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湯気が白く立ちのぼる浴室で、アナスタシアは湯船の縁にそっと腕をかけていた。背後ではミレイユが、湯で絞った布でそっと髪を包んでいる。
「……楽しかったんですね」
声をかけたミレイユの口調には、茶目っ気がにじんでいた。
アナスタシアは目を閉じたまま、かすかに頬を緩めた。
「ええ。あなたの言ったとおりだったわ」
「緊張していただけ、でしたか?」
「そうみたい。観劇の最中に気づいたの。口元がやわらかくなって、目も……あんなふうに感情を隠せない人だなんて、思ってもいなかった」
「うふふ。そういうところ、けっこう可愛らしい方なんじゃないですか?」
「ふふ……かもしれないわね」
熱のせいか、それとも思い出し笑いか、アナスタシアの肩がふわりと揺れた。
ミレイユは布をそっと外し、櫛を手に取ると、濡れた髪をやさしく梳き始める。
「手が汗ばんでたの、降りるときに気づいたのよ。きっとそれまでずっと……私以上に緊張してたんだと思う」
「それなら、今夜はぐっすり眠っていらっしゃるでしょうね」
「ふふ……私も、たぶん」
ぽつぽつと交わされる言葉の合間に、静かな湯音が響いていた。
アナスタシアはその音に身をゆだねながら、今日一日の記憶を、心の奥であたためるように反芻していた。
ルカ・ヴェルディ子爵――最初に感じた距離は、たぶんほんの少しの壁だったのだろう。
その向こうにあるものを、これから少しずつ知っていけたらいい――そんな予感だけを胸に、アナスタシアはそっと目を閉じた。
寝室にはあたたかなランプの灯りが灯っていた。
湯上がりの体を包むナイトガウンの柔らかさにくるまれながら、アナスタシアはベッドサイドに腰掛け、静かに髪を指先で整えていた。
カーテンはもう閉じられていて、外の風景は見えない。
そのかわり、ミレイユが静かに歩いてきて、手に持ったブランケットをアナスタシアの膝にかけてくれる。
「ありがとう。……ミレイユ、明日はおやすみなのよね?」
「ええ、そうなんです」
アナスタシアは毛布の端を指でつまみながら、ふと問いかけた。
「どこかへ出かけるの?」
ミレイユは一瞬、何かを言いかけたようだったが――笑みだけを残して、言葉を飲み込んだ。
「……秘密です」
「え?」
「内緒、ということで」
含み笑いを浮かべてにこりと笑うその顔に、アナスタシアは目を細めた。
いつもなら、どこへ行くのか、誰と会うのか、さりげなくでも報告してくれるのに。
今日は様子が違う。
「……もしかして。とうとう、春が?」
「えっ」
「ごまかさないで。だってそんな顔、珍しいもの」
追い込むように身を乗り出すと、ミレイユは小さく首を振って笑った。
「違いますよ、そういうのじゃなくて。でも――内緒です」
「ひどいわ、私には教えてくれないの?」
「帰ったら見せてあげます。きっと気に入りますよ」
それだけ告げると、ミレイユは布団の端を持ち上げ、アナスタシアがベッドに入るのを手伝った。
毛布の重みと共に、穏やかな香りが肩を包む。
「おやすみなさい、アナスタシア様」
「……おやすみなさい、ミレイユ」
ランプの灯りがふっと落とされ、部屋は静けさに満たされた。
その余韻の中、アナスタシアはひとつ、疑問と期待を胸に抱えたまま、まぶたを閉じた。




