(1)
その日は、事前に宿泊を頼んでいたデュマ侯爵の別邸を借りた。
デュマ侯爵は昔クレア家と交流があった家だ。ソニアも勿論知っていた。
馬車の屋根よりもずっと高い鉄柵の門をくぐると、短く刈られた芝の庭が見渡せる煉瓦の道を通る。
しばらく走ると屋根付きの白い玄関が見えた。夕方で辺りは薄暗くなっていたが、春の装いを見せる庭園に咲く花は花弁を懸命に広げ、ソニアを歓迎しているように見えた。
先にクリスが降りてソニアに手を差しのべる。ソニアは勇気を振り絞り、彼に手を預けた。
――指が触れた瞬間に「それ」は起きた。
ビリッ! と爪先に衝撃が走る。
「キャッ!」
小さな雷が落ちたような感覚に、ソニアは悲鳴をあげて手を引っ込めた。
クリスもピリッとした衝撃に驚いて、自分の手とソニアを交互に見比べる。
拳を作り、不安げに自分を見るソニアに気付き、クリスは安心させるように微笑む。
「どうやら季節外れの静電気が起きたようですな。これは失礼なことを。手を洗ってきます、アヴァン!」
クリスは馬車の後ろに控えていた従者を呼ぶ。はい、と歯切れよい返事が聞こえ、小綺麗な格好をした少年が姿を現した。
「姫君を頼む。私の手は今、静電気を起こすようだ」
分かりましたと素直な返事をし、ソニアより幼いながらも丁寧な引導をして、馬車から彼女を下ろした。
「ソニア!」
屋敷から懐かしい声が聞こえ、ソニアはそちらに顔を向ける。
灰褐色の髪をピッチリと整髪剤で後ろへ流し、一つに結わいた初老の男性――
皺が深く刻まれているが人当たりの良い顔は変わらず、彼の優しさが更に滲み出ているようだ。
「デュマ侯爵様! お久し振りです!」
両手を広げ、ソニアを迎え入れるデュマの胸に飛び込んでいく。
またやってしまった――と、ソニアは顔を真っ赤にして彼から離れた。
「失礼しました。懐かしくてつい、はしたない真似を」
ソニアはそう言うと、ドレスの裾を指でつかみ膝を曲げて優雅に挨拶をする。
「良いんだよ、しばらく見ないうちに本当に美しくなって! もう立派な淑女だね」
「ありがとうございます」
礼を言うソニアの後ろを守るように控えているクリスに気付き、デュマは彼にも握手を求める。
「よく来てくださった。『ディヤマン』の騎士・クリスフォード・コルトー様」
「王宮の舞踏会や夜会でお会いしますが、こうして個人的にお会いするのは初めてですね」
二人、固く握手を交わすのを見てソニアは目を丸くした。
黄色く光る火花が見えた先程の静電気など、嘘だったように何事も起きない。
「貴方がソニアの結婚相手だとは……! いやあ! 陛下もなかなか憎い選択をなさった! 彼ならソニアを預けることができると言うものだ!」
なあ、とソニア自身に同意を求めてきたデュマに彼女は「ほほ」と笑って誤魔化した。
――何せ、ソニアは彼の事が好きとか嫌いとか、まだよく分からない。
(髭は嫌なのだけど……)
ぽそりと聞こえないように呟いた。
◇◇◇◇
夕餉の席にはブリジット侯爵夫人も一緒だった。
変わらず、華美にならないが気品のある装いに身を包み、穏やかな笑みを浮かべソニアやクリスを迎え入れる。
――だが、どこか彼女が緊張しているように見えるのは気のせいか。
慈愛に溢れた静かな微笑みが、強張っているように自分を見るのを気になったが、もう十年ぶりだ。
(夫人はあまり積極的な方ではなかったはずだから、久し振りに私と会って緊張しているのかも)
元々根が明るい、プラス思考のソニアは一人合点していた。
「ところで、カトリーヌ様はお元気でいらっしゃいますか?」
早く打ち解けてほしくてソニアは夫人に、仲良くしていた侯爵の娘・カトリーヌのことを尋ねた。
カトリーヌは自分より二つ歳上だ。もう他家に嫁いでいるかもしれない。
夫人はビクッと一瞬肩を揺らすとソニアに
「え、ええ。カトリーヌは昨年、ブルジエ伯爵のご長男の元に嫁ぎましたの」
と、笑みを浮かべながら答えた。
だがその笑みも、夫人が無理して作っているのではないかと思わせるようなものだ。
何せ片側だけ口端が持ち上がり、不自然な皺が出来ている。
「そうでしたの? すみません、知らなくて……。お祝いの手紙も品物も何もお送りしていなくて」
ソニアの実家にも城の管理を頼んでいる城代がいる。その者が月に一度、修道院に必ず出向いて手紙や管理の報告をしてくれている。
父の代から仕えている信頼ある男だ。なのに昔から交流があった侯爵の娘の、結婚の報告や祝いの品物を送ったという話しは一切聞いていない。
「き、気にしないで。あの、ほらあの娘、内気だから、派手に公表しなかったのよ、ね? 貴方」
「あ、ああ。そうなんだ。こちらの事情だから気にしなくて良い」
夫人の同意を求める声に、侯爵も慌てて頷いた。
