(1)
日の出前に起床したソニアは、身支度を整えて聖母様の像に祈りを捧げる。
それから、一週間毎に決められた自分の役割をこなしていく。今週は朝食の配膳の係りだ。
彼女のいる修道院はとても大きく、孤児院と女子寄宿学校も共に併設されていた。
女子寄宿学校は良家の子女達の行儀見習いの場所となっていた。
親元を離れて生活し、神の教えに沿った勉強をすることは先の人生に何かと有利に運ぶので、半年や一年という短い期間に入る貴族の息女達も多い。
勿論、そのまま修道女の道に進むのも構わない。
ソニアはそんな貴族の息女達の中では、ここにいる期間が長い。
彼女の親は十年も前に亡くなり、あとを継ぐ兄達も相次いで亡くなった。
ソニアは莫大な財産と広大な土地を持つクレア公爵家の直系の血を引く、ただ一人の娘となってしまったのだ。
後見人あるこの国の王は、彼女をこの修道院に入れたのだ。
まるで何かから守るかのように――
◇◇◇◇
ソニアは修道院自慢の薬草園を横切り、よく磨かれてチョコレート色に光沢を放つ廊下を歩く。
突き当たりの重厚な扉をノックした。
「お入りなさい」
穏やかな声音が返ってきて、ソニアは扉を開ける。
さんさんと日が射し込む窓を背に、シスターが執務机の椅子に座っていた。
「失礼します」
ソニアは両手で、灰色の何の飾りもない簡素なデザインのスカートの裾を摘まみ、腰を下げた。
寄宿学校に入ると、華美な衣装や髪飾りは禁止だ。修道女見習いの服を着用して過ごす。
シスターは慈愛の含む笑みを浮かべ「さあ、中へ」とソニアを導く。
ソニアは、楚々と淑やかに室内の奥に設置されている革張りの応接間セットに向かった。
そこにいる人物を見てソニアは、喜びに淡い青色の目を輝かす。
「パトリス王!」
「元気そうだね、ソニア」
パトリスは彼女に極上の笑顔を向けながら、両手を広げてソニアを導く。
ソニアは躊躇いなくパトリスの胸に飛び込んでいった。
彼女を教育する修道女がこの場にいたら眉を潜める行いだが、全ての事情を知るシスターは何も言わず微笑みを深くしたのみだ。
「王が自らお出で下さるなんて、思ってもいませんでした」
しばらくの抱擁の後、子供のような自分の行動に恥ずかしさに頬を染めながらソニアは離れ、最上の礼節をとる。
「自分の口から伝えたくてね。お忍びで会いに来たのだよ」
「まあ、何でしょう?」
ソニアは、緩やかに後ろに結わいた金茶の髪を揺らす。
その愛らしさにパトリックは自分の初恋の人を思い出し、懐かしさに微笑んだ。
「その辺を歩きながら話をしようか。案内してくれるかね?」
「勿論ですわ」
ソニアの羽切良い返事の後、二人は薬草園に繋がる通路を歩いていく。
アーチ型の天井のステンドグラスから、柔らかな光が射し込む白い石の渡り廊下を歩く。
季節は春に入り、教会の薬草園にも香りに誘われて蝶や蜂が忙しく飛び交っていた。
「君の結婚相手が決まった」
「ぇっ?」
唐突に告げられソニアは立ち止まり、ポカンと小さな口を開けてパトリスを見上げた。
そんなに驚くとは思わなかったパトリスは、苦笑いしながら話を続けていく。
「君はもう十七だよ。婚約者がいたっていい年頃だ」
「……申し訳ございません。あまりに急な話だったので……」
「もしや、気になる人がもういるのかな?」
「嫌ですわ、ここは女性達の園。陛下以外に、この寄宿舎学校の中に入れる男性の方はいないと言うのに」
ムウッと膨れたソニアを見てパトリスは「ああ、そうだったね」と笑った。
「それで……その方は私の知っているお方なのでしょうか?」
ソニアは胸の鼓動の早さを感じつつ、平静に尋ねた。
「ああ、知っているよ」
キュッと胸もとで手を握り締め、じっと自分を見つめているシソニアの期待を込めた眼差しをパトリスは受け止める。
「私の息子――セヴラン……」
「セヴラン様?」
「そう、セヴランの――」
ああ、とソニアの目が潤み、頬をおさえて喜びに顔が輝く。
「セヴラン様の! 嬉しい! パトリス王、私、良き妻になれるよう努力しますわ!」
◇◇◇◇
「うーん……」
「如何しましたか? 王」
お忍び用の簡素な馬車に乗ってから、しきりに唸るパトリスに、お供に付いてきた従臣は不思議そうに尋ねた。
「ソニア様がもしや、結婚相手をお気に召さなかったとか?」
「いや、大喜びだった……ただ……」
「ただ?」
「相手を間違えているかもしれん」
「……きちんとお話なさったんですよね?」
「『君のよく知る人物』で『セヴランの』と話した途端にもう大喜びで……その後、確認の意味でもう一度言ったが……上の空っぽいな……とねえ」
「あー、それもう絶対『結婚の相手はセヴラン王子』だと思っておりますね」
従臣は間の抜けた声を出して、パトリスと一緒に項垂れた。
「喜んでいたということは、ソニア様はセヴラン様をお慕いしていたってことですよね?」
「まあ、きっとそうなんだろうねえ。もともと彼女は七つで修道院に入っているから、男性というのはセヴランと、セヴランの周囲にいた大人しか知らないし、歳の近くてよく一緒に遊んでいたのはセヴランだし」
