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この婚約に、恋の続きを込めて  作者: もちもちほっぺ


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15/18

13

ルカとの何度目かになるデートの最中だった。


並んで歩く彼の手は、今日も変わらず丁寧で、少しだけ不器用で――そして、相変わらず緊張で汗ばんでいる。

指先が触れるたび、その微かな湿り気が伝わってきて、アナスタシアは気づかないふりをしながら、内心くすりと笑っていた。


真面目すぎるところも、誠実すぎるところも。

すべてがもう、愛おしい。


ふと、いたずら心が芽生える。


馬車の中、向かい合って座りながら、アナスタシアは何気ない調子で口を開いた。


「……あの」


ルカが背筋を正す。


「はい、アナスタシア様」


その呼び方に、アナスタシアは一瞬だけ視線を伏せたあと、ぽつりと続けた。


「アナと、呼んでいただけませんか」


空気が止まった。


ルカの目がわずかに見開かれ、次いで視線がさまよい始める。

口を開きかけては閉じ、何か言おうとして、結局何も出てこない。


馬車は静かに揺れ、外の景色だけが流れていく。


「……」


「……」


沈黙。


庭に出ても、

書斎で茶を飲んでも、

食事の席でも。


「こちらへどうぞ、アナスタシア様」


呼びかけは変わらない。

いや、むしろ以前よりも慎重で、ぎこちない。


アナスタシアは責めることも、急かすこともせず、ただ様子を眺めていた。

その様子が、可笑しくて、少し嬉しくて。


そして帰り際、石畳の小道でのことだった。


足元の段差に気づくのが一瞬遅れ、アナスタシアの体がふらりと傾く。


次の瞬間、強く手を引かれた。


「――アナ!」


反射だったのだろう。

考えるより先に、声が出ていた。


時間が止まる。


ルカは自分が何を言ったのか理解した瞬間、はっと息を呑み、そのまま固まった。

アナスタシアも、目を瞬かせたまま、彼を見上げている。


数拍の沈黙。


やがて、アナスタシアの口元がゆっくりと緩んだ。


「……はい」


たったそれだけの返事だったが、柔らかく、確かに嬉しそうだった。


ルカは耳まで赤くなり、視線を逸らす。


「……その……」


言葉を探しているうちに、何も言えなくなったらしい。


ふたりはそのまま、しばらく黙って立っていた。

けれど、繋がれた手だけは、離れなかった。





屋敷に戻るなり、ルカは自室へ直行した。


背後で扉が閉まる音が響いた瞬間、力が抜ける。

そのまま無言で壁にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。


静かな部屋に、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。


「……アナ」


小さく呟いた名前が、耳に熱を残した。


さっきの瞬間が、何度も頭の中で繰り返される。

転びかけた彼女の身体。

咄嗟に伸ばした腕。

掴んだ手の温度。


ルカは片手を見下ろした。


まだ感触が残っている気がして、指を軽く握る。

思い出しただけで顔が熱くなるのがわかる。


言えた。


あれほど言えなかった名前を、ついに。


その事実に追いついた途端、耳まで真っ赤になる。

壁に額を押しつけ、無言で悶える。


扉が控えめにノックされた。


反応する前に開き、バルドーが入ってくる。

いつもの無表情。だが、ルカの様子を一目見た瞬間、すべてを理解した顔になった。


「……何があったんですか」


問いかけは形式的だった。


ルカは壁にもたれたまま、視線を逸らす。


数秒の沈黙。


「……呼んだ」


「はい?」


バルドーは瞬きもしない。


「アナ、と名前を」


また沈黙。


バルドーは一拍置いて、深く頷いた。


「……おめでとうございます」


祝福なのか皮肉なのかわからない声音だった。


ルカは何も言い返せず、ただ壁に頭を預けたまま動かない。

耳の赤さだけが、全てを物語っていた。


バルドーはそれを眺め、静かに扉を閉める。


屋敷の誰にも知られないところで、若き当主は壁にもたれたまま、しばらく動けずにいた。





夜はとっくに更けていた。


屋敷は静まり返り、廊下を渡る風の音すら遠い。

ルカは寝台に横たわっていたが、まぶたは一向に閉じる気配がなかった。


天井を見つめたまま、深く息を吐く。


眠れない原因は、はっきりしている。


「……アナ」


囁くように名前を口にする。


すぐに胸の奥が熱くなる。

ひとりきりの部屋なのに、誰かに聞かれた気がして、思わず顔をしかめる。


もう一度。


「……アナ」


今度は少しだけ滑らかだった。

それでも言い終えた瞬間、耐えきれず枕に顔を埋める。


何をしているんだ、と自分で思う。

子供でもあるまいし。

だが止まらない。


今日の光景が、何度も浮かぶ。

彼女の手を引いた感触。

見上げてきた目。

あの柔らかな返事。


――はい。


胸が締めつけられる。


明日、どんな顔をして会えばいい。

平然としていられるのか。

また名前を呼べるのか。


考えれば考えるほど目が冴えていく。


「……アナ」


今度は枕に顔を押しつけたまま呟く。

声は布に吸い込まれて消えた。


部屋の時計が、静かに時を刻む。

針の音だけがやけに大きい。


ルカは寝返りを打ち、天井を睨む。

眠気は一向に来ない。


やがて窓の外が、わずかに白み始めた。


一睡もできないまま、朝が来る。

それでも胸の奥にあるのは疲労よりも、奇妙な高揚だった。


ルカは目を閉じ、最後にもう一度だけ小さく呟いた。


「……アナ」

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