(4)
(クリス様の馬鹿! 知らない! もう勝手にするんだから!)
後から後から流れて止まらない涙を懸命に拭いながら、ソニアは王宮で宛がわれた自分の個室に行こうと走る。
やんごとない貴族の娘が、一人泣きながら走るなんて奇行の他ならない。
しかし今のソニアには、そんな周囲の視線や声など全く耳にも入らないだろう。
それでも、場所が人気が無い場所から王の身内以外には、入る事が出来ない場所を走っていたのが良かった。
驚いて廊下の端に寄る侍女数人に会うくらいで、自分の個室がある練に辿り着いた。
遠くから微かに聞こえてくるダンス曲の音楽。
招待された者達は楽しんでいる真っ最中だろう。男女の睦みの時間には、まだ早かったのが幸いか。
はしたなく全速力で走ったせいで息切れが酷い。息を整えながらゆっくりと足を進めていく。
ひゃっくりが出るほど泣くのは、何時くらいぶりだろう。
ソニアは一人回想する。
(確か、一番下の兄が亡くなったと訃報をもらった時だわ)
とうとう一人ぼっちになってしまった悲しみと不安。
自分は、これからどうしたら良いのか。
どう、生きたら良いのか。
何を生きがいにしたら良いのか。
まるで右も左も分らない荒野に、一人取り残された気分でいた。
誰の手を取ったら良いのか。誰に助言を乞いたら良いのか。
誰にこの、言いようの無い悲しみを訴えたら良いのか――修道院にいて、神に教えを乞う身でありながら。
しかし、現実には神はただ微笑むだけで自分に手を差し伸べてくれる訳ではないし、抱き締めてくれるわけでない、目の前にいる偶像は象徴なだけだ。
幼かったソニアは最初に両親を事故で亡くし、すぐに修道院に入れられたことで『祈る』ことだけでは到底、癒すことが出来ない傷を負っていた。
温もりが欲しい。ただ、抱き締められるだけで安心できる相手がこの世から消えて、まだ幼かった彼女は、冷たく白く滑る像にそれを求めても実現は無いと身体が知っていた。
泣いて泣いて泣いて――共に泣いてくれたパメラ。
『私もお父様もお母様もいないの。一人ぼっち』
同じ境遇にお互い、お互いを抱き締めて泣いた。
パメラに会いたい――とても
この気持ちを吐き出したい。
「……パメラ」
涙を堪えて、ソニアは友の名を口にする。
「ソニア……?」
後ろから覚えのある懐かしい声に驚いて、ソニアはゆっくりと振り向いた。
「パメラ? 貴女なの?」
髪を結い上げて生花を差して、赤と黒の配色のドレスを着ている彼女の装いは、その辺にいる貴族の子女とどこか違う。艶やかで色気がある。
修道院の頃の無邪気で明るい印象とガラリと変わった様子に、ソニアは泣くのを忘れて面食らっていた。
「どうしたの? そんなに驚いて。私の格好、おかしい?」
ソニアは仰天したまま首を振る。
実際、彼女にとても似合っている。ただ、いつも見ていたパメラのイメージと違うだけで。
とても着そうにはない色合いに、大人びたデザイン。
そしてドレスに合わせた口紅は、鮮やかに赤い。
こちらに眼差しを向けながら微かに微笑むパメラは、一足先に大人になったように見えた。
――でも目の前にいるのは間違いなくパメラ、自分のかけがえのない友人だ。
またじわりと視界が霞む。
「パメラ!」
と、ソニアは抱き着き泣き出した。
「どうしてここに? 私、最近、修道院に行ったのよ? そうしたら、実家から迎えに来たって聞いて……!」
「叔父が私を社交界デビューさせて、手っ取り早く結婚相手を見つけさせるつもりなのよ」
パメラは口を尖らせて、ドレスの裾を掴む。
「今夜、貴女が来るかも知れないって思って私、探していたのよ」
「私もよ、パメラ」
「貴女がクリス様と一緒にいたところを見て、それから見失ってしまったから、社交界デビューのご令嬢紹介の時間まで待っていたの。でも来ないんですもの、どうしたんだろうって聞き回っちゃったわ」
「――あ! そうだったわ! 紹介!」
毎年の聖誕祭では、今年社交界にデビューする令嬢達を一人一人紹介していく。
時間が来たら、並んで待機していなくてはならなかったのに。
「やだ……! さぼっちゃったわ!」
「生誕祭の三日間は、毎晩行うから平気よ」
「もうパメラは紹介が済んだの?」
「叔父がピッタリくっついていたから。紹介が済んだらこうやって放置よ」
呆れて肩を竦めたパメラが、自分の知っている彼女でソニアは内心、ホッとした。
それだけ、今のパメラはいつものイメージとかけ離れている。
「――それより、どうしたの? 貴女の部屋を探してこうやって待っていれば、泣きながら歩いてくるし……。 いつも側にいるクリス様は、どうしていらっしゃらないの?」
「……パメラ!」
パメラに問われて泣いていた理由を思い出したソニアは、再び彼女に抱きついて泣き出した。
◇◇◇◇
パメラに自分にあてがわれた部屋に入ってもらい、一通り話を聞いてもらった。
いつの間にか侍女が控えていることに気付いた。おそらく、クリスが手配したのだろう。
こちらが感心するほどきめ細やかな心遣いをするのに、今回は本人は追いかけてきてはくれなかった。
(こういう時ほど、追いかけて来てくれるものじゃないの?)
