(4)
自分が修道院に行く前に使っていた部屋は、定期的に掃除がされていた。
二間続きの寝室に入り、靴を脱いで寝台に座り込む。
「……あっ」
恐る恐る声を出してみて、いつもの自分の声に戻っていることに心の底からホッとする。
胸を撫で下ろし、ふと胸元に違和感を感じた。そこにはロザリオが銀の鎖にぶら下がっているはず。
「……?」
服の上から触れているが、いつもと感触が違うのだ。
留め金を外し、服の外に出してみて全身が震えた。
「何……、これ! うそっ!」
繊細な飾りが入った銀細工のロザリオは、真っ黒に炭化していたのだ。
「何がどうなっているの? いや、怖い! 誰か!」
ソニアは叫ぶと泣きながら寝台に突っ伏した。
「お父様、お母様! アレクシお兄様! 助けて! もう嫌!」
両親や兄の名を呼んで泣くのは、幼い頃に家族を亡くした時以来だ。
急に一人になった孤独、不安、悲しみ――言い様のない消失感。
それでも立ち直って、何とかやってこれたのは自分がまだ幼かったのと、周囲が優しく手を差し伸べてくれたからだ。
――だが今は
自分はもう結婚相手がいて、もうすぐ結婚する。
要するに大人なのだ。
この莫大な遺産を受け継いで、主人として切り盛りしていかなくてはならない。
今度からは逆に自分が相談役になる立場なのだ。
「だからって、こんな事態、どうしていいか分からないわ!」
――コンコン、と扉を叩く音にソニアはようやく気付いた。
何十回も叩いていたようだ。時々「姫君?」とあの、いつもの呼び方で扉の向こうから話しかけている。
「……クリス様」
ソニアは素足のまま駆けて扉を開ける。
「お休みの挨拶に来たのですが、叫び声が聞こえたものですから。助けを呼びに行くところでしたよ。姫君、どうされたのです?」
「ク、クリスさまー!」
涙腺が決壊して、泣き付いてきたソニアに驚いてクリスは
「姫君、落ち着いて。何があったのか私に話していただけるかな?」
と優しく肩を撫でる。
「ロザリオが……!」
「ロザリオ?」
ソニアが両手で握り締めている炭化した物体が、そのロザリオだと分かるとクリスもサッと青ざめた。
だが、さすがと言うべきか、すぐに平静に戻り微笑みさえも浮かべる。
「これは、このロザリオが姫君をお守り下さった証でしょう」
「ロザリオが……」
「ええ、ソニア様の日頃の行いが良いからですよ」
ソニアは思わず微苦笑してしまう。信仰心と言わずに日頃の行いとは。
(まるで子供に言い聞かせているみたいね)
確かに二十一の年の差だ。クリスからしたら、まだまだ子供に見えるかも知れない。
証拠に『良い子良い子』と言わんばかりに、クリスに頭を撫でられているソニアだ。
大人に見られなくてちょっとムッとするが、どちらかと言えば、くすぐったいような嬉しいような気持ちが沸き上がっている。
「他にロザリオはお持ちですかな?」
「はい、シスターから頂いた物が……」
とソニアは手荷物を探り、ロザリオの入った小箱を出してクリスの前で恐々開ける。
――これも炭化していたら
そう思うと手が震えた。
「私が開けましょう」
ソニアの様子にクリスが察し、小箱を受けとると、そうっと、大事そうに開ける。
二人、小箱の中を覗いてホッとした。
白い絹に包まれた ロザリオは神々しい白金の光を放っていた。
「無事ですよ」
「はい」
今度は嬉しさに涙を浮かべるソニアに、クリスは箱からロザリオを取り出し、彼女の首にかけてやる。
「安心しましたか?」
頷くソニアの頭をまた撫でてやるクリスの顔は至極優しく、慈愛に溢れている。
守られている――そんな感覚が彼から伝わる。
それは、とても安心できてロザリオよりも頼りがいのあるものと思うのに何故、髭くらいで嫌悪の感情が湧くのだろう。
彼が近い将来自分の旦那様になるからなのか?
初恋の相手があまりにも理想通りだったからだろうか?
(それでも……)
自分自身、理想の王子様が迎えに来て修道院から連れて行ってくれて、一途に自分を愛してくれてどんな時でも頼りがいあって……なんてお伽噺を一から十まで揃ってる伴侶なんて、現れるはずがないと思っている。
そこは同年代の他の娘より現実を見ている。だからクリスが婚約者だと分ったときはすんなり受け入れた自分がいて、挙式までに何とかこの『髭』を好きになろうと努力はしていた。
割り切られるのは、過去に両親を亡くした経験から来ているのだろうと、自己解析までしているソニアだ。
目の前で自分に微笑みかける中年の騎士。
中年と言えども『ディヤマン』という騎士の最高の称号を持つだけあって、きっと腕もたつのだろう。 そして、その腕に負けずと劣らない、若者にも負けない体力と身体を持つのだろう。
国の守り神とまで謳われている彼。
だけど驕った所など全くなかった。話もとても面白くてまた即興の歌も聞かせてくれた――それのなんと上手いことか。
(王宮に仕える騎士は、武道だけではなく教養や礼儀作法も卓越しなくてはいけないと聞いていたから、クリス様も出来るのは当然だわ)
それに、自分をお姫様として大事に扱ってくれているのは、傍目からして充分分るものだ。
歳が離れているだけで旦那様としては充分過ぎる逸材ではないか。
――なのに
ソニアは彼の顔の輪郭にそってびっしり生えている髭を涙目で睨み付ける。
(どうして髭が、髭だけがこんなに拒絶反応を示すのー!!)
