伏した。許容範囲を一気に超えた激痛の波が押しよせる。後頭部が爆発しているような感覚。

 股間が濡れているのが気持ち悪い。知らぬ間に失禁していたのだ。尿が止めどなく出ている。止まる気配がない。

 うずくまっていた友美を、化け物が足で仰向けにさせる。

 友美は空を仰ぎ見た。

 夕焼けの赤と、宇宙の色をした深い紺色が混じり合った空が、途方もなく高く、広がっているのが目に入った。

 肉体を支配している激痛から魂が逃れ、その美しい空に上がっていきたいと願っているような気がした。

 ドスッ!

 無遠慮な音と暴力的な衝撃が自分の腹部から生じる。

 化け物が、腹を踏みつぶしたのだ。

 重い一撃。おそらくかなりの内臓が致命的な損傷を被ったことだろう。目の前に火花が散る。脳がでんぐり返るような眩暈感。内蔵が発する、吐き気というより痙攣に近い苦痛。

 朦朧とする友美の意識が最期に捉えたのは、自分の顔面を殴り潰そうとする、化け物の拳の一撃であった。





 由織は逃げた。

 岩壁が複雑に入り組んだ地形に逃げ込む。

 友美が助けに現れたとき、由織が最初に思ったのは「助かった」「ありがたい」というより、「ラッキー!」という言葉が一番近かったのかもしれない。

 身代わりが来てくれた、と思ったのだ。

 邪悪なドス黒い可視のオーラを纏う異形の怪物。あれは、神楽坂龍子ではもうなくなっていた。

 一定の距離を逃げたと確信してから、由織はもと居た方を振り返った。

 直接は友美や化け物の姿は見えないが、なんだかおぞましい光景が繰り広げられているのが見えるような気がし、怖気が走った。

 しかし、アレは何者だったのだろう?

(この夏穂島って一体なんなの?)

 由織は荒い呼吸を整えながら、混乱する頭を少しでも整理しようとした。

 すると!

「?!」

 気配を感じた。

(……声……聞こえる……!)

 遠くから、歌うような声が、暮れたばかりの薄い夜風に乗って流れてきた。


「…………逃げても……無駄よぉ……無駄なのよぉ……」


 聞き覚えのある声!

 アイツだ!

 出刃包丁ヤマンバの十和子だ!


「……そんなに走って、どこ行くのぉ〜……」


 自分の姿を声が聞こえる方向に見えないように細心の注意を払いながら、岩陰を移動し、十和子の姿を確認する。

 岩を少し上った位置から、下り坂を歩いて下りてゆく本山十和子の姿が見えた。

(……あ……っ!)

 そして由織は見た。

 十和子の進む先に、十数分前までは人間だった――今はもう人外の存在へと変貌を遂げた――神楽坂龍子だった化け物の姿があった。

このまま歩いていけば、両者は鉢合わせする!

(…………お願い……!)

 由織は心の底から祈った。

(遇え! ヤマンバと化け物!)

 あまりにも強く祈りすぎて、最後は口から言葉が漏れていた。

「……お願い……! 出くわせ……! 殺し合えぇ……っ!!」



 夏穂島に、生ぬるい夜風が大きく吹き抜けてゆく。







 まりあが気に入っているという、第6章を読み終えた。


 まりあ感想文の中でこの章のことをこのように書いている。



 わたしは、全12章構成のこのお話の中で、特に第6章が好きです。

 登場人物の中の一人、神楽坂龍子という女の人が、死にかけていて、正体不明の悪霊に憑依されて化け物に変身するシーンがとても気に入ったのです。

「悪霊」と書きましたが、実際には、この夏穂島に住む有機的な組織体みたいです。ふつう有機体というのは「生命」と近い意味があると思うのですが、この「悪霊」は「死」の生命体という感じで表現されていました。

 難しい言葉で云うと「タナトス生命体」というらしいです。

 この設定がなんだかとてもしっくりきて、読みながらこの物語がますます好きになりました。


 人に危害を与えたり、殺害することはいけないことだし許されません。

 だけど、物語――フィクションの中でこういった“殺戮”や“死”が描かれ、それを読者が読むことで、普段味わえない「死の危険」を疑似体験できることは、現代に生きるわたしたちにとってはかかせないサプリメントなんじゃないかなと、わたしは思いました。

『炎夏饗宴』を読んで、わたしは生きるということのありがたさに改めて気づかされたような気がします。



 ところで、作者の紀伊花さんって、男なんだろう、女なんだろう?

