耳喰らい②
草むらが微かに動いた。一本の長い糸くずのような線虫が草むらから姿を現す。その線虫はウネウネと回りくどい動きで地面を這い進み、時間をかけて老屍骸の頬まで辿り着くと、
「くだらない眠りは終わりですよ、『code:RF』。目覚めなさい。支度をするのです」
線虫はまるで演説するようにそう言った。機械アナウンスのような平板な声。線虫の言葉に屍骸が反応した。渇ききった屍骸の上体が持ち上げる。線虫は振り落とされないよう、素早く死骸の鼻腔へ潜り込んだ。
「おはよう、ルリタテハ。よく眠れたかいwww」
とリーフィッシュは屍骸に声をかける。
屍骸=ルリタテハの意識が復調すると同時に、渇いた身体が土中や空気中の水分を吸収し始めた。【脈々々……】血流の音、【動悸々々……】心臓の音、【吸々々……】空気が肺に行き渡る音。
――仮死睡眠。クマムシに代表されるごく一部の動物が乾燥などの厳しい環境に置かれた際に発現させる無代謝休眠能力である。休眠中はあらゆる過酷な環境に長期間耐えることができ、水分を得るとまた何事もなかったかのように活動することも出来る。
ルリタテハは胡桃の殻のような瞼を【驚】と開けた。久方ぶりの外気に眼球は驚いて涙を滲ませた。視力が完全に回復するまで約5秒。ルリタテハが先ず最初にはっきり見ることが出来た物は自分の手だった。節くれだった、血管がくっきり浮かび上がった、小さな、老いた手。その手で体をなぞってみる。あばら骨の浮き上がった、強張った、皺だらけの、干物の身体。朽ちかけた屍骸のフリをしていた時とさほど見栄えの変わらない年寄りの身体。天国に一番近い身体。
「(己はどのくらい眠っていたんだ?)」
その疑問に対する回答がルリタテハの網膜に表示された。
『0.start/20130117 ……-2999:59:58、-2999:59:59、-3000:00:00……時点/20131116 17:00 』
3000時間! ルリタテハは3000時間もの間、屍骸のフリをしていたのだった。
ルリタテハは3000時間前のことを思い出した。
そうだ、3000時間と少し前、ルリタテハはこのオアシスより3000キロ離れた機関の研究所で定期健診を受けていたのだ。
同時刻、王孫の生活拠点に潜入していた『code:DOC』から機関司令部へ機密文書が送られてきた。その文章には捜索中だった『背骨』の手がかりが記されていた。
検診を終えたルリタテハは研究所の食堂でサラダと麦芽入りパンケーキを注文した。パンケーキは焼きたてで、薄く垂らされた蜂蜜が金色に輝いていた。ルリタテハはパンケーキの甘くて香ばしい匂いをたっぷり吸い込んだ後、それを小さく切り分け、口に運ぼうとしていた。
「『code:RF』」
線虫はルリタテハをそう呼んだ。
ルリタテハは一匹の線虫を頭の中に寄生させている。常にルリタテハの行動を監視し、また機関からの指令があればそれを伝える機械式の『監視線虫』である(リーフィッシュはこの監視線虫を「ムシケラ様www」と呼んだ)。時折ルリタテハはこの、体長僅か8ミリほどの糸くずみたいなものに支配されている自分を滑稽に思うことがあった。
もしこの機械線虫がいなければ、己はもっと気楽に生きることが出来ただろうか? 自分の導き出した答えに苦い笑いが込み上げそうになる。……常に監視され、常に命令され、常に従順な機関の道具として心を殺し、どんな理不尽な命令にも従ってきたルリタテハには『支配されない自由な生き方』というものが想像つかない。想像がつかないものを必要以上に恐れたせいで、ルリタテハは『ムシケラ様』の良い住処になった。
この『ムシケラ様』が機関の指令をルリタテハに伝達し、3000時間も屍骸のフリをさせたのである。
「機関より入電、現時刻をもって『code:RF』は仮死睡眠から復帰し作戦を遂行せよ。標的:王孫の遊撃戦闘部隊、敵勢力情報:司令官×1、攻殻機動兵×5、狙撃兵×4、近接戦闘兵×3、索敵兵×1、計14体。最優先事項は司令官の確保し保有している機密情報、とりわけ『雌王の背骨』の情報を入手すること。くだらない確認事項はこれで以上です」
いつもこうやって監視線虫はルリタテハの頭の中で命令する。頭の中で音声が反響して酷い頭痛が起こる。ルリタテハは小さな、監視線虫に聞こえないほどの本当に、本当に小さな舌打ちをした。
「14対1か。連中は対機械戦略のエキスパートみたいだな。作戦補佐の名目で送り込まれた5体の機械歩哨達は160秒もしないうちにバラさらちゃったし、まともに戦うのはおすすめしないぜえwww」
