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馬車の中には、しばし沈黙があった。
車輪の音が遠ざかる街のざわめきをかき消し、薄明かりのランタンが、二人の影を静かにゆらしていた。
アナスタシアは膝の上に手を重ねたまま、ぽつりと口を開く。
「……誰もが理解してくれるとは思っていないんです。ミレイユのことを、私がこうして探しに行くことを」
視線は伏せられたまま。けれど、その声にははっきりとした芯があった。
「彼女は、私にとっては……姉のようであり、時には母のようでもあって。でも、世間から見れば、ただの……いち使用人にすぎない」
それでも探さずにはいられなかった。
その言葉は言わずとも、静かに空気に滲んでいた。
ルカは、少しだけ表情を緩める。
「バルドーは、僕の父が仕えていた家の執事の息子です。物心ついた頃から、ずっとそばにいて……今では、誰よりも信頼している相手です」
アナスタシアがゆっくりと顔を上げる。
ルカは、まっすぐその瞳を見て続けた。
「他人から見れば、彼もただの側近にすぎないかもしれない。でも、僕にとっては違う。だから……あなたがミレイユ嬢を案じるお気持ち、少しは分かるつもりです」
一言一言を丁寧に選びながら語るその声音に、アナスタシアは胸の奥にあった何かがすとんとほどけていくのを感じた。
「……ありがとう」
その言葉がこぼれたのは、自分でも気づかないほど自然だった。
夜の街灯が車窓をすべり、ふたりの間にしばしの静けさが戻る。
けれどその沈黙は、さっきまでのものとは少し違っていた。
やわらかく、あたたかく、かすかに支え合うような沈黙だった。
街の灯りが馬車の窓をかすめる頃、車輪が徐々に速度を落としはじめた。
「……この先は路地になります」
御者の声に応え、アナスタシアは扉に手をかける。
けれど、先にルカが馬車から降り、手を差し出した。
「足元に段差があります。お気をつけて」
石畳の傾いた路地に、ヒールの底がわずかに沈んだ。
アナスタシアはルカの手を借りて馬車を降り、すぐあとに到着したもう一台の馬車からは、バルドーが無言で降り立つ。
「周囲を確認してきます。店の中では後方に控えます」
そう言うと、すっと先行して細道を歩き出した。
アナスタシアたちはそのあとに続く。
古びた宿屋の脇、木の扉の奥からは、ざわめきと笑い声、グラスのぶつかる音が洩れていた。
宿屋に併設された、小さな酒場だった。
バルドーが先に扉を開けると、熱気とともに、酔客たちの笑い声がぶつかってきた。
その一角、カウンターの内側で立ち働いていたのが、ミレイユの友人――タバサだった。
栗色の髪をきゅっとまとめ、袖をまくった腕でグラスを拭きながら、向かいの客にからかわれている。
「ほらほら、もう一杯だけでいいからよぉ」
「もう十分飲んだでしょ? 今度は水を褒めてみてよ、水を」
酔っ払いを愉快にあしらうその口調は明るく、はきはきとしていた。
やがて、扉の方に気づいて顔を上げたタバサが、一瞬きょとんとして――
「あっ……あら。ミレイユの…お嬢様ですよね?」
目を丸くしながら、慣れない敬語を口にした。
「……ええ。覚えていてくれたのね」
「そりゃ、あんな綺麗なお顔、忘れようがないわ。っていうか……えっ、どうしたの、ですか、こんなとこまで?」
カウンターから出てきたタバサに、アナスタシアは一礼しながら事情を伝えた。
ミレイユが今朝から戻っていないこと。行き先を誰にも告げていなかったこと。
タバサは目を丸くし、両手を腰に当てた。
「……んー……ごめんなさい。何か教えてくれてたらよかったんだけど……ほんとに、何も言ってなかった」
「そう……」
「ただ、最近ちょっと妙だったんです。うきうきしてるっていうか、ずっとにやにやしててさ。訊いてもはぐらかすし。なにか、いいことでもあったんじゃない?ってからかってたんだけど……」
タバサは、今はもう笑えないとばかりに小さく首を振る。
「でも、それ以上は何も話してくれなかった。私にも、ね」
静かな沈黙が落ちる。
酔客たちの声はまだ遠くで賑やかだったが、アナスタシアの心には、冷たい夜の風が吹きはじめていた。




