(5)
パトリスの深い溜息が続く。ワインを口にする時くらいだ、溜息が止まるのは。
そして、右隣に設置された一人掛け用のゆったりとした椅子には、背中を丸めて落ち込んでいるセヴランが座っている。
クリスは扉の横に控えて、二人の様子を眺めていた。
といっても、クリスも落ち着いて眺めているわけじゃない。
(ソニア姫は、お一人で平気だろうか?)
頭の中では彼女のことで一杯だった。
普通の子女であったら、ここまでで既に気が滅入っているか、精神的におかしくなっても不思議じゃない。
時々、現象を目の辺りにして落ち込んでいたが、それでも健気に笑顔でいた。
そんな彼女を騎士として守るだけでなく、一人の男性として守りたいと思うようになったのは、ごく自然の感情の流れだった。
最初は、この呪われた家系を救って、自分は結婚を辞退するつもりでいた。
呪いを打破する――ディヤマンとしての血が疼いたので、お受けしたまでのこと。
それに呪いが解消されたら、数ある名家の子息がこぞって求婚しにやって来るだろう。
自分も貴族の家系だが、身分としては低いし地位も財も貰えない三男だ。
しかも三十後半のおっさん。
若い娘が相手にするとは考えづらい。
だから、受けたのだ。
(なのに……)
こんな感情を持つなんて予想外だ。
クリスは、持て余すように指を弄り出すセヴランを遠目で睨み付ける。
カチャリ――と扉が開き、金の髪を靡かせて王妃が急ぎ足で入ってきた。続いてお付きの侍女も。
そして真っ直ぐにセヴランに近付くと、立ち上がる彼を待たずに
「こぉおおおおおおんの、愚か者ぉおおおおおお!」
王妃の、腹に力を入れた声と拳がセヴランの頬に入った。
豪快な音をたてて椅子ごと倒れるセヴランに、王妃は引きずり起こしてもう一発――というところで
「お止めください! 王妃様! クリスフォード様もお止め下さい!」
そのまま放っておきたかったが、侍女があまりに悲痛な声で助けを求めるのでは仕方ない。
やれやれ、と、クリスは後ろから王妃を羽交い締めをし、押さえ込む。
「ええい! 離しなさい! もう我慢なりません! 己の欲のために不幸な幼馴染みまで手を出そうとする卑しさを、根本から叩き出してやらなければ!」
「出来ればお離しして放っておきたいですが、今夜は王の生誕祭最終日! 親子の争いはよくありません!」
そう説得するクリスの傍らで、侍女がパトリス王に
「どうか、この場をお静めください!」
と懇願する。
「顔が腫れるまでにと止めておきなさい、妃よ――いや、いっそうのこと変形した方が、変な女に引っかかることがなくなるやも知れんな」
焦燥感溢れるパトリスの言葉は、心中を察するものだ。
「――と王も言っていますから! お離しクリス!」
「離して良いですか?」
パトリスに尋ねるクリスに
「は、離すな! 頼むから離さないでくれ!」
と、セヴランが殴られた頬を庇いながら懇願する。
王妃は口より先に手が出るタイプだ。しかも喧嘩っ早い。
その嫋やかな身体付きに似合う、細いヒールを履いた足からくり出される蹴りと、己の痛みを顧みないパンチ。
親子共々恐れている威力だ。だが、セヴランは昔から妃の一番のお気に入りで、蝶よ花よと可愛がられていた。
当然、母から制裁を食らったことはなかった。
例のカトリーヌとの不倫も。賭け事で作った借金が露見した時も。
――それが今回、扉が開いたと同時、制裁パンチだ。
「酷いよ! 母上! 今まで何があっても、僕には殴ったこと無かったのに!」
セヴランは、自分の唯一の味方であると認識していた母妃に殴られ叱られたことに、かなりの衝撃を受けたようだ。じわりと瞳から涙が出ている。
そんな息子を見て妃は
「こんな愚息に育ててしまったわたくしに責任があるから、お前を庇いたてすることをしなかっただけです! 王の采配にお任せをしてただけですよ……!」
と、ヒステリックに言い返す。
「だけど、今回はもう我慢できません! 王の従姉妹であり、わたくしの大切な友人の忘れ形見を弄ぼうと計画するとは……! そりゃあ、お前たちが小さい頃はいずれは想いあってくれれば、とは思いましたよ。だけど自分可愛さに嘘の愛を告げて、結婚を申し込んだなんて……!」
ヒスは通常の何倍の力を出すのか――屈強の騎士のクリスも、王妃の暴れっぷりに辟易気味に押さえつけていた。
「……お前の顔よりソニアが心配だ……。どれだけショックだったか……」
パトリスが背を丸めて項垂れるのを見て、妃はようやく拳を下ろした。
