ルリタテハの悪夢
……ごぼり
……ごぼ、ごぼ。
ルリタテハは眠る。眠り、夢見る。胎児のように、愚者のように、死者のように。
眠り、それは仮初の生、もしくは仮初の死。
己は生きているのか? と尋ねる。
ああ、生きているよ、間違いなくねwww と答えが返ってくる。
己は死んでいるのか? と尋ねる。
死んでるよ、確実にねwww と答えが返ってくる。
己は夢でも見ているのか? と尋ねる。
きっと悪い夢でも見ているのさwww と答えが返ってくる。
本当に?
本当さwww
そうか。
そうだねwww
……………
…………
………
……ルリタテハの夢。それは斬り堕とされたばかりの豚の首みたいな、まだ血の通った、生々しい、しかしすでに終わった、死んだ、意味のない過去の切抜、もしくは暗鬱な物騙り。ルリタテハは夢の中で見、聴き、触れ、感じ、味わう……。真っ赤な血に濡れた臓物の重くしっとりとした感触、甘ったるい蜜のような血の香や味、日の光を弾く白い清浄な皮膚の輝き、鼓膜を【塵々】と引っかく嬌声……。
夢の中で五感は覚醒時と同じか、下手をするとそれ以上に研ぎ澄まされているため、ルリタテハは夢の中で『これは夢だ』という確信を抱くことが出来ない。平時にはちゃんと押さえ込まれているはずの不安や恐怖が夢の中で色鮮やかに蘇る。様々な情欲に翻弄されるルリタテハの精神活動は、蝶の、空で溺れているような必死の飛翔に似ている。
以前は夢を見ることが恐ろしくて堪らなかった。次々と打ち上げられる花火のように、たくさんの生命が爆ぜて、消える、そんな夢。それは美しくもおぞましい光景。
しかしそれ以上にルリタテハが恐れたのは『姉さん』だった。ルリタテハの夢には必ず『姉さん』が現れた。強すぎる憎しみと、怒りと、悲しみのためにかえって平板な、冷たい顔をした『姉さん』を見る度に辛くて嘔吐しそうになった。
脳ホルモンを調整して眠りを拒絶することは簡単だった。一時、ルリタテハは夢の中の『姉さん』を恐れて何百時間も眠らずにいたこともあった。しかし今もう、そんなことはしない。
『姉さん』が死んでしまった今となっては、夢の中でしか『姉さん』と会うことができない。夢の中で『姉さん』に会うこと、軽蔑されること、憎しみの篭った涙目で睨みつけられること、面罵されること、心を傷つけられること、それにじっと耐えること、それが愛する『姉さん』を殺してしまったルリタテハに出来る唯一の贖罪だった。
ある日、こんな夢を見た。
ルリタテハは廃墟の中にいた。廃墟――疥癬のように渇いてひび割れたアスファルト。白骨化した高層建築物、朽ちた墓標のような高層建築物、あちらこちらで廃車が塔のようにうず高く積み上げられている。
真夏の強い日差しが、まるでルリタテハの罪を暴こうとでもいうように容赦なく照りつけた。ルリタテハの厳つい雄の顔から吹き出した汗が滴り堕ちて、アスファルトのひび割れた路面にいくつもの黒い染みを作った。
見上げると空は透き通った黒色をしていた。金属を燃焼させたみたいな、冴えた緑の太陽は今にも堕ちてきそうだ。
これは夢だ、と思う、夢の中でそう確信している。しかしこの皮膚を焦がすかのような強い日の光はどうだ。沸騰した空気が肺の中でむわっと広がる。汗の【塗々】した不快な感触。これが幻日なら、どうやって現実と区別すればいいんだ?
