瞼の裏側
私は田舎の生まれで、山々に囲まれた盆地に住んでいた。
物心ついた頃には両親はいなくて、両親について尋ねても、祖父母は決まって話をはぐらかしていた。
ただ、
「その代わり、山には入るなよ。」
それだけは念押しされて。
何かあったのかもしれないけれど、気づけばそれを当然のものとして自然に受け入れていた。
それでも優しい祖父母の下でそれなりに楽しい生活をしていたと思う。
冷房なんてものはないから、蒸し暑くなる朝には自然と目を覚まして、今日も蚊に刺されたと掻きむしってかゆみを慰めた。
2階の自室からリビングに降りると祖母が朝食を用意してくれていて、ご飯に具沢山の味噌汁。それに、魚の干物と自家製の漬物まで用意されていた。
祖父は定位置の座椅子に座り、新聞をぼーっと読んでいた。
いつもと同じ、これが日常だった。
「いってらっしゃい。」
朝食を済ませたら、小学校へと向かう。
広がる田園風景には細々とした畦道を除けば主要な道は数えるほどしかない。
景色を阻む高層ビルやマンションなんてものもないから、学校への一本道を進めば自然とひた歩く友達の後ろ姿が見えてくる。
「一緒に学校行こうっ!!」
学校は学び、遊び、そして世間話をする井戸端会議の場だ。
毎日がいつものことで溢れていて皆も暇を持て余しているんだと思う。少しでも違和感があればすぐに広まって、ちょっとしたお祭り騒ぎになる。
「次の日曜日、お父さんとお出かけするんだ、いいだろー。」「えーずるーい。」
「あいつお昼休みに廃校舎のトイレでうんちしてたぞ。」「うわ、うんちマンだ!ハハハ」
「社会の教科書◯◯くん、忘れたって。貸してあげたら。」「貸したら、また遊んでくれるかな。」
ただ、そんな日々に私は飽き飽きしていた。
毎日の生活、同じ食事に同じ道。たわいない話に。友達と走ってゲームして遊ぶことに。その全てが惰性に感じてゆく。
楽しかったはずの時間は、次第にゆっくり、ゆっくりと流れるようになった。見つめる時計の針まで退屈しているように思えた。
そんな退屈を持て余していた、ある日の帰り道だった。
夕焼けに照らされた一本の帰り道はそのまま遠くに望む山道の入口までを照らし、同じように私の影がその先へと伸びていた。
歩くほどに影は背を伸ばし山へと続いてゆく。
これはただの勘違いだったんだろうか。
影が進むべき道を指し示しているように見えたんだ。
何かが変わる気がした。あの時はそう思っていた。
祖父母に止められていたことは覚えていた。けれど、少し覗き見るだけなら…。あの時は、そう自分に言い聞かせて山へと向かったんだ。
爽やかな風が木々の枝葉を揺らし、その擦れ合う音に、時折、鳥のさえずりが交じった。
「なんでだろう。すごく気持ちがいい。」
「これって学校で習った針葉樹林だろうか。」
山には木々が生い茂っていた。
ちょっとやそっと木登りした程度では届かないような高い位置に枝葉が伸びていて、木々の壮大さに心を奪われた。
山の奥を見渡すと、以前は整備されていたであろう材木やロープで作られた手すりの痕跡が残っていたが、今は朽ち果て獣道へと様相を変えていた。
まずは以前は山道であったであろう道なき道を進むことにした。
数十分ほど歩いただろうか。
しばらく歩いても変わらぬ景色に、ふと立ち止まり考え込んでしまう。
本当にいいんだろうか。大丈夫だろうか。
言いしれぬ不安と期待感が頭をよぎり息が荒くなる。
「はぁ、ふぅ…。」
けれど約束を破ってここまで来たのになんの成果もなしに帰る気にはなれなかった。
「違う。これは慣れない山登りをしたから息が切れただけ。」
そう自分に言い聞かせ、道の先を望む。
ふと視線を向けた先、人が整備したであろう痕跡が途絶えているのが見えた。
