13
ルカとの何度目かになるデートの最中だった。
並んで歩く彼の手は、今日も変わらず丁寧で、少しだけ不器用で――そして、相変わらず緊張で汗ばんでいる。
指先が触れるたび、その微かな湿り気が伝わってきて、アナスタシアは気づかないふりをしながら、内心くすりと笑っていた。
真面目すぎるところも、誠実すぎるところも。
すべてがもう、愛おしい。
ふと、いたずら心が芽生える。
馬車の中、向かい合って座りながら、アナスタシアは何気ない調子で口を開いた。
「……あの」
ルカが背筋を正す。
「はい、アナスタシア様」
その呼び方に、アナスタシアは一瞬だけ視線を伏せたあと、ぽつりと続けた。
「アナと、呼んでいただけませんか」
空気が止まった。
ルカの目がわずかに見開かれ、次いで視線がさまよい始める。
口を開きかけては閉じ、何か言おうとして、結局何も出てこない。
馬車は静かに揺れ、外の景色だけが流れていく。
「……」
「……」
沈黙。
庭に出ても、
書斎で茶を飲んでも、
食事の席でも。
「こちらへどうぞ、アナスタシア様」
呼びかけは変わらない。
いや、むしろ以前よりも慎重で、ぎこちない。
アナスタシアは責めることも、急かすこともせず、ただ様子を眺めていた。
その様子が、可笑しくて、少し嬉しくて。
そして帰り際、石畳の小道でのことだった。
足元の段差に気づくのが一瞬遅れ、アナスタシアの体がふらりと傾く。
次の瞬間、強く手を引かれた。
「――アナ!」
反射だったのだろう。
考えるより先に、声が出ていた。
時間が止まる。
ルカは自分が何を言ったのか理解した瞬間、はっと息を呑み、そのまま固まった。
アナスタシアも、目を瞬かせたまま、彼を見上げている。
数拍の沈黙。
やがて、アナスタシアの口元がゆっくりと緩んだ。
「……はい」
たったそれだけの返事だったが、柔らかく、確かに嬉しそうだった。
ルカは耳まで赤くなり、視線を逸らす。
「……その……」
言葉を探しているうちに、何も言えなくなったらしい。
ふたりはそのまま、しばらく黙って立っていた。
けれど、繋がれた手だけは、離れなかった。
屋敷に戻るなり、ルカは自室へ直行した。
背後で扉が閉まる音が響いた瞬間、力が抜ける。
そのまま無言で壁にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。
静かな部屋に、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
「……アナ」
小さく呟いた名前が、耳に熱を残した。
さっきの瞬間が、何度も頭の中で繰り返される。
転びかけた彼女の身体。
咄嗟に伸ばした腕。
掴んだ手の温度。
ルカは片手を見下ろした。
まだ感触が残っている気がして、指を軽く握る。
思い出しただけで顔が熱くなるのがわかる。
言えた。
あれほど言えなかった名前を、ついに。
その事実に追いついた途端、耳まで真っ赤になる。
壁に額を押しつけ、無言で悶える。
扉が控えめにノックされた。
反応する前に開き、バルドーが入ってくる。
いつもの無表情。だが、ルカの様子を一目見た瞬間、すべてを理解した顔になった。
「……何があったんですか」
問いかけは形式的だった。
ルカは壁にもたれたまま、視線を逸らす。
数秒の沈黙。
「……呼んだ」
「はい?」
バルドーは瞬きもしない。
「アナ、と名前を」
また沈黙。
バルドーは一拍置いて、深く頷いた。
「……おめでとうございます」
祝福なのか皮肉なのかわからない声音だった。
ルカは何も言い返せず、ただ壁に頭を預けたまま動かない。
耳の赤さだけが、全てを物語っていた。
バルドーはそれを眺め、静かに扉を閉める。
屋敷の誰にも知られないところで、若き当主は壁にもたれたまま、しばらく動けずにいた。
夜はとっくに更けていた。
屋敷は静まり返り、廊下を渡る風の音すら遠い。
ルカは寝台に横たわっていたが、まぶたは一向に閉じる気配がなかった。
天井を見つめたまま、深く息を吐く。
眠れない原因は、はっきりしている。
「……アナ」
囁くように名前を口にする。
すぐに胸の奥が熱くなる。
ひとりきりの部屋なのに、誰かに聞かれた気がして、思わず顔をしかめる。
もう一度。
「……アナ」
今度は少しだけ滑らかだった。
それでも言い終えた瞬間、耐えきれず枕に顔を埋める。
何をしているんだ、と自分で思う。
子供でもあるまいし。
だが止まらない。
今日の光景が、何度も浮かぶ。
彼女の手を引いた感触。
見上げてきた目。
あの柔らかな返事。
――はい。
胸が締めつけられる。
明日、どんな顔をして会えばいい。
平然としていられるのか。
また名前を呼べるのか。
考えれば考えるほど目が冴えていく。
「……アナ」
今度は枕に顔を押しつけたまま呟く。
声は布に吸い込まれて消えた。
部屋の時計が、静かに時を刻む。
針の音だけがやけに大きい。
ルカは寝返りを打ち、天井を睨む。
眠気は一向に来ない。
やがて窓の外が、わずかに白み始めた。
一睡もできないまま、朝が来る。
それでも胸の奥にあるのは疲労よりも、奇妙な高揚だった。
ルカは目を閉じ、最後にもう一度だけ小さく呟いた。
「……アナ」




