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屋敷の門が開くと同時に、待っていたように灯りが増え、玄関前には数人の人影が集まっていた。
アナスタシアが馬車から降り立つと、まず使用人のひとりが駆け寄り、次いで両親が歩み寄ってくる。
その後ろには、縮こまるように立つメアリーの姿もあった。
「お帰りなさいませ!」
「アナスタシア、大丈夫だったか? 遅くまで……」
「ええ、大丈夫。私も、少し情報を得られました」
周囲を囲む人々に向かって、アナスタシアは落ち着いた声で、今夜の出来事を簡潔に報告した。
ミレイユの友人から得た証言と、隣町行きの馬車に乗っていたという情報。
ルカとバルドーが明朝から動くこと。彼らの冷静で的確な対応のことも。
両親は深く頷きながら耳を傾け、父はすでに複数の方面に使いを出していると告げた。
母も、領地の守衛に連絡を取り、万一に備えた捜索の手配を進めているらしい。
そんななか、メアリーがアナスタシアのもとへ近づいてきた。
顔はやつれていたが、瞳には鋼のような決意が宿っている。
「お嬢様……あなたにまで何かあったら、私は――」
アナスタシアが口を開くより早く、メアリーは懐から小さな鍵を取り出した。
「……これを、お渡しします」
「……鍵?」
「ミレイユの部屋の鍵です。緊急時用に私が預かっておりましたが……年頃の娘の部屋に私が入るのは、どうにも気が引けます。
仲のよいお嬢様なら、彼女が隠していたことにも気づけるかもしれません」
メアリーはそっとアナスタシアの手のひらに鍵を握らせた。
その手は冷たく、しかし強く震えていた。
「……ありがとう。すぐにでも行ってみるわ」
アナスタシアが歩き出そうとした瞬間、メアリーが腕を伸ばして彼女の肩を押しとどめた。
「……今ではありません。今夜は、もうお休みください」
「でも……!」
「だめです。目が赤い。指先も冷たい。お嬢様が倒れたら、明日誰が探すのです」
そう言って、いつの間にか用意していた湯気の立つカップを差し出してきた。
「……ホットミルク?」
「温め直しました。ちゃんと飲んで。明かりは……預かります」
メアリーは背後の使用人に一言ささやき、アナスタシアのランプをそっと持っていってしまった。
アナスタシアは抗議しかけたが、その横顔の影に浮かぶメアリーの憔悴を見て、言葉をのみこんだ。
部屋に戻ったアナスタシアは、窓際に座り、白いカップを両手で包む。
暖かさがゆっくりと指先に戻り、まぶたがじわりと重くなっていく。
部屋の隅に、ミレイユの部屋の鍵が小さく光っていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
空はまだ青くなりきらず、街のざわめきも始まっていない。
けれど、アナスタシアはふと目を覚ましていた。
昨夜のホットミルクのぬくもりが、まだ指先に残っている気がした。
眠る前に握っていた小さな鍵は、今も枕元に置いたまま。
指先でそっと触れると、金属の冷たさがしっかりとした実感となって返ってきた。
まだ早い。
それは分かっていたけれど、もう眠る気にはなれなかった。
しんとした部屋の中で、ふと耳を澄ませる。
けれど、いつもの声はどこにもない。
「……おはようございます、お嬢様」
あの明るい挨拶も、
「寝癖がついていますよ」なんて微笑みながらの手つきも、
今朝はどこにもなかった。
アナスタシアは毛布をそっと押しのけ、鍵を手に取る。
小さな、でも確かな重みが、今の自分の気持ちと重なるようだった。
静まり返った屋敷の廊下へ、一歩、足を踏み出した。
「あの子、きっといまごろお腹をすかせているわ」
アナスタシアのためにワゴンに用意されていた食事をとる気になれず、そっと一袋のパンをポケットへしまって廊下を歩く。




