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癖の強い客人を玄関まで見送り、扉が閉まった瞬間。
ルカはくるりと振り返った。
隠そうとしても隠しきれていない。
顔が完全にうきうきしている。
「新婚旅行先、決まりましたね? アナスタシア」
声まで弾んでいた。
アナスタシアは思わず吹き出しそうになり、口元を押さえる。
「……まだ“決まった”わけでは」
「決まりです」
食い気味だった。
この一年、ふたりの間で何度も持ち上がっては流れていた話題だ。
旅行の行き先。
アナスタシアはどうしても遠慮が先に立つ。
実家の財政は立て直し中とはいえ、まだ余裕があるとは言えない。
贅沢な新婚旅行など、気が引けてしまう。
対するルカは、まったく譲らなかった。
「妻を贅沢させるのは夫の義務です」
真顔で言い切る男である。
そのたびに話は平行線をたどり、結局“保留”のまま今日に至っていた。
「隣国なら、理由も立ちます」
ルカは理路整然と続ける。
「招待を受けた公式訪問。
ついでに滞在するだけです」
“ついで”の規模が大きすぎるのは明らかだった。
アナスタシアはため息をつきながらも、笑ってしまう。
「……本当に行く気満々なのね」
「もちろんです」
一切の迷いがない。
その真っ直ぐな顔を見ていると、反論の言葉が弱くなる。
アナスタシアは少しだけ視線を逸らし、考えるふりをする。
「……あまり派手にならないなら」
ルカの目が輝いた。
「控えめに、です」
その“控えめ”が信用ならない。
「本当に?」
「本当にです」
即答だった。
嘘をついている顔ではない。
ただ、基準が違うだけで。
アナスタシアは小さく笑い、肩をすくめた。
「……わかりました」
その瞬間、ルカの表情がぱっと明るくなる。
子供のようだった。
「ありがとう、アナ」
礼を言う場面でもないのに、深々と頭を下げる。
その様子が可笑しくて、アナスタシアはとうとう声を上げて笑った。
出発を数日後に控えた午後。
執務室の隣にある私室は、ありえない光景になっていた。
床一面に広げられたトランク。
衣類は整然と畳まれているが、その量が異常だ。
旅というより移住である。
ルカは真剣な顔で、シャツの皺を丁寧に伸ばしている。
そこへ扉も叩かずバルドーが入ってきた。
一歩踏み込んだ瞬間、無言で立ち止まる。
「……何をしているんですか」
「見ればわかるだろう」
ルカは顔も上げない。
「荷造りだ」
「それは見ればわかります」
バルドーの視線は床のトランクに落ちる。
「問題は量です」
ルカは気にも留めない様子で、次の衣類を畳む。
「長旅だからな」
「新婚旅行です。遠征ではありません」
静かに釘を刺す。
「現地で買えます。半分にしてください」
「無理だ」
即答だった。
バルドーはこめかみを押さえる。
ルカは引き出しを開け、小さな布包みを取り出した。
慎重に開き、中身を確認する。
刺繍入りのハンカチ。
一年ほど前、アナスタシアから贈られたものだ。
端に控えめな模様が入っているだけの、上品な品。
ルカはそれを両手で持ち、数秒見つめたあと、丁寧に畳んでトランクの中央に置いた。
宝物の扱いだった。
バルドーは無言で見ている。
「……それも持っていくんですか」
「当然だ」
ルカは真顔で答える。
「旅行中に必要だろう」
「何にです」
「精神的支柱だ」
バルドーの目が凍る。
一切の感情を排した視線だった。
ルカはようやく顔を上げ、気づく。
「……何だ」
「別に」
淡々と答える。
「あなたが幸せそうで何よりです」
一拍。
ルカはじっとバルドーを見つめる。
「自分の恋が進展しないから文句を言っているんだな」
沈黙。
空気が止まる。
バルドーの表情が完全に固まった。
図星である。
ルカは満足そうにトランクを閉める。
「準備は順調だ」
バルドーは何も言わない。
ただ凍てついた目で、トランクの中央に収まった刺繍入りハンカチを見つめていた。




