(3)
ギィ……と錆びた音がして黒の観音扉が開く。
白磁の城の作りに合わせて決めた黒い扉も、漆喰が禿げてしまった今、不気味さを助長させるものでしかない。
クレア城は由緒ある古い城だが、過去に何度もその時代に合わせて改修や改装を行っている。
玄関を開けて拓けた踊り場は改築の際に広げ、そこを進めば二階に昇る階段が広く中央を陣取り、両脇と真ん中に他の場所へ向かう扉が設置されている。
一階は舞踏会や会議に使われる大広間に、大食堂、中庭に出るサンルーム等があった。
そして今は長方形に続く深紅の絨毯の両脇に、この城の主人を迎え入れる使用人達や執事に侍女達が一列に並び、頭を垂らし迎え入れていた。
そして代表であるこの城の城代のマチューがソニアとクリスを迎える。
「お帰りなさいませ、ソニア様! そして、ようこそいらっしゃいました! ソニア様のご婚約者・クリスフォード・コルトー様!」
ソニアはマチューの今の姿に目を見張り、先程まで強い怒りにつり上がっていた目尻を下げた。
代わりヒヤシンス色の瞳が憐憫に揺れる。
老輩だが、重職に就く誇りが身体中に溢れて若々しかったマチューが、まるで一気に歳をとったように顔の皺が増えて髪の艶は無くなり、真白に変化をしていた。
そして歳ながらも真っ直ぐに伸びていた背筋は、身体の負担を隠せないように丸くなっていた。
それでも明朗に声を出し、嬉しさを隠せない様子で自分を迎え入れるマチューの姿に、ソニアは心を打たれたのだ。
一月前、彼がクレア家の運営の報告に修道院に出向いた時には若々しい、いつものマチューだった。恐らく彼をここまで変えた気苦労が、この一ヶ月の間にあったのだろう――それが恐らく、クレア城に関してのことだとソニアは直感した。
「マチュー! こんなことになって……! 大変だったのではなかったの? 何があったの?」
「ソニア様……」
近付いて自分を抱き締めるソニアにマチューは一瞬驚愕したが、たちまち目に涙を浮かべながら嬉しそうに首を横に振る。
そして、優しくソニアの身体を離すと、彼女の瞳から流れる涙を拭いながら言った。
「少々、一度に色々と面倒な事が起きましてね……。でも、もう大丈夫でしょう。――ソニア様がクリスフォード様をお連れして帰って来られたのですから」
そうマチューはクリスに視線を向けた。
二人は何かを語り合うかのように見つめ、頷きあった。
何が何だか分からないソニアだったが、気を取り直し背筋を伸ばす。
「話を聞きたいの。一体この城の惨状はなんなのか。そして何が起きたのか」
女主人としての初めての仕事だった。
◇◇◇◇
ソニアの前には城代のマチューと執事頭と侍女頭が揃っている。そしてクリスも。
「実はここ一ヶ月の間で怪奇現象が更に頻度が増して酷くなってきたのです」
とマチュー。話は続く。
「食器類や家具が宙に浮くならまだしも、私達や使用人を襲ってきます。それに庭の手入れをしても一晩経つと、何故かあのように草はぼうぼうと生え、植え替えした草木や花達も枯れてしまうのです。――城の壁の修復も怪我人が続出してしまい、何とか塗り直しても次の日には漆喰が朽ちて剥がれてしまい……気持ちが悪いと職人達は逃げていって、噂を聞いた他の職人達にも断られるばかりにございます」
「この城に勤めていた者達も、急激に増えた怪奇現象に恐れて次から次へと辞めていってしまい……通常の倍の給金で遠くから募集したり、王の命で派遣されてきた者達で、なんとかやり過ごしている状態でございます」
執事頭がやりきれない思いを吐露し、侍女頭が頷いた。
そこまで黙って話を聞いていたソニアが口を開いた。
「さっき、マチューが『更に』と言っていたけど……。今まで話してくれた現象は、以前からあったものなの?」
マチューは自分の失言に気付き、さっと顔を青くした。
「以前と言うのは何時くらいから?」
畳み掛けてくるソニアに、マチューは観念したように
「申し訳ありません。この事はソニア様の父君である亡きクレア公の厳命で、ソニア様には気付かれぬようにと、きつくお達しがあったのです……」
と、俯きながら白状した。
「これは公爵様が、小さかったソニア様が怖がることがないようにという親心でございます!」
侍女頭がマチューを庇うように告白した。
古くて歴史が長い城には、不思議な現象や霊現象なる物が発生する。
もう、これは生活の一部として受け入れるのがほとんどだか――それは『悪戯』と言える範囲内限定だ。
「こんなに酷くなったのはつい最近のことよね。何時くらいからか覚えている?」
「二週間ほど前だったかと……」
――私の結婚が決まった頃?