「そのまま成長しているわけですね、ソニア様は……純粋だなあ……セヴラン様と違って」
従臣は自分の失言に気付かずにいた。パトリスは一瞬ムッとしたが、日頃の息子の行いを見るに限りもっともなので文句も言えない。
従臣は名案! とでも言うように顔を綻ばせてパトリスに話す。
「一層のことセヴラン様で良いじゃありませんか、ソニア様のご結婚相手は。ソニア様の清らかさに心打たれて一筋になるかも知れませんし」
「そういかなかったら、ソニアが不幸になる。自分の息子の女癖の悪さにソニアを巻き込むわけにはいかんよ」
そうですねえ、と否定しない従臣にまたムッとしながらもパトリスは言葉を続けた。
「それに、セヴランではソニアにかかっている『呪い』を打ち消すことは出来ん」
「教皇様の神のお告げが当たると良いのですが。で、なければあの方が『呪い』に負けてしまうようなことになれば、国としてかなりの損失になります」
ソニアの結婚相手の身を心配しているのだろう。従臣は憂いの表情を見せた。
パトリスは馬車の小さな窓を開けて、街並みを見つめる。
彼の活躍でここ二十年は、国が戦火に巻き込まれることは無かった。
この整然とされた街町並みと、笑顔溢れる民の生活は彼の国への忠誠心と類い希なる騎士の才能のお陰だ。
「彼にまた、大きな負担を掛けさせることは私も悪いと思っている……。しかし、教皇の予言もそうだが、私もソニアの呪いを解くことが出来るのは彼しかいないと思っているのだ」
パトリスはそう話を閉めくくった。
◇◇◇◇
「まあ! 結婚が決まったの! おめでとう、ソニア! しかも、第二王子のセヴラン様とだなんて! 素晴らしいわ!」
「ありがとう、パメラ」
ソニアは手放しに喜ぶ、同室の同い年の彼女に恥ずかしそうに礼を述べた。
パメラは顔を上気して、自分のことのように喜んでいる。
「しかも、ソニアの初恋の相手だったお方とでしょう? ロマンチックだわあ! ずっと想っていた方と一緒になれるなんて……! きっとセヴラン様も、ソニアのことをずっと気にかけておいでだったのよ」
「だと良いけど……。時たま届けられる便りには、私のこと妹のようにしか思っていないような文面だったから……。無理しているのか不安だわ」
ソニアは、今までセヴラン王子から貰った手紙の内容を思い出して俯いた。
もしかしたら父であるパドリス王に結婚を強いられたのかもしれない、という不安が出てきたのだ。
だとしたら彼に申し訳ない。
三つ上のハトコにあたるセヴランとは、家族が亡くなりこの修道院に来るまでは王宮でよく遊ぶ仲だった。
日の光を吸い込んだような眩しい金髪は、優雅に肩に落ち、そして薔薇色の頬によく似合う若草色の瞳。女のソニアさえ、羨ましいと思う程の美しい美少年だった。
その容姿に傲ることなく誰に対しても優しく、『天使が地上に降りてきたら、きっとセヴラン王子のようだろう』と皆が称賛していた。
「ソニア、でも承諾したのはセヴラン様なのでしょうから、大丈夫よ。自信を持って!」
パメラの励ましにソニアも
「そうね、良い妻になれるようにこれからは、勉強も作法ももっと身を入れて頑張るわ」
と微笑みを返した。
パメラはその笑顔を眩しく感じ
「でも、急ね。二週間後にここを出ていくなんて……。友人の結婚は嬉しいけれど、ずっと一緒に生活していたから寂しいわ……」
つい寂しい心情を漏らす。
パメラとはこの修道院に来てから、ずっと同じ部屋で寝起きしていた。
行儀見習いで入る他の子女と違い、彼女も家族を亡くし、親戚が跡目を継いで居場所が無くなってこの院に入ってきたのだ。
「私も、自分に代わってブノワ家を継いだ叔父が、結婚相手を見付けてくれると良いんだけどな……。そうしたら、私も外に出てソニアに会いに行けるのに……」
「パメラ……」
ソニアはうっすらと目頭に涙を浮かべる友人を抱き寄せた。
パメラの叔父は修道院に入れた姪のことなど忘れているだろう。現に手紙を送っても返事が返ってきた試しがない。
修道院への寄付金は毎年送られてきているらしいが、それも年々先細りしていると聞いた。
ソニアは、パメラのきつく結わかれた漆黒の髪を撫でる。
他にも、居場所がなくて院に来た子女は沢山いる。だがパメラとは気が合い、同室だったこともあって笑い合い泣き合い、寂しさも共有しお互いに励まし合った仲だった。
「手紙を書くわ。それから、パメラの叔父様にもお会いして尋ねてみるつもりよ。『彼女は年頃ですよ。良いお相手をお探しにならないのですか?』って」
「セヴラン王子のお相手から言われたら、叔父はきっと慌てふためいて急いで探しそう」
想像したのか、笑顔を見せたパメラを見て安心したソニアは彼女の手を握る。
向かい合い、二人両手を合わせ指を絡めた。そして額を合わせる。
お互いを励まし合う時にいつもやっていた動作だ。
「改めておめでとう、ソニア。いつも貴女の幸せを祈っているわ」
「ありがとう、パメラ……。私も貴女の幸せをいつも祈っているわ……」
二人、長い間そうしていた。
瞳に浮かぶ涙を隠すように瞼を閉じて……。