髭を意識しただけで、もうソニアの身体中が鳥肌と変わる。
「姫君?」
「ご、ごめんなさい! もう大丈夫です! お休みなさい!」
いきなり睨まれてクリスも不思議に思ったのか、顔を近付けてきて辛抱堪らず部屋に逃げ出したソニアだった。
それでもクリスは苦笑いをするだけで、全く怒りを表わすこともしない。
「ではお休みなさい、姫君」
と挨拶をすると、折角空いたままの扉を閉めた。
まったく、大した騎士精神です。
◇◇◇◇
次の日の朝、昨晩のうちに司祭に使いをやった者が一人で戻ってきた。
「そう……お忙しいの……」
使者の言葉にソニアは悲しげに瞳を伏せた。
『依頼が立て込んでいて、そちらに向かえる目処がたたない』
という返事をもらって返ってきたのだ。
「この周辺では、城で起きたような現象が多く起きているということかしら?」
「私どもの耳には入っておりませんが……。調べてみましょう」
ソニアの問いかけに、側に控えていたマチューが答えた。
そういえば、とソニアはこの二、三日存在感を出して側にいた、例の髭熊の騎士がいないことに首を傾げる。
「クリスフォード様は?」
「クリスフォード様でしたら、夜が明ける前に馬駆けにお出になられました。日が高くなる前にはお戻りになるそうです」
侍女頭の返事に、ソニアは飲んでいた紅茶のカップを慌てて戻す。
「――お戻りになるまで食事は待つべきだったわね。嫌だわ、一言いってくれれば良いのに」
侍女頭に拗ねた調子で言うソニアに執事頭は
「いえ、事前にクリスフォード様からソニア様が起きたら待たずに、先にお召し上がり下さいと言い付けがございましたので」
と微笑を浮かべて答えた。
「『久し振りの長旅で、心身共にお疲れのご様子――姫君の生まれ育ったこの地に、良い便りを探して元気を出していただきましょう』とお出になられたもので」
続いた言葉にソニアは「まあ」と声を漏らし、微かに白い頬を染めた。
「そんなに、お気をかけていただかなくても良いのに……」
そう呟いたソニアに
「きっと、それがいつもの彼のお姿なのですよ」
と侍女頭も、煎れなおした紅茶を出しながら話しかける。
「お優しいお方でようございましたね、ソニア様」
「本当に。お優しいだけでなくお強く、騎士として名高いお方――きっとソニア様を支えてくださいますよ」
侍女頭も執事頭も、そしてマチューまでも心の底から安心したような笑顔を見せて、ソニアを戸惑わせる。
――どうしよう
ソニア自身、この結婚に乗り気でない。
何故乗り気でないと思う理由が『髭面』なんて周囲は納得しないだろう。
髭を剃ってほしいと頼んでも、祖父の遺言なら剃らないだろうし。
自分でもどうして髭面が駄目なのか、理由が分からない。
(あの、こびりついているような感じが駄目なのかしら? 顎髭みたいにちょっと乗っている感じは……?)
想像するにも、やはりプルッと背筋が震えてる。
(それに――)
クリスの自分に対する態度が気になっていた。
慇懃な態度。相手に対して物腰柔らかく、低い。
女性には極めて優しく紳士な態度――王宮に勤める騎士として優秀な姿だ。
(だけど……婚約者を相手にした態度じゃない気がする)
国王が決めたことだから、向こうも恋愛感情が起きないのだろうか? あまりに慇懃過ぎる気がする。
(何て言うか……そう! 姫をお守りする騎士みたいな……!)
――あれ?
今までのクリスの自分に対する態度を思い出すと、まさしく『姫と騎士』ではないか。
自分を『姫君』と呼び、決して手を触れる以外の接触がない。
その事実に――どうしてか、胸がシクシクと疼くソニアだった。
◇◇◇◇
春の穏やかな日差しは、等しくクレアの土地にも到来している。
城から離れれば、葉は若々しく柔らかな緑の色を出して朝露を吸い込み、生き生きと光を浴びている。
早くも畑仕事を始めている民達は、訝しげることなく余所者のクリスにも帽子を取って頭を垂れる。
――馬の外被りにクレア家の紋章が縫われているから当たり前か。
クリスは馬上で一人笑う。
そんなクリスを見て、今度は民達は不思議そうに顔を見合わせた。
「――むっ」
日差しを作る太陽の方角に殺気を感じ、クリスは顔を上げる。
何か勢いよくこちらに向かってくる何かに、彼は目を眇めた。
「甘い!」
クリスは腰から剣を抜くと、墜落する勢いで飛んできた拳大の石を馬上から打ち返した。
それは、クリスの腕力が付加して物体が物体に力を及ぼす。
先程よりも、より加速度が上がって宙を飛んでいった。
「グエェェ!」
手で日差し避けをし飛んでいった方角を見据えていたら、飛んでいた鳥に当たり、人の叫びのような声を上げ下に落ちていった。
クリスは、鳥が落ちていった場所を把握して馬を走らせる。
茂みの中だと見当を付けて低木を掻き分けて行くと、見事鳩が落ちていた。
「これはこれは……。良い夕食の材料になりそうだ」
そう言いながら息絶えた鳩の両足を掴み、持ち上げて眉を潜めた。
「……随分と人相が、いや、鳥相が悪いな」
鳩にも鳩なりの苦労があるのかも知れん、と一人納得してから鳩が引っかかった低木を見る。
クリスは
「私は本当に強運な騎士なようだ。特にひもじい思いをしたことが無いことに関しては保証付きだな」
木イチゴの群生を見て楽しそうに笑った。