改めて思い知らされたこと。
「クリス様にとって、私は『王の命令』で仕方なく決めた結婚相手なんだわ……」
その事実にソニアの視界がまた滲み、揺れた。
「だから、いつまでも私のことを『姫君』と呼んで名前で呼んでくれないのよ」
モヤモヤと頭の中で漂っていたけど、明白にしてこなかった疑問。
怪奇現象騒ぎで忙殺されていたから、不安をこれ以上増やさないでいよう――そう、心が薄いカーテンを掛けていたのかもしれない。
不可解な現象が落ち着いている今、改めて『結婚』に向き合って掛けていたカーテンを開けた。
――そうして。
「ソニア……お茶」
パメラが、ソーサーごとソニアの前に差し出す。
「貴女付きの侍女だけど、こんな状態だから私が頼んだの」
飲んで、と再度勧められて手に取る。
手の込んだ造りの楕円のテーブルには、ビスケットやレイヤーケーキなどの軽食まで用意されていた。
真っ赤になった瞳で控えている侍女見上げると、彼女はゆるりと微笑んで軽く頷く。
「……ありがとう」
そう言ってソニアは、湯気が揺らぐ琥珀色に染まる茶に口をつけた。
まろやかな甘い味が口内の渇きを埋めて、ホッと息をつく。
泣きすぎて、喉がカラカラに渇いていたのだと気付いた。
「パメラは凄いわ」
「何が?」
いきなり称賛されて、キョトンとした顔をするパメラにソニアはゆるりと微笑んだ。
「私の今の状態を見て、押し付けがましくない気遣いが出来て、こうやって欲しい物をそっと渡してくれる……修道院にいた頃からずっと思ってた。さりげないけど、温かくてこじれた心が溶けて綻ぶ――そんな労り方をパメラは出来る。……きっと貴女を妻に出来た人は、最高に幸せな日常を送れると思うの」
そのソニアの告白を黙って聞いていたパメラが
「――違うわ」
と、唸るような低い声音で返し、今度はソニアを驚かす。
パメラは、ソニアの姿をまるで自分の視界から消すように俯き、言葉を続けた。
「ソニアがそう思うのは、私がそうしなければ怖かったからよ。私を囲む周りの人達の感情を読んで、嫌われないように接することに一生懸命だった。貴女みたいに素直な感情を顔や態度に出して、それで傷付くことが怖かったの」
「パメラ……そんなこと――」
「それより、話を戻しましょう? 私のことより、クリス様のソニアに対する態度の方が問題でしょう?」
顔を上げたパメラににっこりと微笑まれた。
ソニアは彼女の厳然とした笑顔に気圧されて「ええ」と頷いてしまった。
「それにしても……クリス様の態度はしっくり来ないわね。婚約時と新婚の時って――こう……あま~い雰囲気で、二人目を合わす度に笑いあっているものかと思っていたわ」
「……初対面で、私が気絶したせいかしら」
そう考えると、クリスの態度や言い分を非難することなど出来ない。
――思いっきり態度で拒絶を表したから
「……本当に。いくらセヴラン様じゃなかったからと、気を失うなんてどうかしているわ、私」
「それにしても『どうぞ好きに浮気してください』なんて……」
「浮気、なんて! クリス様はそんなことを言ったのではなくて――」
「意味は同じじゃない?」
パメラの有無言わせない言い方に、ソニアの口が閉じる。だから自分もあんなに憤ったのだ。
「貴族の家庭の中では、たまに浮気公認で自由に恋愛をしているご夫婦もいらっしゃるようだけど……クリス様はそちら派なのかも知れないわね。あの方、王宮の騎士でそういうラブロマンスに事欠かない人だったみたいだし」
「……初めて聞いた……」
パメラの口から聞いた話は、ソニアを固まらせた。
「デビューの紹介待ちで聞き耳をたてたのよ。パトリス王に謁見でとても注目を浴びていたのよ、貴女とクリス様」
『クリスフォード様も、とうとう身を固める決意をしたのね』
『結婚したら、奥様になられた方の実家でお暮らしになるのかしら?』
『その前に一度、ご一緒したかったわ』
『あらお止めになった方が宜しくてよ。最近は王太子夫妻と仲違いしていると噂よ』
