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義母が新居を義妹に譲り、妊娠5ヶ月の私は家を追い出されました

作者: 熾星
掲載日:2026/08/16


 結婚する前、義父母は私たちに約束していた。

 白庭町にある、評判のいい公立小学校の学区内のマンション。将来はそこに、私と直人、そしていつか生まれてくる子どもが住めばいい、と。

 けれど結婚三年目、夫の妹である真由が離婚した。

 義母は、一本の電話でその約束をなかったことにした。

「真由は一人で子どもを育てなきゃいけないのよ。白庭町のマンションは、しばらくあの子たちに使わせましょう」

 私は言葉を失った。

「でも……あそこは、私たちが住むって話でしたよね?」

 義母の声が、すぐに冷たくなった。

「あなたたちはまだ若いんだから、いくらでもやり直せるでしょう。今は真由のほうが困ってるのよ」

 私は反射的に、隣にいた夫を見た。

 直人は数秒黙ったあと、私と目を合わせないまま言った。

「とりあえず真由に使わせよう」

「俺の妹なんだし、今は本当に大変なんだから」

 あのときの私は、まだ知らなかった。

 マンションのことなど、ほんの始まりにすぎなかったことを。

1

 結婚して三年。私は、自分なりに相沢家を大切にしてきたつもりだった。季節の贈り物は欠かさず用意し、義父母が体調を崩せば病院にも付き添った。直人の仕事が忙しいぶん、家のこともほとんど私が引き受けていた。

 真由が最初の結婚で悩んでいたときには、夜中まで電話に付き合ったことも何度もある。

 何か見返りが欲しかったわけじゃない。

 ただ直人と穏やかに暮らして、いつか子どもを持てたら、それでよかった。

 だから、義父母が改めて白庭町のマンションの話をしてくれたとき、私は心からうれしかった。

 実は結婚二年目、私と直人は小さな中古マンションを買おうとしていた。頭金を出せば貯金の大半はなくなるけれど、二人とも働いている。住宅ローンを組んでも、無理のない範囲で返していけると思っていた。

 ところが、その話を聞いた和子さんが止めたのだ。

「白庭町のマンションは、いずれあなたたち家族に使ってもらうつもりなのよ。わざわざ何十年も住宅ローンを背負う必要ないでしょう?」

「子どもも考えてるんでしょ? お金はそのときのために残しておいたほうがいいわ」

 直人も母親の意見に賛成した。

 結局、私たちは何度も内見したその中古マンションを諦めた。それ以来、私は本気で家を買おうとは考えなくなった。白庭町のマンションが、いずれ私たちの家になるのだと信じていたからだ。

 そこは築年数こそ古かったものの、日当たりのいい3LDKだった。近くには公園や児童館があり、星峰市立白庭小学校もすぐそばにある。大型スーパーまでも歩いて十分ほどだった。

 私はこっそり間取り図まで描いたことがある。

 南向きの部屋は子ども部屋にして、窓際には小さな机を置く。もう一部屋は私と直人の書斎にして、ベランダではミントやアジサイ、育てやすいハーブを少しずつ育てる。

 あの部屋の鍵を受け取る日が、私たちの新しい生活の始まりになると思っていた。

 その夢は、三日ももたなかった。

 真由が離婚した。

 悠斗を連れて実家に戻ってくると、和子さんはほとんど私の意見を聞かないまま、白庭町のマンションを真由親子に使わせると決めた。

「美咲、今は真由が一番住む場所を必要としてるの」

「あなたなら分かってくれるでしょう?」

 私はスマートフォンを握ったまま、しばらく何も言えなかった。

「真由さんを助けたい気持ちは分かります」

「でも、お義母さん。私と直人は、もともと自分たちでマンションを買うつもりだったんです。それをやめたのは、お義母さんが白庭町の部屋を使えばいいって言ってくれたからですよね?」