 気になります。






 夏の昼下がりの蒸し暑さと、生理的嫌悪感を感じる読書とのダブルパンチでかいてしまった嫌な汗を、シャツが大量に吸いこんで湿っている。

 私はシャワーを浴びることにした。

 家中の窓を閉めてまわり、リビングのエアコンのスイッチを入れ、27℃に設定する。

 着ていたものを洗濯機に放り込み、裸になると浴室に入った。

 ああいう、人体損壊を扱った小説を読んだあとだからか、いつも以上に、全裸になった自分の姿が無防備な感じがして落ちつかなかった。


 風呂上がり、今度は麦茶ではなく、100均で買ってきていたコーラを開け、飲み下す。


 刺田紀伊花作、『炎夏饗宴』。

 悪趣味な小説だが、娘が好きで読んでいる小説だ。ここまで読んだのだから、最後まで通読しよう。

 そう思い、私は第7章のページを開いた。




 第7章では、島の悪霊だか未知の生物だかに憑依され(寄生され)謎の怪物と化した神楽坂龍子と、もともと饗宴の“狩る側”として参加していた殺人鬼、本山十和子の壮絶な死闘が描かれていた。

 十和子はすでに人としては常軌を逸しており、はじめは互角の戦いを繰り広げる。が、強敵と出会ったことで怪物はさらにその凶悪なパワーを増し、死闘の末に十和子は口に両手を突っ込まれ、上顎と下顎を裂かれて、怪鳥のような断末魔の声を辺りに響かせながら絶命した。



 第8章では、現在この島で生き残っている3人が、もう一人のICPOのエージェントである星太司の導きで合流し、夏穂島からの脱出を試みるという展開になる。

 狩る側であった円城寺乱論も、メンバーがほとんど死に絶えた今、生き残っている唯一の女性である井上由織を守るために行動しようと考えていた。

 しかし、脱出するために向かった港の手前で、化け物に追いつかれてしまう。

 星太司は後ろから羽交い締めにされ、生きたまま右目をくり抜かれる。そして、そのくり抜いた右目を左目に無理矢理突っ込まれて、両方の眼球を潰されてしまう。

そのあと鼻に突っ込んだ指で鼻を裂かれ、ノドを裂かれ、腹を割かれ、最後に背骨を比しおられて絶命する。



 第9章。小型船に乗り込んだ乱論と由織。エンジンをかけるのに手間取っているうちに、化け物は船の中へ潜入してくる。パワーと再生能力の増した化け物対、日本刀を振るう乱論の一騎打ち。戦いの最中、船は由織の頼りない運転で本国を目指し進んでゆく。

 乱論の日本刀の一撃が、化け物の頭部を斬り飛ばす。化け物の身体は海に落ちる。戦いに勝利し、その場にへたり込む乱論。しかし、頭と首だけになっても化け物は生きていた。乱論の首根っこに食らいつく化け物。その恐るべき咀嚼力で、乱論の首から肩にかけてを喰い千切り、呑みこんでゆく。喰い千切られた乱論の肉片は、本来化け物の食道に続くはずだが、首だけになっているのでそのまま外にぼとぼとと落ちてくる。

 その場面を見た由織は半狂乱になる。しかし乱論に「コイツを海に捨てろ!」と指示され、がむしゃらに化け物の頭皮を掴み、乱論の首から引き剥がす。化け物に睨まれ「ハナセ」と云われて仰天して手を離してしまうが、無我夢中で由織は化け物の頭部を踏みつけ、何度も何度も踏んで硬い頭蓋骨を踏み潰し、暗い海への投げ込むことに成功した。

