12
ミレイユ行方不明騒動から数週間が経った。
屋敷には日常が戻り、騒ぎの名残もようやく薄れてきた頃だった。
アナスタシアとルカのあいだにも、あの夜を境に、はっきりとした変化が生まれていた。
形式ばった呼びかけは減り、言葉の端々に、遠慮よりも温度が混じるようになった。
まだ完全にくだけきってはいないが、それでも以前のようなよそよそしさはない。
その日、ふたりは街外れにあるオルゴール館を訪れていた。
古い石造りの建物で、観光客向けというよりは、静かな収集家の館といった佇まいだ。
扉を開けた瞬間、空気が変わる。
微かに甘い木の香りと、金属が触れ合う澄んだ音が、いくつも重なって流れてくる。
「……きれい」
思わずこぼれたアナスタシアの声に、ルカは小さく頷いた。
館内には大小さまざまなオルゴールが並び、それぞれが違う旋律を奏でている。
同時に鳴っているはずなのに、不思議と騒がしさはない。
音が重なり合い、柔らかく溶け合っていた。
ふたりは自然と並んで歩き、ひとつひとつ足を止めては覗き込んだ。
ルカが説明を読むと、アナスタシアが覗き込む距離が近くなる。
肩が触れそうで、触れない。
「こういう場所、好きだったんですね」
「はい。音が……落ち着きます」
そう答えてから、アナスタシアは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……ひとりで来るより、今日は、楽しいです」
それは特別な言い方ではなかった。
けれど、ルカは一瞬だけ足を止める。
「……私も」
短く返された声は、少し低く、いつもより近かった。
小さな卓上のオルゴールの前で、係員がぜんまいを回す。
旋律が静かに流れ始めた。
アナスタシアは目を細め、音に耳を澄ませている。
その横顔を、ルカは盗み見るように見つめた。
以前なら、視線を逸らしていただろう。
緊張に隠れて、感情を閉じ込めていた。
今は、そうしなかった。
音が終わると、余韻だけが残る。
ふたりとも、すぐには動かなかった。
「……もう一度、聴こう」
「ええ」
返事は即座で、自然だった。
ぜんまいを回す指が、ほんの一瞬触れ合う。
どちらも引っ込めなかった。
オルゴールの音が、再び館内に広がる。
そのあいだ、ふたりは何も言わず、ただ並んで立っていた。
けれど、距離だけは、確かに近づいていた。
アロマの柔らかな香りが満ちた部屋で、ふたりは並んでソファに腰掛けていた。
窓から差し込む午後の光が、刺繍枠の上で揺れている。
アナスタシアの指先は慣れたもので、細かな模様を迷いなく縫い進めていた。
淡い布地の上に浮かび上がるのは、控えめで上品な意匠。
完成すれば、ハンカチになる予定のものだった。
「それ、もうだいぶ進みましたね」
向かいで刺繍をしていたミレイユが、ちらりと覗き込む。
「ええ。早く渡したくて」
そう答えたアナスタシアの声は、どこか弾んでいた。
自覚しているのか、していないのか。
ミレイユは口元を緩めながら、自分の針仕事に視線を戻す。
彼女が縫っているのは、小さな布切れだった。
色糸も模様も控えめで、実用品というよりは――。
「それは?」
アナスタシアが問いかける。
「お守りに入れる刺繍です」
「誰の?」
一拍の間。
「内緒です」
そう答えて、ミレイユはほんのり頬を染めた。
いつもより少し、照れた笑い方だった。
アナスタシアは一瞬だけ瞬きをして、それから肩をすくめる。
「もう、またそれ?」
針を止めずに、くすりと笑う。
「今度は、いなくならないでよ」
冗談めかした口調だったが、言葉の端には確かな本音が滲んでいた。
ミレイユは小さく息を吸い、ゆっくりとうなずく。
「はい。今度は大丈夫です」
刺繍枠の上で、糸が静かに進んでいく。
針の音と、香りと、午後の光。
その穏やかな時間の中で、アナスタシアはふと手を止め、完成しかけの模様を見つめた。
贈る相手の顔を思い浮かべたのだろう、口元が自然と緩む。
ミレイユは、針を進めながらふと顔を上げた。
「……ルカ様とは、だいぶ仲良くなれたみたいですね」
話題をそっとずらすような、何気ない声音だった。
アナスタシアは一瞬だけ手を止め、刺繍枠の上に視線を落とす。
すぐに答えは返ってこなかったが、やがて小さく息を吐いて、穏やかに微笑んだ。
「ええ……そう、ね」
それから少しだけ言葉を選ぶように間を置いて、続ける。
「あなたがいなくなったとき、真っ先に駆けつけてくれて……ずっと、そばに居てくれたの」
針を持つ指が、わずかに強く布を押さえる。
「捜索のことも、全部。迷いもなく動いてくれて……あのときは、とても頼もしかったわ」
誇らしさと安堵が混じった声だった。
恋を語るというより、信頼を確かめるような調子で。
ミレイユは何も言わずに聞いていたが、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
アナスタシアはそこで顔を上げ、ふっと空気を変えるように眉を緩めた。
「でもね」
身を寄せると、ミレイユの頬を指先で軽くつつく。
「もう、あなたがいなくなるのはこりごりよ?」
責めるでもなく、冗談めかした声。
けれど、その奥には確かな不安と愛情があった。
ミレイユは一瞬驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「……はい」
それだけ答えて、また刺繍に視線を戻す。
アナスタシアも針を取り直し、糸を進める。
ソファの上には、先ほどと変わらぬ穏やかな時間が流れていた。