 電話の向こうが、一瞬静かになった。

「住宅ローンなんて組まなくていい、そのぶん子どものために貯めておきなさいって言ってくれたから、私たちはあのマンションを諦めたんです」

 けれど和子さんの声は、すぐに冷たさを取り戻した。

「そのときは、真由が離婚するなんて思ってなかったもの。事情が変わったんだから仕方ないでしょう?」

「それに、あのマンションはもともと私たちの名義よ。あなたも直人も働いてるんだから、また考えればいいじゃない」

 胸の奥が詰まった。

 言っていること自体は間違っていない。マンションの名義が私たちに移ったわけでもなければ、所有権はずっと義父母にある。

 けれど私がつらかったのは、誰の名義かということではなかった。

 何年も繰り返し聞かされ、その言葉を信じて人生の選択まで変えた約束が、真由が戻ってきただけで、最初から存在しなかったかのように扱われたことだった。

 その夜、真由も義父母の家に来た。

 最初のうちは、元夫が無責任だったとか、結婚生活でどれだけ苦労したとか、悠斗にもつらい思いをさせたとか、泣きながら話していた。

 和子さんは娘を抱きしめて涙を拭き、義父は向かいで深いため息をついていた。直人も妹を慰め続けている。

 食卓の反対側に座る私だけが、まるで部外者だった。

 ところが、しばらくすると真由はもう白庭町のマンションをどう変えるか、楽しそうに話し始めた。

「壁紙、全部替えたいな。今の色、ちょっと古いよね」

「和室もいらなくない? リビングとつなげたら広くなるし」

「キッチンも対面式にできたらいいな。照明も間接照明にしたほうがおしゃれじゃない?」

 さっきまで泣いていた人とは思えないほど楽しそうだった。

 まるで最初から、あの部屋が自分の家だったかのように。

 私は直人を見た。

 視線に気づいた彼は、すぐに目をそらした。

 その瞬間、初めて分かった。

 私が大切に思い描いていた未来は、この人たちにとっては、もっと「困っている人」が現れれば簡単に譲らせていいものだったのだ。

2

 真由が引っ越す日、私は結局手伝いに行った。

 本当は行きたくなかった。けれど朝七時から、和子さんが何度も電話をかけてきたのだ。

「美咲、今日休みでしょう? 早めに来て」

「真由は一人で子どもも見なきゃいけないんだから。美咲さんも少しくらい手伝ってあげて」

 白庭町に着いてすぐ、私は自分が「手伝い」に呼ばれたのではないと気づいた。

 使われるために呼ばれたのだ。

 真由はリビングで引越し業者に指示を出し、和子さんは私に棚を拭け、キッチンを片づけろ、悠斗のおもちゃを整理しろと次々に言いつけた。直人は家具を組み立てていたが、私が腰を伸ばせないほど疲れていても、「もう少しだから」と言うだけだった。