「内容が内容だけに、どうソニアに落ち込まないで話せるか考えているうちに、教皇から『クレア家の呪いについて夢で神の啓示』あったと連絡が来て……。内容を聞いてもしかしたら、今度はソニアを救えるのでは? と希望が生まれた。ソニアに全てを教える前に事が解決出来るのでは……と思ったのだ。解決後の方が、ソニアが生きることに失望しないで済むだろうと……」
「ソニアは? 今一人なのですか? 早くあの子の側についてやらなければ……!」
落ち着きを取り戻した妃が、この部屋に彼女がいない事に気付き、王に尋ねた。
「彼女も酷く動揺して、一人にして欲しいと泣かれてな……」
「わたくしが行ってお慰めしましょう。――クリス、案内しておくれ」
貴方はもう会場にお戻りになって、と、妃らしい態度でパトリスの肩を擦り慰める。
共に付いてきた侍女に、目配せで後の事を頼んだ。
「……僕だって」
ボツりと――セヴランが呟いた。
床に尻を付いて殴られた頬を擦る姿は、叱られて拗ねているように見える。
「僕だって、被害者だ……酷い目にあったのに……僕のせいじゃないのに……」
ぶち――とクリスは、自分の血管の切れた音を聞いた気がした。
「王、王妃! お叱り覚悟!」
「――ああ、構わん」
「やっちゃって」
二人の承諾の刹那、クリスの足が豪音をあげてセヴランの背中に当たった。
ふごっ! と言う奇妙な声を出しセヴランの身体が一メートル程、先に飛ぶ。
うつ伏せで呻いている彼にクリスは
「ソニア様の件が片付いたら鍛え直し致します。逃げても、どこまでも追いかけていきますぞ! 地下牢に閉じ込めても鍛え直しますからな! 絶対鍛え直ししますぞ!」
大事なことだから三回も言いましたから、と一言付け加え王妃を連れて部屋を出ていった。
◇◇◇◇
「クリス、貴方にはいつも大変な役割を押し付けてしまって、悪いわね……」
クリスの誘導に付いていきながら、王妃がしんみりと言ってきた。
「何をおっしゃいますか。私は大変だと一度も思ったことはありません。今だって、ソニア様のお力になれることがとても嬉しく感じておりますから」
そう微かに笑うクリスの後ろ姿を、王妃はじっと見つめる。
いつもと違いを感じながら。
「だけど、婚約のことだって本当は――」
「王妃」
シッ、とクリスは人差し指を立てる。口外はいけない、と言いたげに。
王妃もいけない、と慌てて口に手を当てた。
「どこに聞き耳をたてているか分かりませんからね、奴は。まあ、私を相当嫌っているようで、恋い焦がれるように引っ付いてはいないようです。髭が怖いのでしょうかね。今後は、このまま生やしても良いかと思っていましてね……」
「教皇は『髭を生やすように』と仰ったけど……なんの意味があったのかしら? 神のお告げとはいえ、こちらとしては見当も付かないわ」
「それは、クレア城に行って分かりました。意味の無いことではありませんよ」
そう、と王妃は頷き、懸命にクリスの後ろをついていく。
彼とのコンパスの違いもあるが、クリスの足並みはヒールを履いた女性には、ほとんど駆け足だ。
「ちょっと……クリス! 少しは後ろから付いていく、わたくしのことも気を遣って!」
堪らずに言い付けた王妃に、クリスはようやく気が付き「申し訳ない」と歩みを遅くする。
「――いつもは気を付けてくれると言うのに……今夜はどうしたと言うのです? クレア城に行っている間にマナーを忘れてしまったの?」
「いえ。……ソニア様のことが気がかりなもので。嫌な胸騒ぎがするのです」
振り返るクリスの表情は固い。
いつものように余裕のある態度の彼ではなく、王妃は片眉をあげた。
「ショックで自ら命を絶っているかも知れない。――いや、そうでなくても一人で過酷な運命を背負うことに真実味を帯びてきて、怯えているかもしれません。何はともあれ、行って差し上げないと……」
早口で捲し立てるクリスの歩調が、また早くなる。
一刻も早くソニアのもとに行かなければ――と逸る気持ちがいつもは最大限に礼を尽くす王妃に対し、ぞんざいな態度になっていた。
ああ、と王妃は彼の態度の意味が分かり顔を綻ばせた。
「クリスはソニアが好きなのね? 一人の女性として」
「ぐっ」
クリスの喉から奇妙な音がして立ち止まる。それからゆっくりと王妃に振り返った。
振り返ったクリスを見て、王妃は
「あらあら」
と、嬉しそうに笑った。
「本当に結婚しそうね」
「……私の気持ちより、ソニア様の事が優先ですよ」
再び王妃の前を足早に歩くクリスの顔は、蝋燭の拙い灯りしか無い廊下でも、はっきりと分かるほど真っ赤であった。
しばらくお休みします。詳しくは活報で




