(2)
「ソ、ソニア……! 丁度良かった! 今から迎えに行こうと思っていたんだよ。すまないね、どうしても離れられない用事があったんだ」
そう言いながら、セヴランはソニアの手を引いてその場を離れようとする。
(その間に、東屋にいる女を逃がそうとするの?)
ソニアにはそう取れた。
だからセヴランの手を払い、闇の先に隠れようとする女に声をかけた。
「お待ち下さい! お話しは全て聞いておりました! 貴女はそれで良いのですか? 好きな人が好きでもない人と結婚するつもりなんですよ?」
そうソニアが言っても女は振り返らずに、早足で逃げていく。
引きずるほど長いドレスの裾を持ち上げ、不安定な足取りだ。 ヒールがとんでもなく高い。そして細いからだろう。
こんな靴を履いていれば全速力は無理だ。いや、全速力で走る、という行為そのものを貴族の淑女が行うかどうかだ。
しかし、ソニアは長い修道院生活で踵の低い靴しか履いたことがない。
なので、この舞踏会でも慣れた踵の低い靴で出席していた。しかも足腰には自信がある。
(踏ん張ってモップ掛けをしていた修道院生活をなめるな!)
――今、ここで出さなきゃ何処で出すの? と、見当違いの場で実力を発揮しようとソニアは走る。
鍛えた足腰が功を奏したのか、あっという間に差が縮まり女はソニアに捕まった。
ソニアは女に
「好き合っているなら、どうしてセヴラン様に反対をしないのですか? お金って言っていましたけど、何か困窮している訳でもあるのですか?」
そう立て続けに尋ねる。
薄ら闇の中、ソニアに振り返った女は、化粧で縁取った瞳を大きく開く。まるで変わったものでも見ているように。
ソニアも泣きたくなるのを必死に耐えて彼女を見据えた。
「嫌だわ」
カトリーヌが、フフ、と含んだ笑いをしながらソニアを見つめ返してきた。
「遊び、だからでしょう?」
「……えっ?」
その答えにソニアは今一度、聞き返すような声を出した。
「離してくださらない? わたくしが貴女の手を払うのは貴族社会上、無礼にあたるので」
ソニアはその冷たい口調に威圧されて、彼女の腕から手を離す。
カトリーヌはドレスの裾を掴むと、いかにもぞんざいに形式上仕方なくと言わんばかりに、ソニアにお辞儀をした。
「ソニア様、ですよね? クレア家最後の後継者の……。わたくし、カトリーヌ・ド・シャリエと申します。これでも夫がいる身ですのよ」
――夫?
「既婚者なのに……? セヴラン様と……?」
ソニアは重なる衝撃に、もはや頭の回路が切れそうだった。
ただ、考えもなしに言葉が口から漏れる。
「だから、遊びだと申し上げているでしょう? 夫以外の方と擬似恋愛を楽しむのですわ。独身にかえって将来を誓ったり、また、結ばれぬ恋に身を委ねてみたり、はたまた一夜の情事に浸ってみたり」
「そんな……! 神の御前で誓った相手以外の方とそんなこと……! 許されるはずが!」
「許すも許さないも、わたくし達貴族の子女は、結婚前には自由に結婚相手も選べないのよ? 自由に愛してはいけないの。愛していない者同士が、神の前で愛を誓う方が許されないと思わなくて?」
「――それは……」
口をつぐんだソニアを囲むように、カトリーヌはゆるりと歩く。
何も知らない少女だと、馬鹿にした態度だ。
「修道院に長くいらっしゃったようだから、世間のことは疎いようですわね。ソニア様、何をするにも世の中、お金がかかりますのよ? 特に男女の成さぬ仲には金は大事ですの。お互いに楽しみたいじゃありませんか、遊戯も賭博も恋愛も。セヴラン様もそうお考えなのですよ?」
カトリーヌの手がソニアの肩に触れる。
ねっとりした、吸い付かれそうな感触にソニアはひくついた。
「わたくしが色々とお教えしましょうか? クレア家のソニア様? どうせなら楽しみましょう。有り余る財をお持ちなのですから、わたくしが有効な遊びをお教えいたしますわ。――セヴラン様とご一緒に」
カトリーヌの、真っ赤な紅を引いた唇が優雅に上がる。
「――シャリエ夫人! ソニア様とお近付きになりたいのなら、まず夫君と共にパトリス王にお伺いをお立てください」
厳しい口調がカトリーヌを直撃する。
彼女の肩がビクリと上がり、忌々しそうにその声の主に振り返った。
「……クリス様」
その者の名を呼んだのはソニアだった。
クリスは、口も聞けず呆然としているセヴランを避けて、ソニアに近付くとカトリーヌの前に立ちはだかる。
「夫君からの注意では、よくお分かりにならなかったようですな? 王直々に叱咤された方がよろしいか? そうなれば、夫君共々に厳しい処分が下されますぞ!」
「な、何を仰るのやら……! わたくしはただ、ソニア様に王宮の礼儀や、今流行りの遊びを教えて差し上げようと――」
「貴女に教えてもらわなくても結構です。――それより、夫人。貴女は確か、しばらくは王宮の出入りを禁じたはずですが……?」
口調よりさらに厳しい眼差しが、カトリーヌを固まらせる。
その問いに答えたのはセヴランだった。
「……僕が招いた。城外に出ると監視の目が厳しいから……王宮のこうしたイベント中なら、誤魔化せると思ったんだ」
「セヴラン様、父君であるパトリス王のお声が届かなかったようですな」
「カトリーヌが既に人の妻であることで反対なら、くそくらえだ! 僕は彼女を愛してる。彼女と一緒にいたいんだ!」
そう切実にクリスに訴えるセヴランだが
「だけど」
と、視線をカトリーヌに移す。
「……彼女は遊びだと……嘘だよね? この場をしのぐための虚言だよね?」
そう訴えた。
カトリーヌはクリスがいる手前、どう言おうか手をこまねいている様子だ。
口をパクパクと動かして、なんとも落ち着かないでいる。
その姿を見たクリスはカトリーヌに
「貴女が、真実にセヴラン様を愛している、と言うならセヴラン様と作った賭博の借金の返済に渡した金を、パトリス王にお返ししなさい。そして二人で借金を返していきなさい。――それは出来ない。夫君と泣き付いてきたではありませんか。だからセヴラン様とは会わないという条件のもと、手切れ金としてお渡ししたのですよ?」
それからクリスは、セヴランに向きなおす。
「セヴラン様もです。貴方が自由に使えるお金が無くなったのは、賭博の借金にあてたからです。自業自得の所業にソニア様を巻き込もうとし、あまつさえ彼女の財産まで狙うとは―― ! 幼馴染みの姫に悪いと思わなくなるほど落ちたのですか!」
「……」
黙りこくった二人を見てクリスは
「カトリーヌ様はもうお帰りください。夫君には後から連絡が行きましょう。たっぷりと説教されなさい。もう屋敷から出してはもらえないかも知れませんね」
そう言い捨てる。
「セヴラン様は私と一緒に……。貴方も共にお話をしなくてはなりませんよ……」
クリスは静かにそう言うと、ソニアを見つめた。
――ソニアは立ちすくんだまま、頭を垂らしていた。
「……セヴラン様のお話を、どこまでお聞きしたのか……」
セヴランは恋に浮かされて喋った内容を思いだし、青ざめた。
「お話し下さい。全て……知っていること……」
ソニアは俯き、握る自分の手を見つめたままに、ようやくそう言った。
次回は1/31です。