この時、ルリタテハの、雄らしい立派な喉仏がごくりと動いた。ひどく喉が渇いていた。新鮮で、冷えていて、喉をすべらかに通り過ぎ、そして体に篭った暗い熱を追い払い、渇いた身体を隈なく潤すもの、と、そこでルリタテハは氷がたっぷり入っていてグラスに冷たい汗をかいているレモネードを思い浮かべた。思い浮かべてから後悔した。渇きが強まったからだ。
ルリタテハは知らず知らずにうちに俯き気味になっていた顔をゆっくりと持ち上げた。
眼の前には『花畑』が広がっていた。色鮮やかな血と肉と骨の、猿の死骸で作られた『花畑』。強い日差しに炙られ、死骸から独特の酸味の混じった甘ったるく粘っこい血と臓物の匂いが【溶々】とあふれ出していた。ルリタテハは南国の果樹園のような、いや、それよりももっときつい血肉の甘過ぎる香りに頭痛がした。
遠くで【弾・弾・弾……】銃声が聞こえた。海水浴にぴったりの陽気の下で、陰気な機械兵士達がかつての主を狩って回っているのだ。
「……死苦、死苦、死苦……」
断続的に響く銃声に混じって近くで小さな鳴き声がした。声のする方を見やると、一匹の子猿が親猿にすがって鳴いている。親猿は動かない。親猿の、銃創と思われる腹部の傷からは透き通った桃色の内容物が玉状になって溢れ出ていた。何の呵責もなく、一切の仮借もなく放たれた純粋な鉄の暴力によって不意に芽吹いた桃色の花、その形状は球状の個性的な花を咲かせるアリウム・ギガンチウムのよう。黒天の下に咲く一輪の可憐な花、そこから噴き出す濃『蜜』な花香に誘われて一匹のよく肥えた蝿がやってきて濡れた『花』に留まった。蠅の大きな腹には死神の髑髏のような白い斑紋があった。
……子猿がどんなに揺り動かそうと親猿は目覚めない。目覚めないことを子猿は理解していない、幼過ぎるのだ。
それは戦場ではありふれた光景だった。機械達にとって猿は駆除されるべき害獣だった。やがてあの子猿も機械兵士に見つかって始末されるだろう。
ルリタテハは何も考えないようにした。戦場では感情も感傷は無意味だった。己は何も感じない、とルリタテハは思った。己は血と肉で出来た兵器だ。戦車が敵を無目的に踏み砕いたとしても、戦闘機が機銃掃射で地上の非戦闘員を【頭陀頭陀】に引き裂いたとしても、彼らは何も感じない。痛みも、悲しみも、ない。己も彼らと同じだ。何も感じない。何も感じない。何も感じな……、
「(うそつき)」
『姉さん』の声がした。その声がルリタテハの固く凍った心の湖面に一石を投じた。ルリタテハは背に幾筋もの冷たい汗が流れるのを感じた。視線を下方に移すといつの間にか右手が細かく震えていた。ルリタテハは反射的に左手で右手を制した。どんなに左手に力を込めようと右手の震えは止まらない。自分の手ではなくなったみたいだ。制御できない肉体の一部にルリタテハは戦慄を覚えた。
視界の隅では子猿は何とか親猿に起きてもらおうと賢明に親猿の身体を揺すぶっていた。揺さぶれば揺さぶるほど、親猿の腹から血が溢れて路面へ広がっていく。子猿の甲高い鳴き声がいよいよ強くなる。
黙ってくれ、とルリタテハは強く思う。ルリタテハの心の叫びは当然、子猿には届かない。
「(殺せばいいんだよwww)」
どこかでリーフィッシュの声がした。
そうだ、とルリタテハは思った。戦車のように、戦闘機のように、己は目の前の子猿を殺すことができる。蚊とか、ゴキブリとか、そういった害虫を殺すのと同じだ。べちゃん、それで終わる。それで静かになる。
ルリタテハは拳銃を構えるように、右人差し指を子猿に向けた。右手はまだ震えている。左手で固定してもまだ震えている。ルリタテハは無抵抗な者を殺すことに慣れていなかったのだ。
「(うそつき)」
また姉さんの声がした。
「……死苦、死苦、死苦……」
子猿の鳴き声。
「(早く殺っちゃいなよwww)」
リーフィッシュの声。声、声、声……。様々な声がルリタテハの耳元で囁く。
「(黙ってくれ!)」
ルリタテハはいつの間にか真っ赤な湖の上に立っていた。親猿の血がアスファルトの路面に広がって出来た血の湖……。ルリタテハは屈むと足元を浸す血の湖から何かをすくい上げた。血に濡れた白い欠片。それは切り飛ばされた親猿の右耳である。
ルリタテハはその耳を口の中に放り込んだ。血に濡れた猿の耳が舌先に触れる。強い酸味と爽やかな苦みがあった。まるでスタールビーグレープのような味。耳片を奥歯で噛むと『カチリ』と何か、スイッチが入ったような音が頭の中で響いた。
【滅棄滅棄】【破棄破棄】――骨が、肉が組み変わる音。それは小鳥を力任せに踏み砕いた時の音に似ている。
異変。ルリタテハの身体に異変が起こった。ルリタテハは体を折り曲げた。まるで皮膚一枚下に別の生物が棲んでいるかのように、ルリタテハの背が大きく膨らみ、そして蠢いている。
【ピリリ】――薄い皮膜が破ける音。もしくは世界の理が裂ける音。
ルリタテハの膨らんだ背を引き裂いて現れたモノ、それは新しい、完全に、完璧に生まれ変わったルリタテハだった。そう、ルリタテハは『羽化』したのだ、まるで蛹から成虫に脱皮、変態する蝶のように。
ルリタテハは日の光を反射する血だまりに顔を映してみる。赤い鏡面には子猿が必死に目覚めさせようとしている親猿の顔がそこにあった。
ルリタテハは子猿に声をかける。子猿は顔を上げる。ぱっと顔が明るくなる。子猿の濡れた大きな瞳には愛してやまない親猿の姿が映っていた。ルリタテハは、自分の心が音を立てて軋むのをありありと感じた。この心の軋みは、慄きは、無垢な子供を欺くことへの罪悪感によるものなのか? それとも弱者を食い物にする悪魔の歪んだ悦びなのだろうか?
