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マカク・シレヌスとレムル・カッタ①

――座標KZ89の00000地点


 マカク・シレヌス(Macaca silenus)は空を見上げた。空の大半を緋色の雲が占めていた。雲間から透き通るような黒い空が見える。太陽は厚い雲の緞帳の裏側でどんな黒よりも暗く、深く燃えていた。太陽は時折、陶器のひび割れみたいな雲間から顔を覗かせ、刃物のような鋭い日の光を地上に降らせる。この鋭利な陽光がちょうど空を見上げていたマカクの顔を強く撃った。すると肥えた獅子のような(おとこ)の顔が軽く笑うように歪んだ。

「(俺もずいぶんと鍛えられたものだ)」

 と彼は思う。

 マカクは広大な地下空間に建てられた都市で暮らしている。そこには空や太陽の代わりに壁と天井があった。それらは『もうこれ以上はいけませんよ』という境界線。地上には境界(それ)がない。生活拠点を地下へ移した地下都民の大半は『空』というものを忘れてしまっている。そんな彼らが何の準備も無しに空を見上げると、底なしの井戸を覗き込んでいるような、落下防止柵のない屋上から下方を見下ろしているような、このまま堕ちてしまうんじゃないかという不安と恐怖に襲われて気絶したり、立ちすくんだまま動けなくなってしまうことがある。

 初めて空を見た瞬間、マカクは嘔吐(out)した。2年前のことだ。


 腕時計が午前10時を示し、【千々々々……(チチチチ……)】アラーム音を鳴らした。小さな音だったが静か過ぎる地上では音がよく通った。

 おっと、とマカクは時計の音をすぐに止める。機械(てき)がまだこのあたりをうろついているかもしれないのだ。見つかると少しばかり厄介なことになる。

「よし、仕込みの時間だな」

 低く、重く、掠れた雄の声は砂を巻き上げる【風々(whowho)】風音に飲まれて消えた。

 風か……。地上の風、地下都市の風とは違うんな、とマカクは腕時計に新しいアラートを入力し、それから地面でへたっているリュックから双眼鏡を取り出した(傍でくぐもった声が聞こえたが今は無視した)。

 地上の風は、なんというか、自由な感じだ。地上の風は無目的に吹いている、誰のためでもない、ただ吹いているだけ。地下の風は違う。地下都市の、巨大換気扇で作られる風は滞留する空気を対流させる為に吹いている、地下都市の住民の為に吹いている。音も違う。地上の風は静かだ。が、地下の風はうるさい。【轟音々々(ゴウンゴウン)】各所に設けられた換気扇の巨大な金属の羽が回転する音、単調でやかましい音。地上に出てみると自分達がどれほど酷い騒音の中で暮らしているのかよくわかる。

 けれど、とマカクは双眼鏡のレンズを服の裾で拭いて自分の顔を映してみる。けれど地上は俺達の住処にはならないだろう。地上世界はあまりにも俺達に無関心過ぎる。どこかで大量虐殺が起きようと、子供達が大勢餓死しようと、世界が完璧に終わってしまったとしても風は吹き続けるだろう。巨大換気扇の騒音と住民を管理する地下都市のシステムに順応してしまった俺達の体はもう、こんな地上の世界に慣れ親しむことができないのだ、きっと。


 マカクは少し歩いて途中で寸断された高架道の舳先に立った。

 そこからは『都死』――かつて都市だったもの、都市の死骸、爛熟した文明を謳歌していた富民達の墓場――を見下ろすことができた。


 1000m級高層建築物の群れは竜巻にあった森林地帯のように全てなぎ倒され、無造作に転がっている都バスや乗用車は遠方(ここ)から見ると子供が遊び場で散らかしたミニカーにしか見えない。街路に転がっている白い斑点は住民の骨だ。生きたまま焼かれた住民達の骨。

 戦争末期に機械軍が使用した七種の大量殺戮爆弾のうちでも『青い惑星』と呼ばれる爆弾は最も王孫族に打撃を与えた兵器の一つだった。

 この奇妙な名前の爆弾は17つの主要都市国家に対してかっきり17個投下され、都市国家の住民85%を食い散らかした。しかもそれだけでは飽き足らず、爆発と同時に放射された化学物質がきっちり残り15%の無事だった住民を執拗に追い詰めた。生き残った住民は毒煙の及ばない地下へ逃げるより他にしようがなかった。もうずっと前の、思い出したくもない『忌憶(おもいで)』だ。


 双眼鏡を目に当てると爆心地がよく見えた。すり鉢状に変化した地形の中心にいくつかの黒い球状の建物があった。

 機械(てき)の『工場』だ。

 更に双眼鏡の倍率を上げると工場の外縁を巡回している機械達の姿が見えた。機械(やつら)は強力な武装と強固な外殻、そして歴戦の兵士並の適切な戦闘判断能力を持つ無敵の兵士だ。リアルタイムで情報を共有し、24時間、休むことなく監視体制を続ける彼らの防御布陣は万華鏡のように、美しく、精緻で、複雑に変動している。