『では、王太子妃と通じているという噂は本当なのかしら』
『それで王はクリスフォード様を、王宮から遠ざけようとなさっているのかしらねえ』
『いくらディヤマンの称号を持つ騎士だとはいえ、通じてはいけないお方と道ならぬ恋をするのは許されないことなのね』
『クレア家のご息女は、何も知らないのかしら?』
『ずっと修道院でお暮らしだったと聞いておりますから、世俗の噂には疎いかと……』
『クリスフォード様は満足出来るのかしら? ――ねえ?』
『国内屈指の財力を持つ家ですもの。それだけでも満足ではなくて?』
『でも、クレア家も――』
「ここまでそっと聞いていたけど、呼ばれて壇上に上がったから、その後の話は分からないのよ……」
パメラの同情の声さえも、もうソニアの耳に届いていない。
舞踏会に来ている数ある貴婦人達の心無い噂話。それはソニアを傷付けるのに十分すぎる内容だった。
――王太子妃との道ならぬ恋
(生涯結婚はしない、と誓っていたのはそのお方の為?)
――そして
(パトリス王は厄介払いの為に私にクリス様をあてがったの?)
――まるで兄か父のような思いで、王に接していたのに。
(駒の一つとして扱われたの?)
クリスフォード・コルトーは今までの史上最強の『ディヤマン』と謳われ、他国からも『彼が戦場に現れたら迷わず撤退せよ』と恐れられるほどだ。
そんな彼を、不義密通の罪があるからと追放なんて出来ない。
――なら
「……何も知らない私と結婚させて、体よく王宮から追い出してかつ、国から出ていくことの無いようにしたの……?」
明らかになっていく現状が重苦しくソニアの心にのし掛かり、息苦しさに何度も深い呼吸を繰り返す。
「ソニア、大丈夫?」
パメラの手がソニアの肩に回る。ソニアは彼女に支えられる形になった。
「……私、このままで良いのかしら……? 分からなくなってきたわ」
自分にとっても、クレア家にとっても、クリスと結婚することは望ましい――分かる。
貴族の家に生まれたからには、結婚は愛だけで結ばれることは難しいことも、ソニアは心得ていた。
結婚してから関係を築いていけば良い。貴族の結婚とはそんなものだ。
ソニアが悲観しないのは、それで結婚して思いあって労り合う両親を見てきているからだ。
――でも
クリスは既に王太子妃を想っている。
(私は……クリス様をお慕い始めている……)
一方通行の想いのままに結婚なんて出来ない。
「クリス様はだから……私に色々な方々と交流しろと? そしてクリス様は――」
王太子妃と――?
私は王太子妃と会うための、隠れ蓑にするつもり……?
後から後から疑惑が湧いて止まらない。
独りよがりの思い込みと分かっていても、溢れた疑惑は心だけに止まらず、身体に浸透してきている。
ソニアは震える身体を自分で抱き締めた。
寒くないのに酷く震える――衝撃が支配する身体は、自分で抑えることが難しい。
それは過去に家族を亡くした時によく知っていた。
「パメラ……!」
堪らず泣き叫びパメラに寄り添う。
「可哀想に……ソニア……」
パメラがソニアを抱き締め、優しげに彼女の背中を撫でる。
「……ねえ、ソニア。もう、クリスフォード様と縁談を破棄したら?」
「でも……この縁談はパトリス王が決めたものだもの。私の一存では決められないわ……」
「何をいっているの! クレア家は国随一の財力を持っているじゃない! 時代が動けば貴女の家がこの国を支配していたのよ? そんな家の貴女の意見を無下にするなんてしないわよ」
「でも……」
「ソニア、王に申しあげるべきよ。そうして、貴女自身が長いことずっとお慕いしていたセヴラン王子と今度こそ……」
「パメラ……」
そう説得をするパメラの笑みが、いやに陰湿なのにソニアは気付いていた。
だけど――その時は夜の陰影のせいだと、そう思い込んでいたのだった。
次回は1/24ですが、夕方以降の更新になるかと。