 さらに呆れたのは、真由がもともと置いてあった家具をほとんど替えたがったことだ。

「これ、どれも古すぎるよ。見てるだけで暗い気分になる」

 彼女が指差したのは、部屋の隅にあった古い桐箪笥だった。

「これも処分しようよ」

 それは和子さんが自分の母親から譲り受けたものだった。以前は「思い出があるから捨てられない」と何度も話していた。

 それなのに真由が嫌だと言っただけで、あっさりうなずいた。

「真由はこれから新しい生活を始めるんだもの。気持ちよく住めるようにしたほうがいいわよね」

 そして、和子さんは私に顔を向けた。

「そうだ、美咲。新しい家具、けっこうお金がかかるのよ。あなたたちも少し出してくれない?」

 聞き間違えたのかと思った。

「私たちが、ですか?」

「家族なんだから、助け合うのは普通でしょう?」

 当然のように言う。

 私は直人を見た。

 彼までうなずいた。

「少しくらいいいだろ。金のことでそこまで揉めるなよ」

 私はしばらく彼を見つめた。

「もともと私たちが住むって言われていた部屋を真由さんに譲ることについて、私はもう何も言ってないよね」

「それなのに、どうして真由さんの家具代まで私たちが払うの?」

 直人は面倒そうに眉を寄せた。

「真由、今は金ないんだよ」

「だから、お金がないなら私のお金を使えばいいってこと?」

 リビングが静まり返った。

 真由の表情が強張る。

 和子さんがすぐに口を挟んだ。

「美咲、どうしてそんなに何でも細かく分けるの? 家族なんだから、お金のことでいちいち揉めないでよ」

 結局、その家具代を私は出さなかった。

 けれど家に帰ったあとも、自分に言い聞かせていた。

 真由は離婚したばかりなのだ。

 生活が落ち着けば、きっと元に戻る。

 そう思おうとしていた。

 数日後、私は収納スペースを片づけようとした。

 私と直人は子どもを考え始めていて、友人からもらったベビー用品や、自分で少しずつ買ったものをしまっていた。

 柔らかな小さな服。淡い黄色のブランケット。それから、クリーム色の小さなベビーシューズ。

 まだ妊娠もしていなかったから、たくさん買うことはなかった。

 ただ店で気に入ったものを見つけたときだけ、「いつか本当に赤ちゃんが来たら」と思って少しずつ取っておいた。

 ところが、その日、収納ケースは空になっていた。

 部屋中を探しても見つからない。

 最後に見つけたのは、マンションのゴミ置き場だった。

 小さな服はゴミ袋の下に押し込まれ、ブランケットには汚れがついていた。ベビーシューズは片方しかなく、段ボール箱の横に押しつぶされるように落ちていた。

 私はその場に立ち尽くした。

 あとで直人から聞いた。

 真由が引っ越しの途中で、うちに荷物を取りに来ていたらしい。

 収納スペースが散らかっていると言って、「どうせまだ使わないんだから」と、私のものまでまとめて捨てたのだという。

「どうして止めなかったの?」

 直人は少し気まずそうにした。

「真由も、そんなに大事なものだって知らなかったんだろ」

「大事かどうか知らなかったら、人のものを勝手に捨てていいの?」

 直人は黙った。

 私はもう、言い争う気力さえなくなっていた。

 そのとき初めて、はっきり気づいた。

 真由に奪われたのは、白庭町の住まいだけではない。

 彼女は少しずつ、私の生活そのものに入り込んできている。

 そして、この家の誰も、それをおかしいと思っていなかった。

3

 一週間後、妊娠していることが分かった。

 検査薬の結果を見た瞬間、私は洗面所に座り込んで泣いた。

 悲しかったからではない。

 うれしかったからだ。

 そっとお腹に手を当てると、それまでのごたごたが少しだけ遠くなった気がした。

 近くの産婦人科や保育サービス、自治体の子育て支援について調べ始めた。寝る前には、乳幼児の発達や育児についての記事も読むようになった。

 その中で、星峰市に評判のいい親子教室があることを知った。

 決して安くはなかったけれど、子どもが生まれて少し大きくなったら、余裕があれば通わせてみたいと思った。

 ある日の食事中、私は何気なくその話をした。

「赤ちゃんが少し大きくなったら、親子教室みたいなところに行ってみようかなって思ってるの」

 和子さんの箸が止まった。

「高いの?」

 私が答える前に、真由が口を挟んだ。

「まだ生まれてもないのに、もうそんなこと考えてるの?」

 彼女は味噌汁を一口飲んだ。

「悠斗は来年もう小学生だよ。私はそっちのほうが心配」

 悠斗は今、五歳だった。

 最近の真由は私立小学校や幼児教室の情報ばかり調べていて、いわゆる「お受験」にすっかり夢中になっていた。

 すぐにスマートフォンを取り出して、和子さんに画面を見せる。

「近くにいい幼児教室があるの。一対一でも見てもらえるんだって」

「ちょっと高いんだけどね」

 和子さんはたちまち興味を示した。

「それは今が大事な時期よ。小学校のことはちゃんと考えないと」

 そして私を見た。

「美咲の親子教室は、まだ先でいいでしょう。赤ちゃんはこれからなんだから」

「今は悠斗のほうが大事よ」

 嫌な予感がした。

 案の定、次の言葉が続いた。

「直人と二人で、真由の教室代を少し出してあげたら?」

 私は箸を置いた。

「どうしてですか?」

 和子さんが眉を寄せる。

「どうしてって、悠斗だって家族でしょう?」

「それで?」

「家族なんだから、少しくらい助けてもいいじゃない」

 私はゆっくり手を握りしめた。

「私の子どもはまだ生まれてもいないのに、先に真由さんの子どもの教育費を出すんですか?」

 真由の顔色が変わった。

「美咲さん、その言い方ひどくない?」

 私は彼女を見なかった。

 私が本当に我慢できなくなったのは、その数日後だった。

 真由はうちのソファに寝転び、私が切った果物を食べながら、世間話のような口調で言った。

「美咲さん、子どもが生まれたら、しばらく家にいるんでしょ?」

「そうなると思うけど」

「だったら、そのまま仕事辞めちゃえば?」

 私は顔を上げた。

 真由はごく自然な顔で続けた。

「赤ちゃんの世話もしなきゃいけないし、仕事までしたら大変じゃない?」

「家にいるなら、悠斗の送り迎えも頼めるし。ちょうどいいじゃん」

 一瞬、意味が分からなかった。

「……今、何て言ったの?」

 真由はきょとんとした。

「だから、美咲さんのためにもそのほうがいいんじゃないかって。子どもが小さいうちは、仕事と両立するの大変でしょ?」

 ちょうどそのころ、私の会社では部署の再編が進んでいた。

 上司からは、今のプロジェクトがうまくいけば、次はチームリーダーを任せたいと言われていた。働き始めてから初めて、はっきりと見えてきた昇進の機会だった。

 それを真由は、「どうせ子どもを育てるんだから」の一言で、勝手に諦めさせようとしている。

 腹が立ちすぎて、かえって声が冷静になった。

「つまり、私は仕事を辞めて、自分の子どもを育てながら、ついでに悠斗の送り迎えもするってこと?」

 真由が言葉に詰まった。

「別に、家政婦になれなんて言ってないでしょ」

「何が違うの?」

 私は直人に顔を向けた。

「直人も、そう思ってるの?」

 自分に話が振られるとは思っていなかったのだろう。

 直人はしばらく迷ったあと、口を開いた。

「ただ……子どもが生まれたら、やっぱり家庭のほうが大事になるだろ」

 私は彼を見た。

「どの家庭?」

 直人が固まる。

「お義母さんと真由さんの家庭?」

「それとも、私とあなたと、この子の家庭?」

 食卓が静まり返った。

 私は初めて、飲み込まなかった。

「仕事は辞めない」

「自分の子どものことは、自分で考える」

 そして真由を見た。

「だから悠斗のことは、真由さんが自分で考えて」

 真由の目に、あっという間に涙が浮かんだ。

 和子さんの顔も険しくなる。

 けれど、もう相手をする気はなかった。

「疲れたから、休みます」

 そう言って席を立った。

 あれが、相沢家に対して初めて、はっきり「嫌だ」と言った日だった。

 同時に、直人という人間を初めて正しく見た日でもあった。

 彼は、私が傷ついていることを知らなかったわけではない。

 母親や妹を不機嫌にさせるより、私一人に我慢させたほうが楽だと思っていただけなのだ。

4

 それから私は、本気で自分の逃げ道を考えるようになった。

 我慢していれば、いつか相沢家の人たちも私の気持ちを分かってくれる。そんな期待は、もう持たなかった。

 もしこの結婚が本当に終わったとき、自分と子どもを守るために何ができるのか。

 初めて、現実的に考え始めた。

 私は大学では法学部に通っていた。

 学生のころは法律の仕事に進むことも真剣に考えていたが、卒業後は一般企業に就職した。そのまま仕事を続け、結婚し、いつの間にか昔の夢は遠いものになっていた。

 水城奈緒は大学時代からの親友だ。

 彼女は卒業後、法科大学院に進み、今では弁護士として働いている。

 久しぶりに将来のことを考えていると話すと、奈緒はすぐに励ましたりはしなかった。

「美咲、本気なの?」

「うん」

「だったら、司法試験予備試験を目指してみたら」

 奈緒は少し間を置いた。

「簡単じゃないよ」

「分かってる」

「でも、不可能じゃない」

 私はオンライン講座に申し込んだ。

 昼間は会社で働き、夜は直人が寝たあとに勉強した。妊娠してからは以前よりずっと疲れやすく、ときには教材の文字が滲んで見えるほど目が疲れても、あと一問だけ、あと一ページだけと机に向かった。