ソニアは思わずクリスを見上げる。
クリスは伸びてきた髭を擦りながら
「『悪戯』を超越しているようですな。悪魔払いを呼んだ方がよろしいのでは?」
と進言した。
城代や執事・侍女頭がソニアに視線を移す。
「……そうね、お呼びしてみましょう」
そうソニアは決意した。
すぐにこの地の司祭を呼ぶこととなり、城代は手配のために部屋から出ていこうと扉の取っ手を掴んだ。
「――わっ……!」
マチューが取っ手を掴んだ途端にスポッと抜けた。
ポカンと取れた金細工の取っ手を凝視していたマチューめがけて、今度は扉が勢いよく開き、ソニア達は驚いて尻餅をついたマチューに走り寄る。
思いっきり顔面を強打したマチューは、鼻血を出して悶えていた。
「大丈夫ですか? 城代」
クリスが扉から庇うように立ちはだかると、また扉が勝手に開閉を始めた。
「クリス様! 危ない!」
今度は更に弾みを付けた扉が、まるで意思ある武器のように素早くクリスの背に向かう。
――が
バキッ! と扉が破損した。
厚みのある立派な一枚板の扉は、クリスの頭突きで木っ端微塵となったのだ。
「戦の猛者の私が、板切れごときにやられるとでも思ったか!」
高らかな笑いとともに、クリスの自信溢れた台詞が部屋中に響く。
だが、それに答える声や人影は現れることはなかった。
「……とりあえず、この扉の代金は私宛に請求してください」
「いえ……それは」
クリスの謝罪に、ソニアが我に返り断ろうと途中まで言ってはた、と口に手を当てる。
――クリス様は私の結婚相手で、この城の城主になるのですから――
(そうだ、クリス様は私の旦那様になるお方だったわ)
迫る現実に、ソニアの不安は一気に増幅する。
(私、クリス様と結婚なんか出来るの? だって、髭とか無駄毛とか生理的に受け付けないのよ?)
――それに
(セヴラン様……)
淡い初恋だと言うものの、彼に長く恋煩いをしていたソニアの心は、切り替え良くいかない。
「姫君、どうされた?」
急に黙りこくり、しゃがんだままのソニアにクリスは、顔の高さを同じにして彼女の安否に杞憂する。
それがいやに癇に障る。
「その汚ねえ髭面を近付けるんじゃねえよ」
またもや自然に口から罵りの言葉が出てソニアは
「ヒュッ!」
と息を飲み込みながら、慌てて口を塞いだ。
驚いて自分を見るクリスやマチュー、そして二人の頭の視線が痛い、恥ずかしい。
「ご、ごめんなさい! 私疲れているみたいで……! 先に部屋に戻っています! 悪魔払いの手配をよろしく頼むわ!」
また勝手に口がモゴモゴ動く――怖い。
ソニアは、隠してある胸元のロザリオに触れながらその場を去った。
(怖い! これもこの城に居着いている者の悪戯?)
早く司祭に来ていただかないと!