「そうでしたの……。では、後ほど改めて祝いの品を送らせていただきますわ」
二人の態度に釈然としないものの、ソニアはそう締め括ろうとしたが――
「い、良いの! いらないのよ! 呪いのとばっちり―― !」
いきなり夫人がそう叫び、慌ててふためいて立ち上がった。
「止めなさい!」
それを侯爵が厳しい口調で諫めた。
夫人はフラフラと力なく座ると「ごめんなさい」と呟く。
「夫人、もしやご気分が優れませんか? 早くお休みになった方が……」
驚いて微動だにしなくなってしまったソニアに代わって、クリスが真っ青になってうつ向く夫人に優しく促した。
「……申し訳ありません。そのようなので……貴方、すいませんが部屋に戻ります」
夫人は泣きそうな表情をしながら夫とソニアに一礼をし、食堂から引き上げていった。
侯爵は不機嫌な様子で妻を見送ると、ソニアに頭を下げた。
「すまないね……ソニア。妻はここのところ情緒不安定で時々、あんな風に訳の分からないことで声を荒げるのだよ」
「……いえ、夫人の体調が優れない時に一晩お宿をお借りしてしまって、こちらこそ申し訳ありません……」
ソニアは夫人が口に出した「呪い」のことが気になりつつ、侯爵がさりげなく話題を逸らそうとしている様子をみて、尋ねることが出来なかった。
侯爵の漫談も頷いて聞くも、ちっとも頭に入ってこないでいた。
◇◇◇◇
ソニアは、自分にあてがわれた二階の個室のベランダに出て、一人夜空を眺めていた。
はっきりと夜空を写す月は、欠けることなく金の光で柔らかくソニアを包んでくれている。
そんな優しく感じる月の風情にも、ソニアの胸のうちを晴らすことはできずにいた。
――気付くべきだった。
この屋敷に入ってからの使用人達の様子に。
修道院から外へ出るのがあまりに久し振りで、父と親しかった侯爵と会ったのが懐かしくて、人の顔色まで見ている余裕がなかった。
おかしいと気付かなかった。
最低限しか揃えていない人員。そして部屋付きの侍女は自分を見てオドオドとし、必要以上に顔色を伺っていること。
用がなければ、さっさと引き上げたさそうにしていること。
畏怖たる存在に恐れながら、嫌々仕えているような――
夫人の様子を見て、ソニアの外界を見る目が段々と現実を見定めてきている――自分自身、そう感じていた。
(でも、何故……?)
侯爵は飛び込んできた自分を、怖がらずに抱き締めてくれた。
(もしかしたら、私が怖いのに無理をなさって?)
そう思うとソニアの瞳から涙が溢れてくる。
――どうして?
昨日から、少しずつ蝕んでいくような変化が怖い。
(私は他の人から見たら、どこかおかしいの?)
自答自問する。
答えの出ない問いに頭をもたげていると、扉を叩く音にソニアは身体を向けた。
そう言えば、しきりに退出したがっていた侍女は下げたことを思いだし、ソニアは自分で応対することにした。
「どなた?」
「私です、姫君。クリスフォードです。お休みのご挨拶をと、参上しました」
途端に、黒く渦巻くように胸がざわつく。
この、気分が悪くなるような胸騒ぎはなんなのか?
クリスの声を聞くだけで、気分が悪くなるのはおかしい。
(頭の中では、こうして折り目正しく挨拶に来てくださることが、とても嬉しいと言っているのに)
「……如何しましたか? もうお休みになるところでしたでしょうか?」
再度、扉の向こうで尋ねてくるクリスにソニアは申し訳なく、気分の悪さを無理矢理はねのけ
「今、開けます」
と扉を開けた。
小麦色の髭で覆われた顔と視線を合わせれば、くらりと目眩を感じるソニアだった。
だが、ドレスに隠された足を踏ん張り、どうにか回避して笑顔を作る。
「クリス様、わざわざご挨拶に来ていただいて、ありがとうございます」
「いえ、明日の出立は早うございます。今日は久し振りに外に出て馬車に揺られ続けたから、お疲れでしょう? ごゆっくりお休みにな――」
「――うるせえよ、だったらノコノコやってこねーでさっさと寝かせろよ、幼女好きが」
二人、唖然とした。
男の低いダミ声――それがソニアの口から発せられたものだと、一瞬止まった思考が猛烈に動き確信される。ソニアは慌てて口に手を当てた。
「え? えっ? 何? 今の? 私? 私が言ったの?」
急速に真っ赤に染まるソニアを見てクリスは
「ハッハッハ! 確かに就寝前のご令嬢に失礼でしたな。いや、申し訳ない」
と豪快に笑い飛ばした。
「いえ! そんなことは決して! う、嬉しかったです! 私、少々落ち込んでいたものでしたから!」
「どうしたのです? 私でよければ相談してください。婚約者なのですから」
――婚約者
そこを強調して話すクリスに、ソニアは何故か苛立った。
(何を苛立っているの? ソニア。婚約者が心配するのは当たり前でしょう?)