その終着点には、手すりに使われていたものと似ているが、一回りも二回りも太いロープが、何本もの木を縫うように括り付けられていた。 ロープは今までとは違い、ところどころに薄汚れた紙切れが垂れ下がっていた。近くには大きな看板のようなものもあったが読み取ることはできなかった。
景色の変化に、ここが終点なんだと嬉々として足を運ぶ。
「ちぇ。何にもないのか。」
わかりやすい何かがほしかった。
ロープが括り付けられた大量の木々に何も思わないわけではなかったけれど、幼少の私にはなんら期待に沿うようなものではなかった。
「せっかくここまで来たのに…。」
だからこそ諦めきれなかった。
「ちょっとだけ…。」
辺りを調べたらなにかあるかもしれない。
ここで何もなければ帰ろう。そう言い訳じみた決意を固めて木々の間のロープをくぐり抜け、探索を再開した。
「あれ…?」
突然、音が途絶えた。
まるで自分の耳がおかしくなったと錯覚するほどに、鳥の声も枝葉の擦れる音さえも聞こえなくなった。
聞こえるのは、自分の足音と、急な変化に早まる私の心拍の音だけだった。
自分の足音がいやに響いて聞こえる。
ザッ
なにか物音がした?振り返るが何もない。
何かあってほしかったんだろうか。何もなくて安心したんだろうか。
心細くなってきた。
近くにあった木の枝を握りしめる。流石に帰ろう。
これだけの大冒険、友達にも自慢できるだろう。
来た道を引き返すことにした。
ロープをくぐり抜ける。
すると突然光が差した。
夕暮れ時の森の中、木漏れ日の明かりだけを頼りに歩いてきたはずなのに、まるで自動車のライトにでも照らされたかのような突然の明るさに驚く。
変化は明るさだけにとどまらない。
「あれ、こんな道だったっけ。」
来た道と帰り道で見え方が変わるからだろうか。これが正常なのか異常なのかがわからない。
「道に迷っ…」
いや、違う。大丈夫。ここからまっすぐ降りればいいんだ。そう言い聞かせる。
そう思ったのも束の間。道が二本に枝分かれしていた。登っていたから気づかなかったんだろうか。分岐の真ん中には大きな看板があり、何かを差し示しているようだった。
「たしか看板が…来たときに右に、あれ?左だっけ、えっと…帰るときも右にあればいいのかな。」
悩みはしたが今の状況に浸るのが怖くなってきた。
早く帰ろう。ここにいちゃいけない気がする。
早歩きで道を進むと、途中から舗装された道路とつながり、拓けた場所に出た。
「え、道間違えた…。」
道路の先、斜面を削ってできたであろうトンネルを見つける。
トンネルの先は見通せなかったが、何故かとても明るかった。
瞬きをすると時折、光の中に自分の見知った家や田園風景が見えた気がした。
「やった!近道だ!」
突然降って湧いた一縷の希望に縋り、トンネルの向こうへと駆け出す。
一歩踏み込んだ途端、耳の奥に冷たい水が入ったような感覚がした。
「ね、だから言ったでしょ。入っちゃダメだって。」
突然のことに足を止め、周囲を見渡す。
「だ、誰かいるの?」
声が反響する。
どこか聞き覚えのあるような気がしたが、誰も見当たらない。
「そんなこと言っても。」
「あら、かわいいわねぇ、よちよち~。」
声は止まなかった。
咄嗟に耳をふさぐが、声は頭の中にまで響いてくる。
「子どもはどうするのよ。」
「なぁ、やっぱりここでの暮らしは…。」
心臓が高鳴る。異変が自覚となって体に現れる。
「戻ってもいいんだよ。」
「私にはちょっときついよ。」
心が揺さぶられる。頭がまっしろになる。
「いってらっしゃい。」
「うわぁぁああああああああああ!!!」
自分の絶叫が反響する。
え?は?何?どこから、今なんて?どうして?怖い。
耳をふさいでも響いてくる。どうしたらいいの、ねぇなんで。
早く遠ざからないと。怖い怖い。夢?これって何?罰?約束破ったから?