 以前は退屈にしか思えなかった法律の条文が、あのころの私には一本の道に見えた。

 まだ、自分の未来は残っている。

 そう思わせてくれる道だった。

 ところが、勉強していることはすぐに真由に知られた。

 ある夜、書斎で問題を解いていると、突然ドアが開いた。

 真由が、私がリビングに置き忘れた講義資料を持って立っていた。後ろには険しい顔をした和子さんがいる。

「お母さん、やっぱり。最近ずっと部屋にこもってると思ったら、こんなのやってた」

 私は立ち上がった。

「返して」

 和子さんは部屋に入り、机の教材をめくった。

「妊娠してるのに、夜遅くまで起きてこんな勉強してるの?」

「いったい何がしたいの?」

 私は深く息を吸った。

「勉強です」

「将来、試験を受けるために」

 和子さんの顔が露骨に曇った。

「もう母親になるんでしょう? 今さらそんなことしてどうするの」

「直人が働いてるんだから、あなたは子どものことをちゃんとやればいいじゃない」

 真由も横から言う。

「やっぱり美咲さん、もうこの家のことなんてどうでもいいんじゃない?」

 声を聞いた直人までやってきた。

 私は彼を見る。

 しばらく黙っていた直人は、結局こう言った。

「美咲、最近体調もよくないだろ」

「試験のことは、子どもが生まれてからでもいいんじゃないか?」

 呆れを通り越して、笑いそうになった。

「この本は私のもの」

「講座代も自分で払ってる」

「勉強してる時間だって、私自身の時間だよ」

 私は直人を見つめた。

「どうしてみんな、私がいつ働くか、いつ勉強するか、いつ何を諦めるかまで、自分たちが決めていいと思ってるの?」

 和子さんが何か言う前に、私は教材を棚にしまった。

「これから勝手に書斎に入らないでください」

 そう言って、ドアを閉めた。

 しばらくして、つわりがひどくなった。

 健診では体重の増え方があまりよくないと言われ、医師から栄養と休息をきちんと取るよう注意された。

 私は不思議だった。

 葉酸や鉄分のサプリメントも、医師に相談しながら取っていた。栄養補助食品も買っている。

 なのに、最近やけに減りが早い。

 翌日、私はわざと早く帰宅した。

 キッチンには真由がいた。

 私が買っておいた栄養補助のゼリー飲料と、少し値の張る食品を平然と口にしている。

 私を見ても、悪びれる様子すらなかった。

「これ、けっこうおいしいね」

 私は彼女の手から取り返した。

「それ、私のなんだけど」

 真由は眉を寄せた。

「ちょっとくらいいいじゃん」

「食べたいなら自分で買って」

 怒りで声が震えた。

「妊娠してから、体調を見ながら自分のために買ってるものなの」

 騒ぎを聞きつけて和子さんがやってきた。

 状況を見ても、最初に真由をたしなめることはなかった。

「少しくらい食べたっていいでしょう?」

「家族なんだから、そんなに細かいこと言わなくても」

 私は彼女を見た。

「お義母さん、最近つわりがひどくて、今日も病院で栄養と休息に気をつけるように言われたんです」

「これは自分で買って、体調管理のために置いてるものです」

 和子さんは面倒そうに言った。

「じゃあ、また買えばいいじゃない」

「真由だって最近いろいろ大変なんだから。少しくらい分けてあげればいいでしょう?」

 あまりにも理不尽で、言葉が出なかった。

 相手が真由でさえあれば、私のものはいつの間にか「家族みんなのもの」になるらしい。

 私が譲らないと分かると、真由はすぐに涙ぐんだ。

「お母さん、もういいよ」

「美咲さんは、私と悠斗が戻ってきたこと自体が嫌なんでしょ」

 言いながら涙をこぼす。

 和子さんはたちまち娘をかばった。

 ちょうど物音を聞いた近所の人がドアを開けて様子を見たとき、和子さんは突然私の手をつかんだ。

「美咲、お願いよ」

「真由は離婚したばかりで、ただでさえ傷ついてるの。これ以上責めないであげて」

 私は動けなくなった。

 自分のものを勝手に使わないでほしいと言っただけなのに。

 いつの間に、私が真由をいじめていることになったのだろう。

 私は直人を見た。

 彼はドアのそばに立っていた。

 その顔にあるのは心配でも戸惑いでもなく、ただ疲れと苛立ちだけだった。

「美咲、もういいだろ」

「そんな大ごとにするなよ」

 その瞬間、心の中に残っていた最後の何かが切れた。

 あの人たちは、私の住む場所を欲しがった。

 私のお金を欲しがった。

 私の時間も、仕事も、当然のように差し出させようとした。

 妊娠して、自分の体のために用意したものさえ、真由に分けて当然だと思っている。

 そこでようやく分かった。

 ここにいる限り、私が「今回だけ」と譲ったものには、決して終わりが来ない。

5

 私は少しずつ、身分証明書や銀行口座の資料、これまでの家計の記録を整理し始めた。

 奈緒にも相談した。

「勢いで動かないで」

「まず自分の口座と、大事な書類を守って。証拠になりそうなものも消さないで」

 私はうなずいた。

 今度こそ、家の人間には何も話さなかった。

 離婚を決定的に考えるきっかけになったのは、直人の浮気だった。

 その夜、直人はシャワーを浴びるとすぐ眠った。

 ベッド脇に置かれたスマートフォンの画面が突然光る。

 クレジットカードの利用通知だった。

 場所は星峰駅近くのバー。

 本当なら、彼のスマートフォンに触るつもりなどなかった。

 けれど胸に引っかかるものがあって、私は画面を見た。

 そのあと分かった。