ソニアは次から次へと起こるトラブルに、気が滅入り始めていた。
◇◇◇◇
クリスは一先ず、執事頭に部屋を案内されていた。
今はこのただ事ではない事態に、城全体が暗く澱んでいるように見受けられるが、歴史ある城で、そして王の住まう王宮と比べても大差ない大きさに敷地面積だ。
この城に相応しき荘園を数多く所有し、一時期は国家予算を越える資産を持ち、戦の出資金をも王に貸し付けていたほどだ。
この財は、ソニアの祖父の代で大きく膨らみを見せた。
――そこからだ、クレア家がおかしくなってきたのは。
クリスは、歴史的価値のありそうな調度品を物珍しそうに眺めながら、執事頭の後を付いていく。
「しかし怪奇現象で、素晴らしい家具や調度品が破損してしまうのは勿体ないことですな」
と言うが、間延びする言い方で残念そうには聞こえない。
鎧や剣に価値を見出だすが、芸術品の目利きは、さほどではないのだろう。
そこはさすがに兵役務めの者らしい。
執事頭はそんな王宮騎士の称号持ちの騎士に話かける。
「実は何度か司祭をお呼びして、悪魔払いの儀式はしているのですが……」
「効果はないのですね」
「……ソニア様のお祖父様の代からですから、そう一筋縄ではいかないと分かっておりましたが、このままではソニア様のお命まで危うく……」
「その為に私が来たのです。最善を尽くす気でいます」
「貴方様は恐ろしくはございませんか? 配偶者と言うことでお命が狙われるというのに」
「戦場ではいつでも高額賞金首です。狙われるのは日常的でしてね」
朗らかに笑うクリスを執事頭は驚きながらも、死を恐れないその様子に思わず口角を上げた。
「流石、王がお選びになられたお方だ」
「――いえ、それが私には不思議なのです」
「? それは?」
クリスは照れを隠すように、短く切った髪を掻き分けた。
「私は『結婚はしない』と宣言して、今までも結婚話を断っておりました。それは王もご存じです。なのに今回は強引に持ってこられましてね――相手がクレア家の姫君だと分かった時は『成る程』と思いましたが」
「クレア家の呪いのことはもう、皆様ご存じなのですね……」
「ソニア様が知らないでいられたのは、王立修道院の管理がしっかりとしているからでしょう。あそこのシスターは聡い方ですから」
「いずれにせよ、近いうちにソニア様のお耳に入るのでしょうね」
執事頭の声音には悲痛さが込められていた。
「なるべくなら衝撃は少なくしたいものです。――私が結婚相手だと顔合わせした途端に気を失われて、あまりこれ以上姫君に心痛を味あわせたくないものですから」
苦笑混じりに告げたクリスに執事頭はまた驚く。
「――そのようにはお見受けしませんでしたが……」
「いや、何……。私を嫌っているのは姫君ではないと考えておりますから」
「?」
訳が分からないと、言いたげな執事頭に構いなくクリスは言葉を重ねる。
「私にも解せない内容が多いのです。とにかく『教皇』の夢見で私が選ばれたとかで。まあ、騎士は姫を窮地からお救いするのが昔からの習わしと言うか、私の騎士精神に乗っとったと言うべきか」
ますます訳が分からないが、今現時点で詳しく話す気がないのは分かったので、執事頭は頷いてだけ見せて、階段を上がっていく。
「――? クリスフォード様?」
体格的にも存在感溢れた彼の気配が薄れて後ろを向く。
階段を上がる前、小さな踊り場の壁を一心に眺めているクリスがいた。
その壁には大きな宗教画が掛けられていた。
「それは先々代の公爵――ソニア様のお祖父様の時代に描かれた物でございます。何でも、夢の中で何度も現れた光景だそうで」
――そう言うことか
クリスが呟き、同時に肩が揺れる。
それは「クック」と含み笑いに変わり
「そう言うことか!」
と声をあげると、大きな笑い声を出した。
その声は城中に響いたのは言うまでもない。