「どうせ、土地と金目当てなくせに。次男以下は土地金無しだから、良いところの娘を取っ捕まえるのに必死だよなあ――ヒィ!」
また!
ソニアは今度は、真っ青になって口を塞いだ。
「わた、私……! そんなこと思っておりません! な、……! 何で!」
自分で自分が分からなくなって、ソニアは口を手で押さえながら首を振る。
瞳一杯に涙を溜め込んで違うと拒絶を繰り返すソニアに、クリスはガシッと細い両肩を掴む。
そして、ニコリと彼女に満面の笑顔を見せた。
「姫君はお疲れなのですよ。一晩ゆっくりとお休みなさい。そうだ、ロザリオはお持ちですか?」
「あ……はい。私が修道院でいつも使っていた物が……」
「急に結婚が決まって、急いで修道院を出たせいで恐らく気が高ぶっているのですよ。修道院にいた時と同じように、ロザリオを手にしていれば落ち着いてきましょう」
「そ、そうですね! きっとそうだわ!」
ソニアは、急いで手荷物の小さな鞄からロザリオを出すと、首に掛ける。
すると、確かに気分が落ち着いてくる。
清涼な風が身体を取り込んでいるように感じられ、ソニアはホッと安堵の息をついた。
それを見たクリスもホッとした様子だ。
「姫君、ではお休みなさい。良い夢を」
そう挨拶をして出ていこうとするクリスに、ソニアは走りよった。
「クリス様!」
手に触れようとしたが、毛深い甲が目について思わず躊躇する。それに夕方の時のような激しい静電気が起きるのも怖い。
躊躇っているソニアにクリスは笑いながら首を横に振った。
「気にしておりませんよ」
と彼女の気持ちに気付いて、慰めるように言う。
そんな包むような彼の優しい態度は決して嫌いではない。そう感じるのに何故、怖いのだろう?
「ありがとうございます。お休みなさい」
ソニアはそんな自分の罪悪感を隠しながら、感謝を込めてクリスに微笑んだ。
「ご夫人、動揺しすぎです。もっと落ち着いて接していただかないと、彼女の中に縮小された呪いが刺激を受けましょう」
「ごめんなさい……」
クリスの厳しい眼差しにブリジット夫人は、血の気のない顔をハンカチで覆いうつ向いた。
「姫君は真実を知りません。そんな状態で周囲が騒ぎ立て異端扱いしては、『奴』の思う壺です。『奴』は人の動揺や恐れ等が何よりの好物なのですから」
「ええ……。明日は、普通にソニアを見送るわ」
「お願いしますよ」
自分の妻とクリスとのやり取りを横で聞いていたデュマ侯爵が、ふと溜め息を吐いた。
やりきれない――と言うように。
「本当に、ソニアに呪いがかけられているのだろうか? 嘘だと思いたいものだ」
「でも、その話はずいぶん前から噂として有名でしたわ。……流石に本人達の前では話しませんでしたけど」
と夫人は重ねて口を開く。
「でも……クレア公爵家のご嫡男が落馬で亡くなったのを皮切りに、数年で跡目を継ぐ順位順に病気や事故、戦で亡くなって……遂にはクレア公爵夫妻まで痛ましい事故でお亡くなりになって……これはもう噂では済まなくなってしまって……」
「夫人」
クリスは再び血の気が引いていく夫人に話しかける。
「くれぐれもソニア様に悟られないように。姫君から呪いを解く方法が見つかるまで――頼みますよ。これは勅命、陛下の命令です」
パトリス陛下の――はい、と夫人はハンカチを握りしめ頷いた。
王の命令は絶対だ。
直々に王直属の騎士であり、国の最高軍事司令官であるクリスフォード・コルトーが出てきている機密。
それは、国の重大な問題に発展するかもしれないということを示したものであり
また「クレア家」という家門の重大さを示すものでもあった。
「クレア家の呪いも信じられないが、貴方も信じられない」
「何が、ですかな?」
「怖くないのかね? あの娘の身にかかっている呪いが?」
侯爵の疑問はもっともだ。
「騎士は姫をお守りし、あらゆる困難からお救いするのが昔からの常識ですから」
クリスはそう言うと、片目を瞑って余裕の笑顔を見せた。