(2)
次の朝も早く、侯爵家の別邸を出てクレア城に向かって出発をした。
ソニアは夫人から「馬車の中で食べてね」と直々に渡されたバスケットを膝の上に乗せて、上機嫌だった。
(昨夜は侯爵様の言っていた通り、調子が良くなかったのね)
ロザリオを首に掛けてから、自分の中の黒いモヤみたいなのがスッキリし、そのせいかクリスの髭面や濃い毛が見える手の甲を見ても何とも……少しはブルッとするくらいだ。
「バスケットの中には何が入っているのですか?」
クリスが興味津々で尋ねてきた。
と言うのも、まだ日が昇らないうちの薄暗い中での出発で、食事も取っていないのだ。
そしてバスケットの中から、えも言われぬ良い匂いがして、それが馬車内に充満している。
「開けてみますね」
ソニアも気になっていた。この焦げた砂糖の甘い匂いが堪らない。
開けてソニアはヒヤシンスブルーの瞳を目一杯に広げ輝かせる。そして「はい」と、バスケットごとクリスに中身を見せた。
ハムやチーズに野菜をたっぷりと詰め込んだバケットサンドに、揚げた鶏肉。それから干した果物をふんだんに入れたケーキ。新鮮な果物と所狭しと、たっぷり詰め込まれていた。
「これは凄いですな!」
クリスも瞳を輝かせる。もう食らい付かんばかりだ。
「お腹、お空きですか?」
涎が出そうな勢いのクリスに、ソニアは「食べます?」と首を傾げた。
「――あ、いや……! 失礼。いい歳して食い意地が張っていて、お恥ずかしい限りです」
照れを隠すかのように短い後ろ髪を撫でるクリスを見て、ソニアもついクスリと笑ってしまう。
「食べちゃいましょうか?」
と、ソニアは促すがクリスがいやと首を振った。
「……でも、大丈夫ですか?」
クリスはソニアの目から見ても武人らしい、逞しくてがっしりとした大きな身体付きをしている。
ソニアはそんなに動かないし、修道院の生活で質素な食事に慣れているから、それほど食べなくても平気だ。
だがクリスは、やはりその身体に見あった量を食べないと辛いだろう。
「私に合わせていただかなくても良いんですよ?――お召し上がりになって」
そう付け加えて、バスケットごとクリスに渡した。
クリスは受け取ったが、すぐに蓋を閉じ、横にしまう。
「クリス様?」
目を瞬かせるソニアにクリスは
「しばらく行った先に、とても良い休憩所を見付けてあります。そこには丁度、日が昇る頃に着くでしょうから、そこで食べましょう」
そう笑いかけた。
◇◇◇◇
朝日が地平線から顔を出し、穏やかに地上を照らし出してからしばらく――。
のんびりとした田舎道を進んでいた馬車が、クリスの命によって止まる。
「さあ、姫君。ここから少々歩きますが、気に入るかと思います」
そう言いながら再び手を差し出す。
ソニアは一瞬ためらったが、思い切ってクリスの手に振れた。
――何ともない
ソニアは心底ホッとし、彼の誘導で馬車から降りた。
クリスの手に引かれ、なだらかな丘を上がっていく。
ソニアはそれだけでもワクワクしていた。自分の知らない、未知の世界に踏み込んでいく感覚。
「姫君は、知らない土地を踏むのに怖くはありませんか?」
鼻唄まで口ずさみそうに弾んだ足取りでいるソニアを見て、クリスは尋ねた。
「ええ! ちっとも! この先に何が待ち受けているのかと想像すると、とても楽しいです」
そう答えたあと、ちょっと困ったように眉を寄せる。
「如何した?」
「私ったらもうお嫁に行く歳なのに……。全然淑女らしくないですよね……恥ずかしいです」
「良いんじゃないですか。人それぞれですよ。あまりに消極的で人見知りがあっても、主人がいない間の城の切り盛りで不都合が出ますし。恐れないで楽しいことや嬉しいことに変換して前へ進んでいけることは、きっとこれから先、姫君にとても大切なことになりましょう」
ふと、クリスの手がソニアの手から離れた。
「――ほら! あそこをご覧なさい」
指を指す方向を見て、ソニアは歓声を上げた。
なだらかな丘を上がった先に、白い花の群生が一面を覆っていたのだ。
「白爪草だと思いますが……。見事なので是非姫君にも見せたいと思いましてね」
「綺麗! とても素晴らしいわ! クリス様、ありがとうございます!」
クリスはピョンピョンと跳ねて行きそうな勢いのソニアに微笑み、白爪草の花畑に連れて行く。
その場に着くとクリスはマントを外し、下に敷いた。
「さあ、お座りください」
その淀みない様子に、ソニアは一瞬ポカンとしてすぐに頬を染めた。
「あ、ありがとうございます」
いえ、と微笑むクリスが今はやけに眩しく見える。
――これで髭さえなければ。ううん、髭があっても……。
とソニアは思う。
クリスもソニアから少し間を空けて座ると、バスケットを広げた。
「さあ! お待ちかねの食事の時間だ!! ワインもちゃんと持ってきておりますよ」
と、いつの間にかバスケットの中に入れておいたのか、ワインとカップを取り出してソニアを驚かせた。
◇◇◇◇
それからは、クレア城までの道のりはとても楽しいものとなった。
クリスはソニアより長く生きているだけあってか、経験談が豊富だ。
それに詩や歌にも精通していて、楽しい歌や悲しい歌、恋の詩。様々な物語に王宮での話や騎士の話。
とにかく幅広く多彩な方面で精通していて、しかも惹き付ける話し方をする。
ソニアは、次から次へとおねだりをしては自分からもどんどん質問をしたり、話題を返したり、たまには討論したりと尽きることなく会話をして――気が付いたら実家のクレア城に到着していた。
カクン、と馬車が弾みをつけて止まり、何事かと窓から外を眺めたら懐かしい我が家だったのだ。
「――これは……?」
馬車から降りた早々、ソニアは愕然と城を見上げた。
「本当にクレア城なの……?」
そこにそびえ立つ大きな城を見上げる。
漆喰で塗られていた白磁の城は、その姿を失っていたのだ。
白い漆喰はこそげおち、積み上げられた石材が醜く見えている。
敵襲に備えるための、囲む城壁も平和で必要がないと言わんばかりに崩れて、手入れがされていない。
それに城門から玄関まで続く道も、道を彩る並木も枯れて荒れ放題だ。
「姫」
呆然と周囲を見渡したままのソニアはクリスに声をかけられて、彼の顔を見上げた。
ふと、彼の後ろにそびえるクレア城が視界に入り、その異様な雰囲気に硬直した。
暗い――こんな爽やかで快晴な天気を隠すように、何か黒い渦みたいな物が城を包んでいるように見える。
「何があったの……?」
ソニアは、それだけ口にすると息を飲み込んだ。口を真っ直ぐに紡ぐと強い眼差しを城に向ける。
「行きましょう、クリス様」
そう言うと誘導を、と促すように右手を差し出す。
その主人たる様子にクリスは口角を僅かに上げ
「仰せのままに」
と彼女の手をとった。