 間もなく乱論は出血多量により死亡。最終的に生存者は井上由織1名となった。


 朝日が昇るころ、陸地が見えてくる。周囲で漁をしていた漁船に発見され、無事安全な大地を踏むことに成功する。



 エピローグ。この物語は、由織が乗ってきた小型船に置いたままにしていた円城寺乱論の遺体を、地元の警察が実況検分しているシーンで幕を下ろす。

 小糠雨の降りしきる波止場。夕刻の薄闇の色合いが濃くなる。

 死体の検分をしていた検死官は、自分の肌になにか嫌な空気がまとわりついていくような感覚を覚える。

 そして、この辺り一帯の色調に、なにか異質なものが溶け込んでいるような気がして、首筋の後ろに悪寒が走っていく。

 視界の端で何かが動いたような気がした。



 物語はそこで終わっている。






 まりあの感想文は、次のような文章で締めくくられていた。



 このお話では、次々と登場人物が死んでいきます。

 残虐な殺し方をされますし、殺害方法やその描き方はグロいものばかりです。

 だけど、私は思うのです。

 日常の中では、人間は、例えば病気とか、事故とか、運がよければ老衰とかで亡くなっていきます。自殺で自ら命を絶つ人も1,2,30代の人には多いそうです。

 これは、地球上の生物の中ではある意味とても特殊な状態だと思うのです。

 人間以外のほとんどの生き物(動植物)は、他の天敵に命を狙われ、常に死の危険と隣り合わせの状態で生きています。だけど、恐怖で狂ってしまう生き物はたぶんいません。

 この『炎夏饗宴』の中で“狩られる側”の登場人物たちは命を奪われる危険が常につきまとい、必死で生き抜こうとします。

 この物語は、人間を「地球上の特別な存在」としてでなく、ただの生命体、言い換えれば「骨と血と臓物と排泄物を内包した肉袋」として描いています。

 人としてのつまらないプライドや常識や先入観や、とるに足らないこだわり、美意識、優先順位、道徳観、社会的責任、自分らしさ、理性などを、魚屋さんが魚から鱗を落として内臓を取り出して“捌く”のにも似て、どんどんそぎ落としていく過程が描かれているような気がするのです。

 人間は特別じゃない。

 人間だけが地球上で特別扱いされるのは間違っている。

 人間も他の動物と同様に服と皮膚を剥ぎ取れば中身は他の動物と何ら変わりはない。

『炎夏饗宴』はそんな当たり前のことを教えてくれる教科書なんだと思います。






 ぶぅぅぅ ぶぅぅぅ

 読み終えるをの待っていたかのように、私の携帯電話が震えた。

 メールの着信だ。

 娘のまりあからだ。

「いま市内に入ったよ('∀'●) おみや、楽しみにしててねっ!(o>ω<o)」

 おみやとは、お土産のことだろう。

 私はまりあの感想文と、ブックカバー付きの『炎夏饗宴』を机のもとあった位置にもどしてからリビングに戻った。

 テレビをつける。

 いつもと変わらぬテレビ番組を見て、なんだかとても「日常に帰ってきた」という安堵感のような気持ちが溢れた。

 時刻はもう夕方の6時を回っていたのだ。

 窓の外から、まっ赤な夕日が差し込んでいる。

 ニュース番組を見ていると、妻の運転する車のエンジン音が聞こえてきた。そしてしばしの間があいたのち、玄関を開ける音と

「ただいま〜っ」

 という、娘のいつもと変わらぬ声が聞こえた。

「お父さん〜荷物あるから手伝ってぇ」

 まりあが玄関口から私を呼ぶ。

 私はソファーから身を起こし、玄関でサンダルを履いて駐車場の娘に声をかけた。

 お気に入りのミニーマウスのTシャツに、デニムのミニスカに、夏らしいサンダル。

 髪形をおだんごにした、最近オシャレに凝りだした、私の娘だ。


「おかえり。お疲れさん」

 なんだか妙に安堵して、私はまりあにそう云った。


「ただいまぁ」


 まりあが振り返った。



 暮れゆく赤い夕日が映って、まりあの瞳が赤く光ったように見えた。


 どうしたのだろう。


 私はまた、嫌な汗をかいていた。









今年の夏に書いた二本のホラー作品のうち、『natsuho』が正統派ホラーとすれば、こちらは異色作というか変化球だと思っています。

ご感想をいただけると幸いです。

お読みいただきありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
[一言] 最初から何?怖!面白そう!!ってなり最後まで一気に読んでしまいました。いや〜面白かった。小学生の女の子がこんなのを読んでる時点でもう怖すぎる…この設定はほんとに憎い…自分の書いてるホラー小説…
[一言] こんにちは。^^ 遅ればせながら、作品を読ませて頂きました。 表紙の注意書きを読んで覚悟はしていたんですが、注意書きに違わず……凄かったです。(汗) こういう描写もされるんだなぁ、と妙な事…
[一言] Natsukoに、続けて読ませて頂きました。確かにさすらい物書きさんには、めずらしく凄惨なシーンもあって、眉間にしわを寄せながら読んだのですが、でそれから?と言う感じで、引き込まれて一気に読…
2007/09/11 16:41 おだんご頭
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