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玄関先に響く蹄の音と、車輪の軋み。
アナスタシアはドレスの裾を手に軽く持ち上げ、使用人の制止を振り切るように扉へと急いだ。
「馬車を――すぐに出せるように」
声は落ち着いていたが、胸の鼓動は明らかに早かった。
このまま何もせずに待つには、夜が長すぎた。
扉の前に立ったとき、使用人のひとりが慌てて口を開いた。
「お嬢様……その、お客様が」
「……え?」
その瞬間、扉が内側から開かれた。
そこにいたのはルカ・ヴェルディ子爵。
その隣には、黒髪に無表情を湛えた青年――幼なじみであり側近のバルドーが控えていた。
応接室から出てきた両親が先に対応していたらしく、父が低く、しかしやや驚いた声で口を開く。
「……まさか、こちらまでお越しになるとは」
「彼女のことを聞いて、居ても立ってもいられなくて。バルドーが一報を耳にしたとき、すでに日が傾いていたんです」
ルカは静かに言った。
「僕にとっても、他人事ではありませんから」
その眼差しはいつもより真っすぐで、よけいな飾りが削がれていた。
アナスタシアはしばし言葉を失ったまま、その顔を見つめる。
「どちらへ?」
ルカの問いに、アナスタシアは小さく息をついて答えた。
「……街にいるミレイユの友人に、こころあたりを聞いてみようと思って」
「なら、僕も同行させてください」
きっぱりとしたその声に、バルドーが黙って一歩前に出た。
「危険のないよう、同行いたします。馬車は二台ご用意いたしました」
「危険なんて――」と口をついて出かけた言葉を、アナスタシアは呑み込んだ。
ミレイユの身に何が起こっているのか、今は誰にもわからない。
だったら、ひとりで動くより、力になる存在を拒む理由はなかった。
「……ありがとう」
視線を合わせて、そう言ったとき、ルカの目にわずかな安心が浮かんだように見えた。
そして三人は、夜の街へ向けて邸宅をあとにした。
馬車は夜の街道を、静かに進んでいた。
窓の外では、街灯の明かりが時折ちらつき、石畳の音が車輪に伝わって揺れている。
アナスタシアは手袋の端をそっと指でなぞりながら、ルカの方へ視線を向けた。
「……ミレイユの友人は、街の歓楽地にある酒場で給仕をしている娘なんです」
ルカは少し驚いたように目を向けたが、すぐに穏やかに頷いた。
「そうでしたか」
「以前、一度だけ……ミレイユに付き添って、お昼のカフェで会ったことがあるんです。明るくて、よく笑う子でした。でも……彼女の働く酒場には、行ったことがなくて」
声の調子に、自責の響きが混じったことを察したのか、ルカは静かに首を振った。
「アナスタシア様が、行くような場所ではありませんよ」
そう言ってから、一呼吸おいて、少しだけ肩をゆるめた。
「……実のところ、僕も、来るべきかどうか迷いました。捜索はバルドーに任せるつもりだったんです。余計なお世話になるのではないかと」
「そんな……」
「けれど、やはり来てよかった」
ルカの声にははっきりとした安堵があって、アナスタシアはその言葉に少し胸が温かくなるのを感じた。
窓の外に、夜の街の灯が広がりはじめる。
ふたりを乗せた馬車は、酒場の明かりの集まる通りへと向かっていた。