誰か!怖い!!怖い!怖いよ!!許して!もうしないから。
走る。とにかく走る。耳を塞ぎ、目を塞ぎ、全てに現実逃避してひた走る。
次第に塞いだ瞳にもつんざくほどの鋭い光が視界を覆う。
「出口だ!!」
そう思ったときには身体は宙を舞っていた。
目を覚ますとベッドで寝ていた。
「斜面を滑って転んだか、崖から落ちでもしたんだろう。」
その時、打ちどころが悪く、片目にひどい怪我を負ったのだと説明された。
夜になっても帰ってこないからと祖父母が探してくれていたようだ。
それから山へ向かう姿を友達が見ていたようで、急遽祖父母が村の大人たちを集めて、総出で山を捜してくれたらしい。
その後祖父にはしこたま殴られ、祖母は小言を並べながら、ずっと泣いていた。
それにひどく安心して、そしてひどく泣いた。
山は立入禁止として定められ、看板が設置されたという。
それが、私が片目を失った日の記憶だ。
あれから二十年が過ぎた。
私は山から逃げるように故郷を離れ、今は都会で暮らしている。
都会の暮らしに苦労しつつもなんとか生活できていた。
今では結婚し、まだ小さいが子どもも一人いる。
片目を失っても日常生活に大きな問題はなかった。
だがここ最近、その目が痛むことがある。痛みに瞼を閉じると、瞼の奥に見知らぬ景色がフラッシュバックすることがあった。
見知らぬ景色の中から、声まで聞こえるような気がして、それに懐かしさを感じているが何故だろう。そんな事、前にもあったかな。仕事の疲れだろうか。
普通に考えると、まだ目が見えていた頃の田舎の風景なんだろう。でもあまり覚えがないんだよな。
ある時、遺品整理をするようにと親戚のおじから連絡が来た。
本当なら祖父母を見送った後にすぐやるべきだったんだろうけど、あまりいい思い出のない故郷に帰る気になれず今まで放置してしまっていた。
「せっかくだ。家族も連れて行こうか。」
ちょうどいいと久々に長期休暇を取り、帰省することに決めた。
子どもを連れての初めての旅行。
とはいえ祖父母のいない古びた実家の整理整頓というタスク付きだが。
実家に着いた。
着いて早速だが、田舎は挨拶回りが基本だ。
久しぶりに帰った私自身と、村人には初対面となる妻子の顔を見せておく必要もある。
妻が息子をあやしながら言った。
「かわいいわねぇ、よちよち~。」
「それじゃ、早速で申し訳ないけどご近所さんに挨拶に行こうか。」
「そうね。私もご近所さんに挨拶しておきたいし。」
皆、思った以上に快く今回の帰省を受け入れてくれた。
子どもも少ないからだろうか。息子の顔を見せると皆、笑顔で接してくれた。
「祖父母のことは残念だったね。」
亡くなったのはしばらく前のことだったが、それでもお悔やみの言葉をかけてくれた。
そのことに、とても愛されていたんだなと実感することができて、少しだけ涙ぐんでしまった。
すると最近、近隣との移動をしやすくするよう道路工事が進んでいるとの話を聞いた。
「ここは山に囲まれてるからね。帰ってくるのも大変だったでしょう。」
「だからかしらね、山をくり抜いて道を作ってるんだって。」
「でもね、あの辺りもまだ整備中で危ないから気をつけてね。」
「そうなんですね、気をつけます。」
「うっ。」
また片目に少し痛みを感じた。
実家に戻り、遺品整理を進めているうちに、辺りは夕焼けに染まり始めていた。
外がにわかに騒がしくなり、様子を見に出ると、近所の人から、子どもが一人行方不明になったと聞かされた。
そして聞くところによると山へ向かっていく姿を見た人がいるとのことで、今捜索のために人員を集めているようだった。
妻に捜索に参加すると伝えた。
「え!?行くの。子どもはどうするのよ。」
「そんなこと言っても、私も昔助けられたんだ。行くしかないよ。」
慣れぬ土地で初めてのことばかりで心細いのだろう。