 直人はここ数か月、同じ女性に何度も金を送っていた。

 LINEには、ホテルの予約、プレゼントの話、親密なやり取りが大量に残っていた。

 一つずつ遡るうちに、指先が冷たくなっていった。

 残業。

 接待。

 仕事のストレス。

 全部、嘘だった。

 直人には決まった浮気相手がいた。

 しかも、私たちが一緒に貯めたお金で、その女にプレゼントまで買っていた。

 私は直人を起こした。

「これ、何?」

 スマートフォンを彼の前に置く。

 画面を見た瞬間、直人の顔色が変わった。

 けれど最初に出てきたのは謝罪ではなかった。

「何で勝手に俺のスマホ見てるんだよ」

 一瞬、自分の耳を疑った。

「問題はそこなの?」

「ほかの女とホテルに行って、お金まで使って、それで私がスマホを見たことのほうが問題なの?」

 直人の顔が険しくなる。

「俺がどれだけストレス抱えてるか、お前は分かってんのか?」

「家に帰れば、お前と母さんと真由がいつも揉めてる」

「外で少しくらい息抜きしたっていいだろ」

 私は彼を見つめた。

 目の前にいる男が、ひどく遠い人に見えた。

「息抜き?」

「二人で貯めたお金を使って、別の女と会うことが?」

 証拠になりそうな画面は、その場で保存した。

 私が黙ったことで、直人はむしろ苛立ったらしい。

「美咲、お前最近ほんと面倒くさいよ」

 私は小さく笑った。

「そう」

「じゃあ、ちょうどいいね」

 その夜、直人には別の部屋で寝てもらった。

 翌朝、やはり和子さんがやってきた。

 直人からすでに聞いていたのだろう。

 それでも座って最初に口にしたのは、息子を責める言葉ではなかった。

「男の人が外で一度や二度間違えることくらい、あるでしょう」

 私は黙って彼女を見た。

「それで?」

「最後にはちゃんと家に帰ってきてるじゃない」

 和子さんは眉を寄せた。

「あなた、今は妊娠してるんでしょう? 本当に離婚なんかして、誰が得するの?」

 隣にいた真由まで口を挟んだ。

「お兄ちゃんだって仕事で大変なんだよ」

「外でちょっと遊んだくらいで、そこまで追い詰めなくてもいいじゃん」

 思わず笑ってしまった。

「もう言いたいことは終わった?」

 二人が固まる。

 私は真由を見た。

「真由さん」

「あなたは、もともと私たちが住むことになっていたマンションに住んでる」

「家具代も私たちに出させようとした。悠斗の教室代も出させようとした。私に仕事を辞めて、送り迎えまでさせようとした」

「それで今度は、お兄さんが浮気しても、私が我慢するべきだって?」

 真由の顔から血の気が引いた。

 私は和子さんに視線を移した。

「お義母さんはずっと、家族なんだから少しくらい我慢しろって言ってきましたよね」

「どうして毎回、我慢する側は私なんですか?」

 誰も答えなかった。

 私は立ち上がった。

「もう十分です」

 その日の昼、私は引越し業者を予約した。

 自分の服、本、パソコン、重要な書類をすべて箱に詰めた。

 直人が帰宅したころには、リビングの半分が空になっていた。

 玄関に立った彼が、目を見開く。

「何してるんだよ」

 私は最後の箱にテープを貼った。

「引っ越すの」

「美咲!」

 顔を上げる。

「この家、もういらない」

6

 私が荷物を抱えて実家に戻ると、両親は何も問い詰めなかった。

 母は私の顔を見ると、そのまま客間を片づけに行った。父は怒ってすぐ直人に電話しようとしたけれど、私は止めた。

「お父さん、いいの」

「今回は自分でやるから」

 私はお腹に手を置いた。

「離婚するって決めた」

 二日後、和子さんと真由が実家のマンションまで押しかけてきた。

 建物の下から私の名前を大声で呼んでいる。

「美咲! 出てきなさい!」

「直人の子どもを妊娠してるのに、勝手に出ていくなんてどういうつもりなの!」

 近所の人たちが窓やベランダから様子を見始めた。

 母が怒って下に行こうとしたので、私は止めた。

 そして自分で外へ出た。

「ここは私の両親の家です」

 私は二人をまっすぐ見た。

「すぐ帰ってください」

 和子さんが私を指差した。

「相沢家に嫁いで三年も経つのに、勝手に出ていく気?」

「お腹の子だって相沢家の孫なのよ!」

 私は表情を変えた。

「この子は、まず私の子どもです」

「これ以上ここで大声を出すなら、警察を呼びます」

 和子さんが言葉を失う。

 真由が何か言おうとしたが、私は先に遮った。

「もう直接話すことはありません」

「これから連絡が必要なら、直人から代理人を通してください」

 その夜、直人からメッセージが来た。

【今すぐ戻ってこい】

【離婚したら金も子どもも全部お前のものになるなんて思うなよ】

【本当に裁判沙汰にしたら、お前だって困るぞ】

 私は最後まで読んで、一言だけ返した。

【では、法的な手続きを進めます】

 そのままブロックした。

 翌日、私は正式に奈緒の勤務先とは別の担当弁護士に依頼した。奈緒自身に全部を任せるのではなく、友人としての立場と専門家としての立場を分けたかったからだ。

 直人と浮気相手のLINE、ホテルやカードの利用記録、家計の資料、真由への送金記録。手元にあるものをすべて整理した。

 弁護士は資料を確認してから言った。

「まずは離婚調停を申し立てましょう」

「財産分与や慰謝料、それから今の別居中の婚姻費用についても整理できます」

 そして私のお腹を見た。

「お子さんが生まれたあとの親権や監護、養育費、親子交流についても、今のうちから考えておきましょう」

