(3)
結局――卒倒したソニアはそのまま一晩修道院に泊まることになり、正式に出立したのは次の日となった。
(気まずい……気まずいわ)
馬車内で婚約者と名乗ったおっさん――もとい、中年のおじ様と二人。
彼の名はクリスフォード・コルトー。
王の元、殿下であるアンリとセヴラン王子の剣と武術、そして戦術指南をしている騎士で現在三十八――ここまで、意識を取り戻したソニアが周囲から聞いた話だ。
(騎士としての最高位「ディヤマン」の位を与えられているお方よね)
一二の月に象徴される宝石になぞらえて位を与えられるのだ。
全部で一二人いる位付きの騎士は全員『加護魔法』を修得している。
神の加護の元、王に仕え、国を守り民を救う――英雄の中の英雄で名高い一二の騎士の中の最高位・クリスフォード・コルトー。
ソニアは恥ずかしいなんて、可愛らしいことなんか言っていられない。
自分がパトリス陛下の話をきちんと聞かないで勘違いした挙げ句、彼の顔を見て悲鳴をあげて気を失う。
最高位の騎士、しかも国の守り神と敬やまれている彼に、何て言う失礼なことを仕出かしたんだろう。 ソニアは気色を失いすぎて、白を通り過ぎて青くなっていた。
顔色が回復しないままに朝が来てしまい
「体調が良くなったら連絡を。出直してきます」
気を悪くすることなくそう言ってくれたクリスフォードに、ソニアは心の底から悪かったと思った。
だからこそ
「いいえ、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
と、支度をしなおして馬車に乗り込んだのだ。
――だけど対角線上に座ってしまい、更に気まずい。
どういう訳か身体が拒絶しているのだ。
分かっている。彼の顔のラインをびっしりと埋めている髭だ。
この髭が生理的に受け付けないのだ。
しかし、髭だけじゃない。目を盗んで服から覗く手の甲や指にもびっしり毛が「これでもか」と言わんばかり生えている。
(この人、毛深いんだわ)
でも、とソニアは考える。いくら男子禁制の修道院に居たからと、気を失うほど髭や毛深い男性を嫌悪する理由にはならない。
七つまで自分は普通に接していたではないか、このおじ様とも。
「あの……コルトー様」
ソニアは思い切って、自分から彼に声をかける。
「姫君、クリスで結構ですよ。昔は私のことをクリス、と呼んでいたでしょう?」
覚えておいでですか? と尋ねられて、ソニアは小さな頃の思い出に頭を巡らす。
王宮にある王妃が住まう後宮にある中庭。四季折々の花々に果実がいつもソニアを迎えてくれた。
覚えているのはいつも芝の上にドレスの裾を広げ、小さな花々を摘み花飾りを作る自分。
近くには大理石でこしらえた円形の東屋があり、そこで茶を嗜む自分の母とセヴランの母である王妃。
そして、何歩か下がった場所にはいつも彼がいた。
「……」
思い出してソニアは思わずジッと彼を見つめた。
「どうしました? 姫君」
目を逸らされるほど嫌悪されていたのに、忘れたかのように急に自分をしげしげと見つめだしたソニアに、クリスは瞳を瞬かせる。
「髭」
「髭?」
ああ、とクリスは自分の髭をなぞる。
もみ上げから顔の輪郭に沿って、生やしてある髭に口髭は、短く綺麗に整えてあるとはいえ、どんなに着飾ってもクリスの体格から言って「森の熊さん状態」だ。
短く揃えた髭に合わせて、麦色の髪まで短髪に揃えている。
クリスのこの姿は、ソニアの国ではかなり珍しい。
ソニアがいる国・レオンスは、男子は肩まで伸ばしているのが常識だ。
短くても、襟足を見せることはそうない。
「私が小さい頃は、お髭を生やしていませんでしたよね……? 確か髪も肩まであって一つに結わいておりませんでしたか?」
「ええ、そうです。よく覚えておいでで」
クリスは、ソニアの記憶の確かさに驚きながらも誉める。
「……あの、どうしてお髭を? それに髪も……まるで収穫後の麦畑みたいに短くなって……」
