(5)
「お帰りなさいませ、クリスフォード様」
厩に馬を入れている時を見計らうように、マチューがやって来た。
「クリスで構わんよ」
そうくだけるクリスに
「ソニア様の旦那様になるお方に、自分の友人さながらの扱いはとてもできません」
と、いやいや、とマチューは苦笑混じりに断る。
仕方ないと軽く肩をすくめるクリスに、マチューは声を落とす。
「それで、司祭様の本音は聞き出せましたでしょうか?」
実は――何度か司祭に悪魔払いを依頼していたのだが、何かと理由をつけて断られていたのだ。
今回もクレア家を継いだソニア依頼だとしても、引き受けてもらえるか怪しいところだ。
そこでクリスが名乗りを上げ、使者の後を隠れて追って様子をみていた。
断る裏に、何か隠された陰謀がないとは言い切れないからだ。
やはり断りをいれられて肩を落とし帰っていく使者を見送って、クリスは司祭と対談した。
「私の素性を明かして尚、パトリス王の名を出してもなかなか本音を話してはくれなかったから、こんな時間になってしまったが……姫君は不振がってはおりませんか?」
「はい、領地を見て回ってソニア様の生まれ育ったこの地に、良い便りを探して元気を出していただきましょうと話しておりました、とお伝えしております」
「君の方が、女性の扱いが得意そうだね」
そうからかうクリスにマチューはご冗談を、と白髪混じりの眉毛を寄せて気難しい顔をする。
「――まあ、司祭の話が真実なら教皇が出なくては無理な相手かも――いや教皇でも難しいかも知れない」
「……それは、やはり……」
更に気難しい顔を見せるマチューにクリスは
「貴方はご存じですね?」
と真顔で尋ねた。
はい、と悲しげに瞳を伏せるマチューにクリスは
「王にお伝えして対策を考えなくては……。相手が闇に落ちた司祭では、色々不都合がありますからな」
と話し、馬にくくりつけておいた籠を外す。
籠の中には春の野に咲く花々と、熟れた木苺、それとクリスが打ち落とした鳩が入っていた。
「この辺りの民達は気安くて良いな。すれていなくて皆、穏やかな顔をしている――良い土地に良い支配者だという印だよ」
「恐れ入ります」
「少なくてもマチュー、君が姫君に伝えたことは嘘にならなくて済んだわけだ」
そう歯を見せ悪戯な笑いをマチューに見せて、籠ごとソニアに渡すために城へ運んでいった。
◇◇◇◇
玄関まで出迎えたソニアは、クリスから籠を受け取って目を丸くした。
野に咲く花の青く瑞々しい香り。そして甘酸っぱい木苺の匂い。
「摘みたての香りがします」
「味見をしてみますか?」
クリスが籠から木苺を一つ摘まんで、ソニアに見せる。
粒が大きくて艶やかに赤く熟れていて、いかにも美味しそうだ。
「美味しそう!」
我を忘れて、クリスが摘まんでいる木苺にパクついてしまった。
やってしまって、ハッと口に手をあてながらモグモグしているソニアに
目を見開き唖然としているクリス。
そして
「ソニア様、大人気ございません」
とたしなめる侍女頭。
「ご、ごめんなさい……」
熟れた木苺のように赤くなるソニアにクリスも、照れ隠しに
「いや……、その、静電気が起きなくて良かった」
と一つ咳払いをした。
「こんなに新鮮ならそのまま食べるか、タルトにでもして頂きましょうか?」
侍女頭の助け船に、ソニアは「そうね」と籠を渡した。
――変よね
ソニアは食事を取っていないクリスを食堂に案内しながら、チラチラと彼に視線をやる。
今日は、彼が気持ち悪いとか怖いとか全く感じない。
それどころか、セヴラン様を想う時のように胸がドキドキと鼓動を打つ。
(さっき指にパクつくなんて、はしたないことをしたせいかしら?)
本当、いい加減淑女らしくしないと。結婚するんだし。
――結婚
それを考えると途端、気持ちが沈む。
自分は彼を生涯の伴侶として見ていけるのだろうか?
尊敬は出来る――だけど、いずれ後継者を残すために子を作らなくてはならない。
(彼と出来るのかしら?)
想像する。
服を脱いだら、クリスの厚くて固い胸にモジャモジャとあれ放題の畑の如く胸毛が……。
自分の肌に触れると剛毛でチクチクと刺さって、いや、ゴワゴワと……
「痛い……痛いわ、いたたたた」
想像するだけで痛くなってしまう。
「? 刺でもありましたか?」
「えっ?」
「痛い痛いと先程から……」
クリスに言われ、つい口から思っていることがただ漏れしていると分かりソニアは
「いえ、大したことありませんわ」
と作り笑いを向けた。
――それどころか、思っていないことまで口から出るなんて
(どうなってしまってるんだろう? 私の身体……)
一度、お医者様に診ていただいた方がいいのかしらと、悩みに頭を巡らす。
「姫君」
隣にいるクリスがソニアに声を掛ける。
「結婚のことなのですが」
――きた!
ソニアは、痛くなる程の胸の動悸を感じながらクリスの顔を見る。
「結婚式は、しばらく後にしませんか?」
「……えっ?」
思いがけない言葉にポカンとしたソニアに、クリスは理由を告げた。
「私と姫君は確かに初対面ではありませんが、もう大分昔の話。しかも貴女が幼い頃の時です。修道院から出てすぐに、しかもこんな年上のおじさんでは、なかなか馴染まないと思いましてね」
「いえ、そんな……。おじさんなんて……」
会った時は気を失う程に衝撃を受けたが、それは迎えに来る人がセヴラン様だとずっと思い込んでいたからであって。
それに――髭面に驚いたのもある。
別に年上の人が嫌い、というわけではないのだと今回の帰郷で気付いた。
(……クリス様みたいなお方なら――)
と思うのに。
――どうしても髭が嫌。それに付随する毛深さも駄目。
「もう少しお互いに知り合って、心安くなってからでも良いかと思いましてね」
もっと時間をかけていけば、彼の髭や毛深さが気にならなくなるかしら?