 私はうなずいた。

 その日から、直人と直接言い争うことは一度もなくなった。

 家庭裁判所から通知が届くと、相沢家はようやく慌て始めた。

 真由はまた実家までやってきて、玄関の前で泣いた。

「美咲さん、調停の書類が届いたの」

「お兄ちゃん、本当に反省してるから。もう一度だけ考えてくれない?」

 私はドアを開けなかった。

 真由は続けた。

「お母さんも最近、体調がよくないの」

「子どもが生まれるのに、本当に離婚するの? 最初から両親が別々でいいの?」

 私はイヤホンをつけた。

 そして司法試験予備試験の講義を再生した。

 外の泣き声はしばらく続いた。

 やがて不満に変わり、最後には小さな悪態に変わった。

 不思議なくらい、心は静かだった。

 私がもう、この人たちを納得させようとしなくなった瞬間から、その声は私を傷つける力を失っていた。

7

 離婚調停は簡単には進まなかった。

 直人は最初、どうしても離婚に同意しなかった。

 浮気は「一時の過ちだった」と繰り返し、これから子どもも生まれるのだから、夫婦としてもう一度考え直すべきだと言った。

 一方で、真由に渡っていた金については、相沢家全員が急に「貸しただけだ」と主張し始めた。

 和子さんは数枚の借用書まで持ち出した。

 そこには、過去三年間、直人が妹の生活費や事業資金として一時的に金を貸しており、真由はいずれ返済する、と書かれていた。

 私の弁護士は書類を見て、ただ一言言った。

「これは確認が必要ですね」

 調停は最終的に不成立となり、離婚訴訟に進んだ。

 そこまで来ると、私はむしろ落ち着いていた。

 直人たちは、「家族だから」「妹に貸しただけ」と言えば、送金の問題など曖昧にできると思っていたのだろう。

 けれど忘れていた。

 お金には記録が残る。

 メッセージにも、記録が残る。

 私たちは、直人の複数の口座から真由へ継続的に送金されていた履歴を提出した。

 合計すれば、決して小さな金額ではなかった。

 中には、私が妊娠したあと、真由が悠斗の幼児教室代をこちらに負担させようとしていた時期の送金も含まれていた。

 さらに、直人と和子さんのLINEにもやり取りが残っていた。

【先に真由に振り込んであげて。今はあの子が大変なんだから】

【美咲には言わなくていい】

【あの子、知ったらまた細かいこと言うでしょう】

【そのうち何とかすればいいわよ】

 そこには、一度として返済期限の話など出てこない。

 真由は途中から、受け取った金は「もう一度仕事を始めるための資金だった」と説明した。

 けれど、それも説得力に欠けた。

 彼女のSNSには、その数年間の生活がかなり詳しく残っていた。

 新作のブランドバッグ。

 高額な美容施術。

 温泉旅行。

 高級レストラン。

 離婚後、短期間で買い替えた大量の家具。

 弁護士が大げさな言葉で責める必要などなかった。

 送金された日と、真由の支出を並べるだけで十分だった。

 彼女の言う「事業資金」が何に消えたのかは、誰の目にも分かった。

 直人はそれでも主張した。

「妹を助けるために、俺が自分の意思で出した金です」

 私の弁護士は静かに答えた。

「妹さんを支援すること自体が問題なのではありません」

「問題なのは、婚姻中に夫婦で築いた預貯金や生活資金から、配偶者に知らせないまま継続して多額の金銭を出していたことです」

 私はそのやり取りを聞いていた。

 そして初めて知った。

 本当に強いものは、大声ではない。

 証拠なのだ。

 さらに決定的だったのは、借用書についてだった。

 相沢家は、かなり以前から存在していた書類だと主張した。

 ところがこちらには、調停の通知が届いたあとに和子さんが直人へ送ったLINEが残っていた。

【今まで真由に渡した分、借用書を書いてもらったほうがいいんじゃない?】

【このままだと美咲に全部持っていかれるわよ】

 その二つのメッセージを見たとき、私は怒りすら感じなかった。

 彼らの言う「昔からの借金」が、いつ作られた話なのか。

 もう誰かが説明する必要さえなかった。

8

 相沢家は、自分たちに不利な流れになっていると気づき始めた。

 和子さんは別の方法を取るようになった。

 ある手続きが終わったあと、突然胸を押さえ、苦しそうに息をし始めたのだ。

「お母さん!」

「また胸が苦しいの?」

 直人と真由が慌てて駆け寄る。

 職員もすぐに休める場所を用意し、救急車を呼ぶか確認した。

 けれど和子さんは受診を拒みながら、何度も私のほうを見ていた。

「この子のせいよ……」

「せっかくの家族を、こんなことにして……」

 私は何も言わなかった。

 本当に体調が悪かったのか。

 それとも、また全員に自分を気遣わせたかっただけなのか。

 もう判断すること自体、どうでもよかった。

 少なくとも、以前の私ならその場で謝り、責任を感じていたはずだ。

 今の私は違った。

 直人と浮気相手の関係についても、もう否定する余地はなかった。

 ホテルの利用記録、LINE、カードの支払いが互いにつながっていた。

 直人も「ただ飲みに行っただけだ」とは言えなくなった。

 私は、かつて自分を怖がらせ、何度も譲らせてきた三人を見た。

 そのとき、ふと気づいた。

 この人たちは、最初からそれほど強かったわけではない。

 私が「家族を壊したくない」と思い続けていたから、私だけが何度も引いていただけだった。

 もう、守らなくていい。

 私はこの家族を、もういらないと思っていた。

9