 まともに戦って勝てる相手ではないが、こちらには秘密兵器がある。荷物の置いてある場所まで戻ると、

「準備はいいか」

 マカクの呼びかけに、警戒心を隠さない獣の低い唸り声が応えた。

 (おとこ)の足元には少女がうつ伏せで寝転がされている。少女は拘束衣を着せられており、そのせいで芋虫のような動きしか出来ない。

 マカクは屈むと、少女の小さな顔に張り付いている噛み付き防止用マスクを剥がした。途端に少女の体は大きく跳ね上がった。少女の小さな愛らしい口が信じらないくらい広角すると機械油で黒ずんだマカクの分厚い右手の甲に思い切り噛み付いた。

 マカクの右眉が軽く跳ね上がる。そしてため息、左手で頭を掻き、それから聞き分けのない犬の口からおもちゃを引き剥がすように、難儀して少女の口から右手を引き剥がした。少女の小さな赤い唇から唾液の糸が引いた。雄の右手甲には少女の、黒色の、小さな噛み痕が刻まれていた。

 よくよく観察してみると、剥き出しになったマカクの腕から手の甲にかけて小さな黒い歯型の跡が連なっていた。こういうやりとりは彼らにとって日常茶飯事のことなのだ。

「あーあ、また痕がついてら。おい、レムル、あんまりこういうことやってると歯を悪くするぜ。たく仕事のお時間だ。聴いてるかコラ」

 とマカクが言うと、

「グルル、頭イテェ、イテェ、チクショウ、殺シテヤル、殺シテヤル、グルル、チクショウメ……」

 マカクの声は少女の耳に届いていないようだった。10時間徹カラした後みたいな【干々(カラカラ)】に枯れた声でただずっと呪詛のように頭痛を訴えている。

「鎮痛剤か?」

 そのマカクの一言に焦点のあってなかった少女の目に獰猛な光が点った。マカクはため息を吐いた。

「いつも言っているだろ、薬は『新しい軍隊(Neo-plasms)』の制御に支障が出るし、お前の場合、強い薬を使うから用量が難しいんだ。任務が終わったらちゃんとドクに打ってもらうからそれまで我慢しろ」

 レムルは低く唸った。そしてまた、

「イテェ、イテェ、頭、頭、頭ガ、ガガガガ……」

 呪詛を繰り返した。

「時間だ。始めるぞ」

 マカクは少女をひっくり返してうつ伏せにした。そして少女の背中にある拘束衣のファスナーを一気に開けた。

 傷一つない少女の純白の背中が露になった。

 少女の背は少し汗ばんでいる。

 少女はひときわ大きく息を吸い込み、そして吐き出した。

 少女の背が小刻みに震えた。

 少女の背が煮詰めたミルクのように【沸々(ふつふつ)】と泡立った。

 マカクは表情を変えず、ただ歯を強く噛み締めた。


濡々(ジュジュ)】――焼けて真っ赤になった鉄杭を直に肌へ当てた時の、皮膚が熱で沸騰するような音。


 そして少女の背中から無数の小さな手が飛び出した。柔くて丸くて小さい胎児の手だ。濡れた胎児の手はそれぞれが別のテンポで開いたり閉じたりしていて、その様は海底に密集するイソギンチャクを思わせる。

 少女の体に格納されていた胎児達が次々と白い背中から排出される。


(オーン)(オーン)】――


 気味の悪い産声と共に誕生した胎児達は【無垢々々(ムクムク)】まるでビデオの早送りでも見ているかのように次々とオトナの体へと成長していく。

「(俺もずいぶんと鍛えられたものだ)」

 とマカクは思う。眼前の光景を初めて見た時、マカクは嘔吐(out)した。

 最も今ではこの光景が酷く痛烈に映る。代われるものなら代わってやりたい、と無責任にもそう思うこともある。

 しかしそれは少女にとって何の慰みにもならない安っぽい感情だ、と彼は考え直して自分に反吐が出そうな、酷く憂鬱な気分になる。

 胎児達を背中から吐き出す度に少女は細かな、声にならない悲鳴を上げる。マカクは、今、この少女は普通の(おんな)達が多くても数度しか体験しない出産の痛みを、『子供達』が生まれる度に、何度も何度も繰り返し味わっているということを知っている。訓練されている為、少女は大声を上げない。ただ痛苦の極みの中で少女は、

「グルル、アタシノ『子供達』で何モカモブッ潰シテヤル……」

 と小さく呻いた。そのどす黒い恨みの声は、全てを砕き飲む災厄の始まりを予感させた。

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