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「ありがとう、タバサ。ごめんなさい、こんな夜更けに押しかけてしまって」
アナスタシアは深く頭を下げた。
ルカとバルドーも静かに礼を述べ、三人はカウンターを離れて出口へと向かった。
ちょうどそのときだった。
暖簾に区切られた奥の半個室から、ひときわ目立つ声が聞こえた。
「――あら」
ふとした気配に振り返ったアナスタシアの視線の先に立っていたのは、町娘の服に身を包んだ若い女性。
深く被ったフードから覗く金色の巻き髪、塗りすぎと言ってもよい紅、まっすぐな背筋と見下ろすような眼差し。
その姿に、アナスタシアは息を呑んだ。
「レティシア・ガーネット……侯爵令嬢?」
「ご名答。ごきげんよう、アナスタシア」
レティシアはまるで舞台に立つ女優のような所作で軽く手を上げた。
その隣にいた男――薄毛の小太りで、年の頃は四十を過ぎているように見える商人風の人物――は、無言のまま彼女の後ろに控えていた。
「な、なぜこんなところに……」
面識こそあれ、まともに言葉を交わしたことなどなかった相手。
侯爵令嬢がこんな下町の酒場に現れること自体、アナスタシアには理解を超えていた。
「そんなことはいいじゃない」
レティシアはにやりと笑った。
その笑みは高飛車で、挑発的で、それでいて――どこか本物の情報屋のような鋭さを帯びていた。
「それより、あなたの大事な子、街の広場で見かけたわよ。昼頃」
「――!」
アナスタシアの目が大きく見開かれる。
「地味な服だったけど、顔に見覚えがあって。あれ、ミレイユって子でしょ?」
「どこで……? どこへ向かったのか、分かりますか?」
「辻馬車に乗り込んでたわ。隣町行きのね。手紙みたいなものを握ってたけど……ま、恋文って顔ではなかったわね。むしろ、使命感? ふふ、可愛らしいこと」
ルカとバルドーが無言で立ち位置を調整する。
警戒こそせずとも、隣町という情報には明らかな反応を示していた。
「どうしてそんなことを教えてくれるの?」
アナスタシアが問い返すと、レティシアはまたふっと笑った。
「気まぐれよ。私ね、あまり退屈なことは嫌いなの。あなたみたいな娘がこんなとこまで来るなんて、面白いじゃない」
そう言って、隣の男にちらりと目配せを送る。男は微笑むでもなく、ただ黙ってうなずいた。
「それじゃ、邪魔して悪かったわね。頑張って探しなさいな、アナスタシア」
レティシアはそれだけ言い残し、ふたたび半個室へと戻っていった。
カーテンの揺れが静かに止むころ、アナスタシアの中には新たな道筋と、言いようのない胸騒ぎが芽生えていた。
馬車に戻ると、冷えた夜気がふわりと頬をなでた。
扉を閉めた途端、通りの喧騒が遠のいていく。
座席に腰を下ろしたバルドーが、しばし黙考したのちにぽつりと口を開いた。
「……あの男、見覚えがあります。ゴドフロワ・バルメ。成金の商人です」
アナスタシアとルカが同時に顔を向ける。
「成金……?」
「ええ。元は地方の香料商だったと聞きますが、ここ数年で急激に財を成し、都でも名の知れた顔になりました」
「見た目は……どこか間の抜けた印象だったけれど」
アナスタシアの言葉に、バルドーはわずかに眉を寄せた。
「確かに。太っていて背が低く、頭も……まあ、目立ちます。香水の香りも、彼のトレードマークでしょう」
「派手な装飾もしていたわね。上等な指輪をいくつも」
ルカが小さくうなずく。
「けれど……どうして彼がレティシア・ガーネットと一緒に?」
アナスタシアの問いは、自身の戸惑いそのままだった。
貴族社会でも一線を画す存在――放埓で高飛車、噂の絶えない侯爵令嬢と、胡散臭い成金商人。
「むしろ彼らが、ミレイユの情報を“もっていた”ことの方が奇妙です」
バルドーの声には鋭さがあった。
「状況によっては……彼ら自身が関与している可能性もある」
「……!」
アナスタシアの表情が強張る。
けれど、すぐにバルドーは視線を落ち着かせて続けた。
「憶測の段階です。明日、私は別行動を取ります。彼らの足取りを追ってみましょう」
「危険は?」
ルカの問いに、バルドーはいつもと変わらぬ無表情で答える。
「じゅうぶんに注意して動きます。ご安心を」
馬車の中に一瞬、静寂が落ちた。
窓の外では、夜が深まっていた。
家々の灯りが消え、石畳には月明かりが反射している。
アナスタシアは、ミレイユの名前を口に出すことすらできず、膝の上で指を重ねた。
その様子に気づいたのか、ルカが柔らかく声をかける。
「……朝になれば動き出せます。焦るお気持ちは、よくわかります。でも、今は、休んでください」
「けれど……」
「何かあったとき、あなたが倒れてしまえば本末転倒です」
その言葉に、アナスタシアは言葉を詰まらせた。
やがて馬車は屋敷前に到着し、ルカが再び手を差し出す。
「お送りいたします。どうか、今夜だけはご自身を休めて」
アナスタシアはうなずき、ルカの手をとった。
冷たい夜気の中、彼の手だけが不思議とあたたかかった。
そして彼女は、振り返らずに扉の中へと消えていった。