 手続きが終わりに近づいたころ、直人は初めて真正面から私を見た。

 苛立ちでもなく。

 責めるような目でもない。

 そこにあったのは、焦りだった。

「美咲、本当にここまでしなきゃ駄目なのか?」

 私は数秒黙ってから答えた。

「直人。結婚したばかりのころ、私は本当にあなたとずっと一緒に暮らすつもりだったよ」

 直人の目がわずかに揺れた。

 私は続けた。

「白庭町のマンションを私たちが使えばいいって言われたとき、子ども部屋をどこにするかまで考えてた」

「真由さんが離婚したら、今はあの人のほうが大変だから譲ってくれって言われた」

「私は譲った」

「その次は、家具代を出してって言われた」

「悠斗の教室代も出してって言われた」

「真由さんからは、仕事を辞めて悠斗の送り迎えをしてって言われた」

「妊娠中に自分のために買ったものを使われても、みんな私に我慢しろって言った」

 私は一度言葉を切った。

「そのたびに、自分に言い聞かせてた」

「家族なんだから、これくらい我慢すればいいって」

 直人の顔から、少しずつ色が失われていく。

「でも、あなたは?」

「私がどれだけ嫌だったか、どれだけ傷ついてたか、全部知ってたよね」

「それでも一度も、私の側に立たなかった」

「最後には、二人で貯めたお金を使って、別の女と会ってた」

 直人が口を開いた。

「俺は……」

 私は最後まで言わせなかった。

「私が一番傷ついたのは、浮気そのものじゃない」

「何かを選ばなきゃいけないたびに、あなたはいつも、私なら我慢してくれると思った」

「だから毎回、切り捨てるのは私だった」

 直人はうつむいた。

 私は真由にも目を向けた。

「真由さん。あなたの人生がうまくいかなかったことは、私の責任じゃない」

「離婚したとき、私はあなたに同情した」

「子どもを抱えて大変なら、できる範囲で助けたいとも思ってた」

「でも、だからといって、私の住む場所も、お金も、時間も、仕事も、人生まで差し出す義務はない」

 真由の目が潤んだ。

 私は止めなかった。

「白庭町に住み始めて、私が子どものために用意したものまで勝手に捨てた」

「お兄さんから内緒で送ってもらったお金で、バッグを買って、旅行して、部屋まで好きに変えた」

「それなのに問題になったら、今度は『家族に助けてもらっただけ』って言うの?」

 私は真由を見た。

「自分の生活は、自分で引き受けて」

 最後に和子さんを見る。

「お義母さんは、ずっと『家族なんだから細かいことを言うな』って言いましたよね」

「でも、この何年か、細かいことを言うことさえ許されなかったのは私だけでした」

 和子さんの唇が動いた。

 私は静かに言った。

「もう、そうはなりません」

 最終的に、離婚は成立した。

 直人は不貞行為に関する慰謝料を支払い、婚姻中に夫婦で築いた財産についても財産分与の手続きを進めた。

 陽翔が生まれたあとは、私が主に監護することになった。直人とは必要な事項を取り決め、養育費についても合意した。

 すべてが決まった日、想像していたような達成感はなかった。

 ただ、体が軽くなった気がした。

 私は家を失ったわけではない。

 自分の人生を削り続けなければ維持できない場所を、ようやく「家ではなかった」と認めただけなのだ。

10

 五年後。

 朝の光がリビングに差し込んでいた。

 私は素足でフローリングを歩き、洗い終えたカップを棚に戻す。ベランダにはアジサイとローズマリーが並び、リビングの隅には絵本やおもちゃが積まれている。

 部屋の奥から陽翔が走ってきて、私の脚に抱きついた。

「ママ、抱っこ」

 私は笑いながら抱き上げた。

「もうお兄ちゃんだから、抱っこしなくていいって言ってなかった?」

 陽翔は真剣に考え込んだ。

「今日はまだ、お兄ちゃんじゃない」

 私は思わず笑った。

 この家は、豪華ではない。

 けれど、初めて心から自分の家だと言える場所だった。

 離婚後、私は旧姓に戻った。

 藤崎美咲。

 あれからも、仕事をしながら勉強を続けた。

 司法試験予備試験に合格し、司法試験を受け、その後は司法修習を終えた。

 弁護士登録を済ませた日、私は事務所の化粧室で一人、しばらく泣いた。

 弁護士という肩書きが華やかだったからではない。

 何年も前、家族が寝静まってから書斎にこもり、教材一冊持っていることさえ責められていた女が、本当にここまで来たからだ。

 今は奈緒と同じ法律事務所で働いている。

 主に離婚や家事事件、それから女性からの相談を扱うことが多い。

 ときどき、相談者が私の前で小さな声で尋ねる。

「私がもう少し我慢すれば、いつか変わるんでしょうか」

 そんな言葉を聞くたび、昔の自分を思い出す。

 その日、仕事を終えてマンションに帰ると、建物の前に見覚えのある人が立っていた。

 真由だった。

 何年も会わないうちに、ずいぶん疲れて見えた。昔のように派手な服は着ておらず、顔にも生活に追われてきた痕跡が残っている。

 私を見つけると、急いで近づいてきた。

「美咲……」

 一瞬ためらう。

 私たちがもう義理の姉妹ではないことを思い出したのだろう。

「……藤崎さん」

 私は足を止めた。

「何か用?」

 真由の目にすぐ涙が浮かんだ。

「また、離婚したの」

 驚きはしなかった。

 二度目の結婚もうまくいかなかったらしい。

 夫婦喧嘩が増え、結局、真由は悠斗を連れて家を出ることになったという。

 悠斗も、もうすぐ中学生になる。

 生活費や学用品、塾代などで余裕がないと、真由は延々と話した。

 そして、ようやく本題に入った。