と、リーフィッシュはのんびりした調子でそう言った。
ルリタテハの右の視界が一瞬ブラックアウトする。少しして酷い雑音混じりの映像が映し出された――先ほどの、王孫部隊と機械歩哨達との交戦記録である。機械歩哨達は王孫との戦闘記録を、自分達が破壊されるギリギリまで録画しており、今それがルリタテハの眼球の中で放映されている。あの機械歩哨達はこのオアシスを守るためではなく、敵勢力の戦闘能力を分析し、ルリタテハに伝達するために配置されていたのだ。
一通り、交戦記録を確認した後、ルリタテハはなるほど、と思った。キプンジ部隊の面々は皆、機械と対抗する為の強化手術を受けているようだ。まともに戦えば苦戦は必死だろう。
もっとも単純な戦闘ならばわざわざルリタテハが出向く必要はなかった。殺傷能力に長けた機械兵士達はいくらでもいるのだから。
「『耳喰らい』を使う」
と、ルリタテハは独り言のように言った。年寄りの歯の無い口から滑り出した声は存外に若い、少年の透き通った声。
リーフィッシュはからかうような口笛を吹いて、
「そうだね、そうだったねwww。それを使えば確かに安心安全だwww。でもいいのかい? 僕は心配だね。『あの力』を使った後、いつも君は酷く打ちのめされたようになるwww。本当にもう、見るに耐えないくらいに」
「『この能力』があるからこそ、己はここに呼ばれたんだ。もし『この能力』を使わなければ、司令官を囲う13名の屈強な兵士を倒さなくてはならない。『この能力』を使えば、犠牲者は1名で済む」
「そんなにうまく行くかねwww。だいたい……、」
ルリタテハはリーフィッシュの言葉を遮って、
「うまくいかせるさ」
と静かだが強い語調でそう言った。そう言い切ってしまわなければ、リーフィッシュに気づかれてしまう。固く厳しい声の裏に潜む慄きに。
「それと一つ言っておく」
と更にルリタテハ。ここでルリタテハの年老いた、ミイラの顔が微かに引き攣る。
「何が我慢ならないかって、リーフィッシュ、お前のその、己を気遣うような言動や態度だ。反吐が出る」
リーフィッシュは悪戯をしてもまるっきり反省しない悪童のような、悪意のひとかけらも無い無邪気な声で「キャハハ」と笑い、
「本当に君の事が心配なんだよwww」
ルリタテハは大きく息を呑んだ。それから手で顔を抑えた。彼の右瞼が【微苦微苦微苦微苦……】痙攣して止まらない。
「……黙ってくれ。頼むから」
この懇願を聞き入れたのかどうか分からないが、リーフィッシュは静かになった。
ルリタテハは茂みから少し顔を出してパピオ=アヌビスを観察する。
パピオ=アヌビスはすでに服を脱ぎ、湖に入り、無防備な裸の姿でゆっくりと時間をかけて身体を洗い清めていた。彼女の白い背中が見えた。細身の、幾分筋肉がつきすぎて少しバランスの悪いその背中にはたくさんの傷跡が刻み込まれていた。それが彼女の戦歴を証明していた。
彼女は近接戦闘兵――どんな猛獣よりも固くて素早い機械相手に生身で相対する、部隊の中で最も勇敢で最も過酷な兵士。
彼女は長くて美しい黒髪を持っていた。一番お気に入りのパーツらしく、彼女はうっとりとした表情で黒髪を愛でていた。
何を考えているのだろう、とルリタテハは思った。きっと――、とルリタテハは想像する。きっと、自分の一番美しい所を一番綺麗にして、愛する彼に見せるつもりなのだ。そして「綺麗だね」って褒めてもらおうとしているのだ。
ルリタテハの胸が軋んだ。右瞼の痙攣が再び始まった【微苦微苦微苦微苦……】。
ルリタテハは首を振った。
躊躇するな!
もう決めたんだ!
ルリタテハは眼球が潰れるのではないか、と言うくらい、強く右目を瞼ごと圧迫した。少しして痙攣は収まった。あんまり強く抑えたため、右目から一筋の涙が零れた。
ルリタテハは泉の岸辺、そのぬかるんだ地面にそっと右手を置き、残った左手に【噛】歯を立てた。【カチリ】というスイッチが入るような音とともにルリタテハの皮膚が濡れた、黒い土壌の色に侵食されていく。
近接戦闘兵が持つものと同じ、ほぼ完全に周囲に溶け込むことが出来る保護色迷彩能力。全身は周囲の情景と完全に同期した。視認でルリタテハを捉えることはほとんど不可能だ。
ルリタテハが水に浸かると、体表もそれにあわせて澄んだ水の透明色となった。獲物を狙うワニのように、微かな波を立てながらルリタテハは雌の身体に迫っていく。
「ねえ!」
パピオ=アヌビスが叫んだ。ルリタテハは身体を硬直させた。王孫は機械にはない独特の勘を持っている。潜行して近づいていることが暴露たのか!?
