バルドーの日記帳より。2
婚約の申し出を行うその朝、私は最初から嫌な予感がしていた。
「……ルカ様」
呼びかけても返事がない。
執務机の前に立つルカは、書類を持ったまま微動だにせず、視線だけが明後日の方向を彷徨っている。
「ルカ様?」
「……ああ。すまない」
返事はしたが、明らかに上の空だった。
手袋を外しては着け、また外す。
椅子に腰を下ろしては立ち上がり、窓の外を見ては深呼吸をする。
案の定、無意識に胃のあたりをおさえている。
「……落ち着きませんね」
「……少し」
少し、ではない。
私は無言で懐に手を入れ、小さな包みを取り出した。
「胃薬です」
「……なぜ?」
「顔色が、これから戦場に向かう兵士のそれですので」
一瞬、きょとんとした顔をしたあと、ルカは観念したように受け取った。
「……助かる」
薬を飲み干したあとも、緊張は収まらなかった。
馬車の中では一言も発さず、屋敷に到着してからも、表情は強張ったまま。
そして、アナスタシア様を前にした瞬間――完全に、固まった。
視線が合わない。
いや、正確には、合わせようとして避けている。
声は落ち着いている。言葉遣いも完璧だ。
だが、どこかよそよそしく、距離がある。
……これは、まずい。
婚約の申し出自体は、滞りなく進んだ。
条件も、支援も、理屈としては非の打ちどころがない。
だが。
屋敷を出た途端、主人は執務室へ直行し、椅子に腰を下ろすなり、両手で顔を覆った。
「……やってしまった」
「どのあたりをでしょう」
「全部だ」
「具体的にお願いします」
「……目を、見られなかった」
指の隙間から、低い声が落ちてくる。
「緊張しすぎて、彼女の目を見たら……何も言えなくなる気がした」
「結果、冷たい印象になった、と」
「……ああ」
彼は深く息を吐いた。
「誤解されたかもしれない。形式的な申し出だと……いや、それ以上に、好意がないように見えたかもしれない」
「実際は、その逆ですね」
「……逆どころではない」
椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
「せめて、落ち着いた大人に見せたかった。それなのに、情けない」
私は少し考えてから、正直に告げた。
「ルカ様。あの場で最も緊張していたのは、間違いなくルカ様ご自身でした」
「……だろうな」
「ですので、冷たいというより、“近寄りがたい”印象だったかと」
「……それも問題だ」
頭を抱える姿は、商談の席では決して見せないものだった。
だが私は知っている。
この異常な緊張の理由を。
失敗を恐れない男が、唯一、恐れている相手。
それが、アナスタシア様だった。
「……次は、ちゃんと目を見る」
小さく、だが確かな決意が、そう呟かれた。
私は机の上の書類を整えながら、心の中でため息をついた。
まったく――
恋をすると、人はここまで不器用になるらしい。
主君の背中を見ていると、学ぶことは多い。良くも悪くも、だ。
少なくとも私は、ああはなるまいと静かに胸の内で線を引いた。
裏口の回廊でミレイユ嬢と落ち合うのは、もう何度目かになる。
「……うちの主人が、何かとお手数を」
そう言うと、ミレイユは苦笑して肩をすくめた。
「いえ。慣れてますから」
それが冗談なのか本音なのかは、判別しないことにした。
別れ際、用意していた小箱を差し出した。
「アナスタシア様が、お茶をお好きだと聞きまして。試供品ですが」
そう口にしたものの、中身を選んだときに思い浮かべていた顔は、どう考えても彼女のものだった。
香りの強すぎないもの、夜でも飲める配合。
彼女が気兼ねなく手に取れるように、と。
ミレイユは一瞬だけ目を丸くし、それから素直に受け取った。
「毒見用、ということで」
つい軽口が先に出る。
言ってから、ほんのわずかに間が空いた。
ふふっと苦笑してお礼を言うミレイユがまぶしくて、おもわず視線を逸らしてしまう。
主人の癖が移ったのか。私は内心でルカ様に責任転嫁をしたのだった。