「美咲……藤崎さん、今けっこう広いところに住んでるよね」

「私と悠斗、少しだけ置いてもらえない?」

 私は彼女を見た。

 真由は慌てて続ける。

「ただで住むつもりじゃないから」

「家事もするし、陽翔の送り迎えだってできるよ」

 その瞬間、あまりにも懐かしい構図に笑いそうになった。

 何年も前。

 真由は相沢家のリビングで泣いていた。

 離婚した。

 子どもを抱えて大変だ。

 行くところがない。

 そう言われて、私は最初の一つを譲った。

 そこから、彼女が欲しがるものは増えていった。

「無理」

 真由が目を見開いた。

「少しだけでいいの」

「無理」

「でも私たち、昔は家族だったじゃない」

 私は思わず笑った。

「昔?」

「真由さん。家族だったころ、私に何をしたか忘れたの?」

 彼女の顔が青ざめた。

「白庭町のマンション」

「私が赤ちゃんのために用意してたもの」

「私のお金」

「私の仕事」

「妊娠中、自分のために買っておいたものまで」

 一つずつ挙げる。

「そのときは、どうして私も家族だって思わなかったの?」

 真由の目から涙がこぼれた。

「私、悪かったと思ってる」

「この何年か、本当に大変だったの」

 私は静かに彼女を見た。

「それは真由さんの人生だよ」

 真由が固まる。

「悠斗はあなたの子ども」

「本当に生活に困ってるなら、市役所に相談すればいい。必要な支援先も教えてもらえるはずだから」

 少し間を置いた。

「でも、もう私にあなたの人生を背負わせないで」

 私は真由の横を通り過ぎ、マンションに入った。

 後ろから抑えた泣き声が聞こえてきた。

 振り返らなかった。

 数日後、直人から電話があった。

 離婚後は、陽翔に関する必要最低限の連絡以外、ほとんどやり取りをしていない。

 彼の声は、昔よりずっと疲れて聞こえた。

「美咲」

「何?」

 しばらく沈黙が続いた。

「母さんが入院した」

 私は黙っていた。

「医者から、あまりよくないって言われてる」

「……お前に会いたいらしい」

 少し意外だった。

「私に?」

「ああ」

 直人の声は低かった。

「昔のこと、いろいろ悪かったって言ってる」

「それと……陽翔にも会いたいって」

 私は数秒黙った。

 頭の中に、何年も前の光景が浮かぶ。

 和子さんが言っていた。

『真由のほうがかわいそうでしょう』

『それくらい我慢しなさい』

『家族なんだから』

 私のものを勝手に使った真由に対して、なぜか私のほうに謝るよう求めてきたこともあった。

「直人」

「うん」

「お義母さんが、私たちに使わせるって言ってたマンションを真由さんに渡したとき、私の気持ちは聞かなかった」

「真由さんが私のものを勝手に使ったときも、我慢しろって言った」

「あなたが浮気したときも、私に我慢しろって言った」

 電話の向こうは静かだった。

「『家族なんだから』って言葉を使って、私にだけ何度も譲らせた」

 私は落ち着いて続けた。

「今、お義母さんが病気だからって、私は喜んだりしない」

「でも、もう一度『嫁』の役割をしに戻るつもりもない」

 直人が苦しそうに言った。

「じゃあ……陽翔は?」

 私はすぐ答えた。

「行かせない」

 直人が黙る。

「陽翔とお義母さんには、ほとんど関係がない」

「陽翔は、あの人の後悔を埋めるためにいるんじゃない」

 私は少し間を置いた。

「あなたのお母さんなんだから、あなたがそばにいてあげて」

 それだけ言って、電話を切った。

 窓辺に立ってもしばらく何も感じなかった。

 悲しくもなかった。

 ただ、遠い昔の話を聞いたような気がした。

 週末、書斎を整理していると、古い箱の底から小さなものが出てきた。

 クリーム色のベビーシューズ。

 私は手を止めた。

 何年も前、真由に捨てられたあの靴だった。

 ゴミ置き場では片方しか見つけられなかったと思っていた。

 もう片方は、いつの間にか自分で古い箱にしまっていたらしい。

 形は少し崩れ、縫い付けられた小さな雲の模様も色褪せていた。

 私は手のひらに乗せた。

 ゴミ置き場に立ち、捨てられたベビー用品を見つめていた昔の自分が、ずいぶん遠く感じられた。

 床に座り、窓から差し込む光を眺めた。

 昔の私は、結婚さえすれば、いい妻でいれば、いい嫁でいれば、少しずつ我慢していれば、きっと穏やかな家庭を作れると思っていた。

 けれど違った。

 一人だけが自分を削り続けなければ成り立たない場所を、家庭とは呼べない。

 あの結婚は、確かに傷を残した。

 同時に、私に初めて教えてくれたこともある。

 譲っていいものと、譲ってはいけないものがある。

 家は、また買える。

 お金も、また働いて稼げる。

 仕事だって、人生だって、やり直せる。

 でも、自分の尊厳と境界線だけは違う。

 自分で守ろうとしなければ、誰かが代わりに守ってくれるとは限らない。

 私は古いベビーシューズを、そっと箱に戻した。

 もう、失敗した結婚の遺物だとは思わなかった。

 あれはただ、思い出させてくれるものだった。

 何度も譲り続けていた藤崎美咲は、もうそこにはいない。

 今なら、誰かが「家族なんだから」と言って私に犠牲を求めてきても、はっきり言える。

 家族は、支え合うものだ。

 けれど誰か一人の人生を、当然の代償として差し出させていい理由にはならない。

――完――


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