「やっぱ覗いているでしょ?」
とパピオが言った。
「覗いてないっス」
とテロピテクスが言った。
「マジ覗いたら殺すわよ」
覗きの冤罪をかけられたテロピテクス少年は慌てて、
「絶対覗かないっス。先輩から姐さんの伝説、嫌って言うくらい聞かされてきたんで」
雄社会の軍隊に長く居たせいもあって下ネタやセクハラには比較的寛容なパピオ・アヌビスだったが、覗きだけは一切許さなかった。裸を見られるのが本当に、本気で嫌らしく、裸を覗こうとした雄達は皆、病院送りにされていた。まだ死にたくなかったテロピテクス少年は怪しい素振りを少しでも見せないよう草むらの中で息を潜め、小さく縮こまった。
会話が終わるとパピオ・アヌビスの身体を漱ぐ水音と、上機嫌な鼻歌だけしか聞こえなくなった。
ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ、と水のはねる音。
「ふーん♪、ふふーん♪、ふん♪、ふんーん♪」
と雌の鼻歌。
ちょっと離れたところでテロピテクス少年の大きなあくびが聞こえた。
そして――、
「(射程圏内)」
微かな水音と共にルリタテハの身体がむくりと起き上がった。次に動いたのはパピオ・アヌビスである。彼女の反応は素晴らしかった。彼女は口を開けた。喉の奥からナイフの柄が現れた。胃液と唾液で濡れた隠しナイフの柄を掴むと、口腔から引き抜き、振り向き様に横薙ぎの一閃。彼女は近接戦闘の熟達者、『家族』中最速の兵士、彼女の半径1.5メートルは彼女の絶対制空権であり、如何なる敵であろうと、如何なる状況であろうと敵に遅れを取ることはない。
ナイフの切っ先がルリタテハの首筋に到達するまで0.05秒。ルリタテハの老いた身体とパピオ・アヌビスの若い身体が交錯する。
【破木】――枯れ木の折れるような音。
パピオのナイフがルリタテハの首筋に到達するよりも早くに、ルリタテハの老いた右手はパピオ・アヌビスの右手首を掴み、そして握り砕いていた。パピオ・アヌビスの右手からナイフが零れ堕ちる。それをルリタテハの左手がキャッチ。パピオ・アヌビスが悲鳴を上げるより先にルリタテハはパピオ・アヌビスの口にナイフを突き込んだ。ナイフはパピオ・アヌビスの舌を貫通し、その切っ先は脳幹にまで達していた。
――パピオ・アヌビスは両眼から赤い血の涙を流して絶命した。
弛緩したパピオ・アヌビスの屍骸を、屍骸のような老体がしっかり抱き止める。と、この時ルリタテハはパピオ・アヌビスの肌の匂いを感じた。桃の甘い香りの中にタバコのような尖った匂いの混じった、官能的だがどこか気の強そうな、一筋縄ではいかないぞといった匂い。
ルリタテハはパピオ・アヌビスの耳元へ年寄りのしわくちゃな唇を近づけて、
「(すまない)」
そしてルリタテハは口を大きく開くとパピオ・アヌビスの右耳を咥えた。
【カチリ】とスイッチが入る音。
年寄りの折れ曲がった背が風船のように大きく膨らんだ。年寄りの背中の、皮一枚の下で何かが息づき、もがいている、暴れている。【秘離】と薄い皮膜が破かれるような音(もしくは処女喪失の瞬間みたいな音www)。
年寄りの背を破って現れたもの、それは死んだはずのパピオ・アヌビスだった。
この瞬間パピオ・アヌビスは間違いなくふたり居た。ふたりの違いは生きているか、死んでいるか、そのくらいしかなかった。
『耳喰らい』
殺した相手の生態情報を瞬時に抽出し、相手の容姿と記憶を自身に反映させるルリタテハにのみが持つ異能。輩も、係累も、神すらも欺く絶対不破の化生。
ルリタテハは動揺がなくなった水面に自身の顔を向けてみた。鏡のような水面には先ほど殺した雌の顔が映っていた。想像していたよりも若い顔――意思の強そうな太い眉、猫のように額が狭く、そして猫のような大きくて少し釣り上がり気味の目、がっちりした野生動物の鼻と顎、衆目を惹きつけるような美しさとは縁遠だがどこか愛嬌のある顔立ち。
ややぼってりした下唇に力を込めると、水の中に映る影もゆっくりと顔を歪めた。
ルリタテハは視線を胸元へ移す。パピオ・アヌビスの左乳房は月のクレーターみたいに大きく陥没していた。かつて機械軍の砲弾を受けた時の痕だ。ルリタテハの『耳喰らい』は古傷をもトレースする(なるほどね、これが裸を見られたくない理由かあwww)。
パピオ・アヌビスの屍骸はまだルリタテハの腕に抱かれていた。ルリタテハは音を立てないようゆっくりとパピオ=オリジナルの屍骸を水に沈めた。屍骸はジョン・エヴァレット・ミレーの『オフィーリア』のように仰向けのまましばらく水上をたゆたっていたが、何か、突然、引き込まれるように【ちゃぽん】と水の中へ沈んで消えた。