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朝の光がカーテン越しに差し込むころ、アナスタシアはいつものように目を覚ました。
けれど、部屋の空気にはどこかぽっかりと穴があいていた。
ミレイユの姿がなかった。
支度を手伝う手も、朝の挨拶も、いつもの優しい声も。
「今日はおやすみだったんだわ」
そう思い出して、別の人手を呼び、いつもとすこし違う装いに仕上がった。
ひとりの午前を過ごすため、アナスタシアは書斎にこもり、机に向かった。
テーブルの上には上質な便箋と、銀のペン。
あの日、観劇の帰りに立ち寄ったカフェで交わした言葉を思い出しながら、彼への礼状を綴った。
あの日は素晴らしい時間をありがとうございました
あなたがあの物語を好きだと知れて、とても嬉しかったです――
自然と、文字がなめらかに綴られていく。
口では伝えられなかった想いが、ペン先から少しずつこぼれていくようだった。
午後になっても、ミレイユは戻らなかった。
いつもなら、出かけると言っても、夕暮れまでには必ず帰ってくる。
夕食のころには、そっとドアを開けて「ただいま戻りました」と微笑んでくれるのに。
日が傾いても、扉は静かなままだった。
アナスタシアは窓辺に立ち、沈みかけた陽の光を見つめながら、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えていた。
その違和感が不安へと変わるには、まだもう少し時間が必要だった。
日が傾き、窓辺のカーテンがわずかに朱を帯び始めた頃――
アナスタシアの家のリビングには、すでに不穏な空気が漂っていた。
椅子が引かれ、足音が重なり、誰かの低い声がひそやかに響く。
両親、執事、数人の使用人。そして、ひときわ沈んだ面持ちの婦人がひとり。
ミレイユの母であり、アナスタシアの乳母でもあるメアリーだった。
「連絡もなく……戻りませんの。こんなこと、今まで一度も」
押し殺した声の奥に、強い不安と焦りが混じっていた。
使用人のひとりが「足をくじいて動けなくなったのかもしれません」とつぶやくが、それに頷く者はいなかった。
若い女の子のことだ、万が一を考えれば早いに越したことはない――
その判断がすぐに下され、捜索の段取りが始まる。
警備の者に伝令が走り、知人宅への確認を依頼する書状が用意され、手分けして近隣の街路や停車場を探る案も持ち上がった。
アナスタシアは、その中心から少し離れた位置に立ち尽くしていた。
「アナスタシア、おまえは……昨夜、何か聞いていなかったか?」
父の問いかけに、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……いいえ。……『秘密』だって……。だから……」
声が震えそうになるのを抑えながら答える。
本当はもう少し聞けたはずだった。問い詰めるように、冗談めかしてでも、もう一言、踏み込めていたかもしれない。
「――そういうんじゃないけど、内緒です」
あのときのミレイユの笑顔が、頭の中でよみがえる。
どうして、それ以上聞かなかったのか。
なぜ、あの笑みの奥に気づけなかったのか。
アナスタシアは静かに唇を噛んだ。
胸の奥に、じわりと重い後悔が広がっていく。
窓の外では、もう陽が落ちかけていた。