確かにこのまま結婚したら、まともな新婚生活が送れないだろう。夫婦仲が最悪になるかもしれない。
――でも
「けどクリス様。この結婚はパトリス王がお決めになったもの。王の仲介で結婚する者は王も式に参加されるはずですから、王の予定に合わせた式の日にちに決定されるかと。私達の勝手で予定の変更は出来ないのでは?」
「それなら問題はありませんよ」
「えっ? 大丈夫なのですか?」
「今度、一月後に王宮でパトリス王の生誕祝いの舞踏会が行われます。そこで私達の結婚のお披露目も行う予定と。それは通達がきていらっしゃいましたよね?」
「はい、勿体ない話です。私達のために」
「姫君は王の従姉妹の娘に当たる方。親族で王は被後継人。しかも、国最大の保有財産をお持ちです。何よりも王は、姫君を本当の娘のように思っていらっしゃられますから、共に祝えるのが嬉しいのでしょう」
「なら尚更、結婚式を延期するなんて王が知ったら、お嘆きになるのでは……」
「憂いに満ちた表情で来た花嫁の貴女を見るよりは、ずっと良いと王もきっと思うでしょう」
思わずソニアは自分の頬に触れた。
「私、そんな不安な顔をしていますか?」
「勿論、姫君にそんな顔をさせる原因が結婚だけでないと承知ですから。どうかそんなに困らずに」
眉尻を下げて瞳を伏せるソニアに、クリスはそう付け足す。
(どこまでも優しいお方)
相手が不快な思いをしないように、それどころか楽しく盛り上げようとしてくれる。
余裕のある大人でないと『結婚式を延期しよう』なんて言ってこないだろう。
自分の対価は理解している。
土地と財力を持つ身寄りの無い娘が、周囲の男たちにとってどれだけ魅力なのか。
そんな娘と縁付けすると決まったら、気が変わらないうちに夫婦になろうとせっつくはずだろう。
だけどクリスは今、自分と城の中で起きていることに頭を悩ませて気持ちが沈んでいる相手を優先に考えてくれる。
彼の優しさに心が揺れるのに――
(どうしても、顔についている髭に悪寒が走るのよね……)
「クリス様、お心遣いありがとうございます。あの、私、クリス様のこと決して嫌いではありません。それだけは分かっていて下さい」
「姫君――」
「ク、クリス様!」
ソニアの告白が、余程想定外だったのだろうか。クリスが覆い被さるように抱き付いてきた。
そして、そのまま滑るように床に伏せる。
突然の行為にソニアの頭の中は混乱して
「いや! 離して!」
と、咄嗟に叫んだ。
その瞬間に耳をつんざくような硝子の割れる音が響き、ソニアはクリスの腕の中で身を縮めた。
その破壊音に、城の者がわらわらと駆け付けてくる。
「ソニア様! クリス様! お怪我はありませんか!」
クリスがソニアから離れて、視界が開けたソニアの目に映った光景は――天井を飾るシャンデリアが落ちて、硝子の燭台が粉々になって散らばっているものだった。
職人が作った、薄い硝子張りの燭台が何十個と円を描いて付けられたシャンデリアが、丁度自分とクリスが立ち話をしていた場所に落ちていた。
――クリス様がいなければ、あのシャンデリアの下敷きに。
ソニアは自分の身に降りかかっていたかも知れない惨事を目の前にして、身体を震わす。
「――クリス様」
彼と目を合わせたソニアは驚いて、目を見開く。
クリスの右の二の腕に幾つかの小さな硝子の破片が服を引き裂き、刺さっていたのだ。
「腕に破片が! 大変だわ、誰かすぐにお医者様を!」
集まってきた者達に慌てて命じるソニアに、クリスはにこりと微笑み、首を横に振る。
その余裕さはなんなのか? 痛くないのか?
答えはすぐに分かった。
「――ふん!」
クリスが、腕に力瘤が出るほど気合いを入れる。
すると、シャンパンの蓋が開いたかのように腕に刺さっていた硝子の破片が、四方に飛んでいってしまった。
クリスの腕は、刺さった跡など微塵も見られない。
「ハッハッハッ! 何のこれしき、日頃の鍛え方が違うのでね!」
「……凄いわ! 鍛えると、私も刺さった物を弾き飛ばせましょうか?」
驚きから感動に代わったソニアから真剣に問われ、クリスは
「鍛えればある程度は」
と答える。
周囲では
――ないない
と、手のひらをヒラヒラさせている、侍女や執事達がいた。
「まあ、私の場合は『加護魔法』が使えますので、それのお陰もあるでしょう」
クリスの付け足しに、ソニアは「なるほど」と頷き周囲も納得して、さっさとシャンデリアの片付けを始める。
「ソニア様、大丈夫ですか?」
侍女頭がクリスと共にソニアを立たせる。
「ええ、私は大丈夫。――でも、いきなりシャンデリアが落ちるなんて……」
「燭台が幾つか割れておりましたので、つい最近外して取り替えたのです。もしかしたら、天井の止め金が緩かったのかもしれません」
今度はきつく締めるよう注意しておきます。そう執事頭が告げた。
――しかし、これを皮切りにクリスに厄災が降りかかってくることになったのだった――