「一人は、私にはちょっときついよ。」
「大丈夫、すぐ戻るから。約束する。」
「…。早く戻ってきてね。いってらっしゃい。」
また片目に痛みを感じて少し視界がぼやけたような気がした。
私は捜索に集まった村の大人たちと山へ向かった。
山道は工事の影響か整備されていて、通り道の木々は切り倒されていた。
山を登り始めてしばらくして目の痛みが強くなってきた。
痛みでめまいがしてしゃがみ込んでしまう。
痛みに瞼を閉じていると次第に景色が浮かび上がってくる。
景色はいつも見ていた光景とは少し異なり、全体が黒く染まり、何やら人や車が往来しているのが見えた。
「おい、大丈夫か。」
「ああ。」
「ここから先、道も険しくなってくるから、少し休んでくか。」
「ああ…。」
意識も朦朧として、空返事をするので精一杯だった。
「それじゃ、俺らは奥行って探してくるから。そこで待っとけ。」
どうしようもないと判断されたのだろう。急を要する事態だ。当然だ。
切り株に私を座らせ、私以外の捜索隊は先に歩みを進めた。
「ふぅ。まさかこんなことになるとは。迷惑かけちゃったな。」
目を押さえて縮こまり、これ以上迷惑をかけないよう回復に努める。
しばらくして痛みは続いたが慣れてきたのか焦点が合い、目に見える景色がはっきりしだした。
「あれ?こんなのあったっけ?」
辺りを見回していると、来た道とは別に、もう一本の道が見えた。
その道と道の分岐点には大きな看板が立っていた。
あれ、見たことあるような、そうだ。
あの時と一緒だ。だとすると…私はどちらの道を選んだんだっけ。
「ああ、そうだ。いつだって光が道を示してくれたんだ。」
「おい、お前大丈夫か。さすがに一人にはできないから戻ってきたが、どうした?」
頭が痛い。声が響く。
「もう少し声を小さくしてくれ。思い出せそうなんだ。」
「ああ、すまない…。」
「そうだ、あそこに道が…。それにトンネルがあって…。行かなくちゃ。」
「え、トンネル?」
「そう、あそこに。子どもの…め…。」
「子ども?お前本当なんだろうな。」
「俺は元気だ。怖くない。」
「いやちがくて。お前おかしいから、絶対動くなよ。すぐ先行った奴ら呼んでくるから。」
なにかが聞こえた気がした。
けれど、今は急いで子どもを探さないといけない。
自然と行くべき道が分かっていた。光が指し示す先へ。
歩き出すほどに目の痛みがどんどん引いていく。
舗装された道路が見えてきた。
「そうだ、この先にトンネルがあって…。」
拓けた森の道路の先、その終端にドーム型のトンネルの入口が視界に映った。
目を凝らすと、トンネルの先に子どもの姿が見えた。
やっぱり間違ってなかったんだ。
「おーーーーーい!!!」
声をかけるが反応がない。
仕方ないとトンネルに足を踏み入れる。
途端に背後から強い視線を感じて振り返る。
「あれ?トンネルの入口は?」
目の前には濡れた球体のような巨大な壁が突然現れ、鏡のように私の姿を映した。
私の姿を映す大きな黒点の周りには、大量の蚯蚓が這い回っているように見えた。
まるで目のような…。いや、そうだ。目だ。失った目だ。
自分の目と目が合う。
瞬きをする。あれ?瞬きしたのは、自分?
叫び声。
返せ!私の目を返せ!
訴えは自分に跳ね返り自分の中で反響する。あの目が、私の目が、同じことを訴えかけてくる。
響く声も、目の痛みも、目の前の光景も、すべてが混ざり合って思考を溶かしていく。
「いってらっしゃい。」
その日、行方不明者がもう一人増えた。
捜索に参加していた大人だった。
最後に彼を見た村人によれば、「トンネルへ行く」と言い残していたという。
だが、彼が向かった先に、トンネルなど存在しなかった。
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