子猿は何の迷いもなく親猿(=ルリタテハ)の胸の中へ飛び込んできた。ルリタテハは飛んできたボールを受け止めるみたいに、ほとんど反射的に子猿を受け止めた。ルリタテハは子猿の乳くさい頭に顔をうずめ、なめらかな髪をなでてやる。
何故こんなことをしているのだろうとルリタテハは思った。ルリタテハはあの鬱陶しい鳴き声を速やかに止めたかった、ただそれだけ。だったら殺せばよかったのだ(「そうそうwww」)。何故そうしなかった? 何故? 何故?
子猿から親を奪うだけでは飽き足らず、その親に化けて子猿の心を弄んでいる。ルリタテハは強烈な自己嫌悪を覚えつつも、子猿の身体から離れられない。子猿を強く抱き締めると、子猿の涙で濡れた頬の感触が、熱い体温が、早い鼓動が、ルリタテハの身体の隅々にまで染み渡る。とても心地いい、ずっとこうしていたいとルリタテハは思った。
今更ながらルリタテハは気がついた(大切なことは後になって気づくのだ)。ルリタテハの中にある癒しがたい『渇き』は身体の渇きではなく、心の渇きだったのだ。
ルリタテハは『機関《Organ》』の新型殺戮兵器として生まれた。『機関』の、ルリタテハに対する扱いは戦車や戦闘機と同じだった。有用であれば重宝し、そうでなければ廃棄する。それだけ。
ルリタテハは死を恐れなかったが、不要の烙印を押され、組織から見捨てられ、自分の居場所がなくなることを、かろうじて手中にあるものがあっけなく失われることを恐れた。
如何なる痛苦も労苦も報われることのない、機関の道具としての孤独な戦いにルリタテハは心底うんざりしていた。
何故、兵器に心などあるのだ、ルリタテハはいつもそう思った。『心』があるから苦しみがあるのだ。『心』なんてなければいいのに。
しかしそう思う一方で誰かに自分という存在を、自分の抱えている怒りや憎しみや悲しみを、自分の本当の『心』を誰かに認めてもらいたかった。
……………
…………
………
……こうして子猿を全身で感じていると孤独が癒されるような気がする。この瞬間、子猿は確実に、切実に親猿の姿をしたルリタテハを必要としている。自己の存在を無条件に認めてくれる子猿がルリタテハに不思議な安息を与えた。
「(ずっとこうしていたい。この子を守りたい)」
ルリタテハはそう切に願った。
子猿が心持、背伸びしてルリタテハの耳元に小さな口を近づける。子猿の柔らかい、熱い、早い吐息を感じる。そして、
「(うそつき)」
耳元で『姉さん』の囁く声がした。ルリタテハは恐る恐る子猿を体から引き剥がした。子猿がゆっくりと顔を上げる。10歳前後の少女の顔。大きな目は水を張り詰めたように濡れていた。ルリタテハを弾劾する冷えた瞳。ルリタテハの体が強張る。
「(姉さん……)」
『姉さん』がゆっくりと口を開く。前歯が二本、欠けているのが見えた。『姉さん』が何かを言おうとしている。ルリタテハは貪るように『姉さん』の口を見た。どんなに罵倒されてもよかった。ただ『姉さん』の生の声を聞きたかった。
だがそこで突然、姉さんの身体から力が失われる。手の器で掬った水が指の隙間から零れ堕ちていくように、姉さんの小さな身体がゆっくりとルリタテハから離れていく。
途端に強烈が恐怖心がルリタテハを襲った。血が一気に冷え切り、眩暈がした。ルリタテハの手は『姉さん』の血で真っ赤に染まっていた。
「ダメダメ、ちゃんと殺さないと。猿に感情移入するのは君の悪い癖だよ、ルリタテハ。猿は基本、みな殺しだよwww」
能面のような笑顔で現れたリーフィッシュにルリタテハは怒りと憎しみと嫌悪感が沸き起こった。お前、姉さんを殺したな、と言う前に、
「わお、怖い顔。そんなに僕が憎いのかいwww」
ルリタテハはとっさに手で顔を抑えた。
「僕が憎いのかい? 憎いんだね」
とリーフィッシュは言った。
「だったら憎んでくれて結構だよ。いくらでも憎んでくれていいし、なんなら僕を殺してくれてもいい。うん、君に殺されるならそれも悪くないwww」
リーフィッシュは『あの時』と同じ笑顔で、『あの時』と同じ言葉を吐いた。絶叫とともに掴みかかりたい激情をルリタテハは抑え込んだ。リーフィッシュにだけは自分の『心』を一片たりとも知られたくなかった、理解されたくなかった、触れられたくなかった。何一つリーフィッシュの思い通りになどするものか、という強い反抗心がルリタテハの激情をぐっと抑え込んだ。顔を抑えた手の中で、右まぶただけが蝶の羽ばたきのように激しく痙攣していた。が、やがて収まった。
倒壊した超高層建築物の林のずっとずっと向こうに一本の巨大な、黒い背骨が突き立っていた。どうやら黒い背骨がこの世界を支えているようだった。