9
ミレイユの部屋は、整っていた。
けれど生活の痕跡は確かにあり、そこに彼女の静かな人柄が滲んでいた。
アナスタシアは鍵を閉めて中に入り、カーテンを開けて朝の光を取り込んだ。
机の上には、整えられた文具やノート。その下から、小さな箱が出てきた。
古びたメモの束と、手のひらほどの紙に描かれた、稚拙な絵。
にじんだインク、折れた角、鉛筆で殴り書きのように書かれた言葉。
「きょうは おしろごっこをした」
「なかよしは ないしょのなまえ」
「また おてがみ かくね」
ふいに、胸がつまる。
見覚えがある。けれど――思い出せない。
言葉の断片。絵のタッチ。そこに描かれていたのは、子どもたち――四人。
ミレイユと、自分と……あと二人。
誰だったろう。
顔が、名前が、どうしてもぼやけてしまう。
けれど、これは間違いなく、自分とミレイユの思い出だった。
まるで、それだけは確かなように、記憶の奥がわずかに脈打っていた。
扉をノックする音がしたのは、そのときだった。
アナスタシアが扉を開けると、そこに立っていたのはルカだった。
「早朝の聞き込みを終えて、バルドーと別れました。……気になって」
その手に、埃のついたマントが握られていた。
目の下に薄く疲労が見える。
アナスタシアは無言でうなずくと、ミレイユの机に置いていたものを手に取った。
くたびれたスケッチの一枚――四人の子どもが描かれた紙を、そっと差し出す。
「……これを、彼女の机で見つけたの。たぶん、私とミレイユ。それに……」
ルカは受け取り、目を落とした。
その瞬間、わずかに、表情が揺れた。
まぶたの奥で何かを探すように。
かすかに眉が動き、唇が引き結ばれる。
「……案内できる場所があります」
スケッチと、折りたたまれた古い地図を見下ろしながら、ルカが静かに口を開いた。
「この地図に記されたあたり、僕の家が昔所有していた別荘地です。今はもう人の出入りもなく、忘れ去られているような場所ですが……」
紙の端には、かすれたインクで「なつやすみ」と書かれていた。
アナスタシアは小さくうなずく。
「あなた、知っているのね。あの絵の場所を」
「……ええ。断片ですが、覚えがあります」
彼のまなざしに揺らぎはなく、その確信にアナスタシアは迷わず頷いた。
すぐに馬車が手配された。
アナスタシアの中には不安はなかった。
むしろ、いまこの人と行かねばならない気がしていた。
道中、窓の外には季節の終わりを告げるように色づきかけた木々が流れていく。
小川が見えたとき、アナスタシアはふと呟いた。
「……この川、見たことがある気がする」
「小舟で競争したことがある。水をかぶって、笑いながら怒鳴り合った」
「それは……あなたと?」
ルカは答えず、微笑だけを残した。
会話の端々に、子ども時代の響きが混じっていた。
アナスタシアは少しずつ、思い出の破片に触れていく。
午後を過ぎるころ、馬車は森に囲まれた古びた道へ入っていった。
「このあたりです」
ルカの声に、アナスタシアが目を凝らすと、木立の先に石造りの門が見えた。
蔦に覆われ、ところどころ崩れかけている。
門の奥には、朽ちかけた別荘が姿を現していた。
誰もいない。
けれど、どこか、あたたかい空気が残っていた。
「ここが……」
「昔、夏のあいだだけ子どもたちが集まる場所だったんです。貴族の子も、護衛や侍女の子も、分け隔てなく」
ルカの言葉が、風の音に溶けていく。
アナスタシアはそっと馬車を降り、彼の背について歩き出した。
そして、彼が迷いなく向かった先――
それは別荘の奥、傾いた石垣の先にある、小さな教会だった。
屋根の一部は崩れ、木製の扉は片方だけが開いていた。
けれど、そこに足を踏み入れた瞬間、アナスタシアの胸に強い感覚が走った。
忘れていたはずの空気。
同じ目線で並んだ、子どもたちの笑い声。
夏の陽差しの中、絵を描いていた午後――
あの絵の中にいた、四人。
そのうちのひとりが、ルカだったのだ。
言葉にするまでもなく、アナスタシアはそれを悟った。
彼の背中を見つめながら、思い出が静かに色を取り戻していくのを感じていた。