「収穫後の麦畑か! 面白い表現だ!」
クリスがソニアの言葉がつぼをついたのか、大笑いをする。
その豪胆な笑いに、馬車内が反響するというあり得ないことが起きるほどだ。
目を白黒させるソニアを見てクリスはコホン、と一つ咳払いをした。
「この姿には理由がありましてな」
「理由、とは?」
「実は私の祖父の遺言なのです」
「……遺言?」
「はい。祖父も短髪で髭という姿を生涯通して過ごされました。祖父も騎士でありましたが、騎士でありながら首を敵に見せることを恐れてはおりませんでした」
ソニアは首を傾げた。
「首を敵に見せてはいけないのですか?」
「髪は、自分の首を守る意味でも伸ばすのが騎士の常識と言われております。勿論、騎士だけでなく戦いに出向く者は皆そうです」
「まあ! そうだったんですか」
知らなかった、そんな大事な意味があったとは。
「なのに、クリス様のお祖父様は髪の毛を?」
「ええ、自分を奮い立たせる意味もあったのでそうしたと。それが功を奏したのか「ディヤマン」を頂ける騎士となりましたね」
「クリス様の家系は、騎士なのでしたね」
レオンス国は騎士も世襲制だ。
だが、王家と同じように長子が継ぐことになっている。
「クリス様はご長男でしたか……? 確か三番目か四番目だった記憶が……」
ほお、とクリスが感心したように声を上げた。
「三番目です、よく覚えていらっしゃる」
「その……セヴラン様がクリス様とお話ししていらっしゃっている所を、横で聞いていただけで……」
さすがに言いづらい。
その時もセヴランが興味深々で、矢次場に質問していたのを自分は聞いていただけなのだから。
ただ、当時好きな人が興味を持つ人の話を聞いて、その場を共有したかっただけ。
しかも、今回だってセヴランと結婚できるんだと思い込んで、彼に恥をかかせてしまった。
「そうですか。それでも大した記憶力ですよ、とうのセヴラン様は、私がコルトー家の何番めだったかなど忘れておいででしたから」
「まあ……!」
困ったように笑うクリスが、段々気の良いおじ様に見えてきて、ソニアは少しだけ胸のつかえがとれた気がした。
少し、くだけてきた身体が証明してくれる。
それでもまだ疑問はあるし、まだ髭面は怖い。
「お祖父様の後遺言だと聞きましたけど、家を継ぐご長男様が受け継げば良いのではなかったでしょうか?」
「我が家は代々武人を選出している家系です。それでも時代でしょうか、武人の道を選ばないで他の職につく兄弟も出てきました。今武人をしているのは長子と私だけでしてね、祖父はこの現状に不満があって、どちらかが万が一大事になってもコルトー家の家訓を絶やさぬようにと、亡くなる前に私にも命じたわけです」
「……はあ……」
そう切々に語られ、ソニアはガックリと肩を落とす。
家訓はその家独特のもので、たまに意味の分からない変わったものを家訓にする家もあると聞いていた。ソニアにとって、コルトー家の家訓は奇妙なものと断言しても良かった。
(それでも……!)
彼が結婚相手というなら、これからも一緒に生活をしていかなくてはならない。
どうしてもどうしても、髭だけは剃ってほしい!
ソニアは勇気を振り絞る。
「あの……では髭は剃っていただくわけにはいかないのでしょうか?」
「家訓ですから」
きっぱり速攻で断られた。
「……どうしても?」
「はい」
更にどきっぱりと断られる。
真っ直ぐに真剣な面持ちで拒絶され、ソニアは
「そうですか……」
と小さく呟くと、うつ向いた。
馬の闊歩する音を聞きながら、揺れる馬車内でソニアは泣きたくなるのを必死に堪えていた。
――どうして?
(私は泣きたくなるほど、こんなにも髭を嫌悪するのかしら?)と。
クリスフォードは小さく肩を窄めてしまった少女に、どうしたら良いか手をこまねいているばかりだった。
(これもお役目だ。申し訳ありません、姫君)
心の中で謝っていた。