バルドーの日記帳より。
若き当主が、交渉の席で相手を黙らせるときの表情を、私はよく知っている。
声を荒げることはない。
ただ、事実と条件を淡々と積み上げ、逃げ道をひとつずつ塞いでいく。
あの視線を向けられて平然としていられる商人は、そう多くない。
その当主が――
「……バルドー」
執務室の扉が閉まった途端、急に声の調子を落とす。
「今日の彼女の髪型は、以前より少し大人っぽくなっていたと思わないか」
私は一瞬、返事を忘れた。
「……どの商談の話でしょうか」
「違う。アナスタシア様だ」
真剣な顔で、真剣に言う。
つい先ほどまで、隙なく契約をまとめていた男とは思えない。
「三つ編みをまとめて、後ろに流していた。いつもより、こう……落ち着いた雰囲気で」
「ルカ様」
「……何だ」
「仕事に戻ってください」
沈黙が落ちる。
そして、わずかに咳払い。
こういうことは、珍しくない。
最近は特に、ひどい。
ミレイユ嬢が屋敷から来る日など、顕著だった。
「バルドー、記録を」
「何の記録でしょう」
「アナスタシア様は、最近あの紅茶がお気に召しているらしい」
「……はい」
「甘味は控えめ。焼き菓子より、果物の方が良いそうだ」
「承知しました」
ミレイユ嬢が何気なく話した日常を、当主は国家機密でも扱うかのような真剣さで書き留める。
紙に向かう背中が、やけに前のめりだ。
「今日は庭で蝶を追いかけて笑っていたそうです」
その報告を聞いた瞬間、彼の口元が、わずかに緩んだ。
「……天使か」
「仕事してください、ルカ様」
このやり取りを、私は何度繰り返しただろう。
だが、笑ってばかりもいられない。
彼がどれほどの覚悟で、ここまで来たかを知っているのは、私だけだ。
「没落しかけた彼女の家を救うには、愛だけでは足りない」
ある夜、書類に埋もれたまま、彼はそう呟いた。
「圧倒的な富と力が必要だ。誰にも文句を言わせないだけのものが」
若き日の彼は、内気で、不器用で、何かを欲しいと口にすることすら苦手だった。
それが今では、家を背負い、事業を広げ、社交界すら動かしている。
すべては、たった一人の少女を迎えに行くため。
「……私は、間に合うだろうか」
そう言った背中を、私は忘れない。
「間に合います」
そう答えたのは、事実だったからだ。
彼はもう、十分すぎるほどに強くなっていた。
ただ――恋だけが、相変わらず不器用なままなだけで。
私は今日も、当主の書類を整えながら思う。
この恋の行方を、最後まで見届ける役目は、どうやら私にあるらしい。
幼い頃の話を、彼は決して口にしなかった。
アナスタシア様が、高熱のあとに多くの記憶を失ったことを知った日のことを、私は覚えている。
医師の説明を受けながら、彼は一言も発さず、ただ指先を強く握りしめていた。
「……覚えて、いないのか」
小さく漏れたその声は、問いというより、確認だった。
あの夏。
四人で過ごした日々。
花冠を編み、名前も分からない未来を夢見ていた時間。
それらはすべて、彼女の中から消えていた。
それでも彼は、告げなかった。
「言えばいいのに」
思わず口にした私に、彼は首を振った。
「だめだ。あれは……子どもの思い出だ。今の僕が、あの頃の約束を盾に近づくのは、違う」
「随分と潔癖ですね」
「彼女には、きちんと“今の自分”を見てほしい」
静かな声だった。
だが、その奥には、揺るぎのない意志があった。
「内気で、泣き虫で、花を渡すのに一日悩んでいた子どもではなく……彼女を守れる男として、意識してもらいたい」
私は溜息をついた。
「回りくどいにもほどがあります」
「分かっている」
分かっていて、やめない。
それが彼だった。
「あのですね」
ある日、ミレイユ嬢は腕を組んで、はっきりと不満を口にした。
「ご両親からの許可があるとはいえ、アナ様には内緒、という条件つきでしょう? どこまで話してよくて、どこから伏せるか、選ぶの大変なんですから」
「……すまない」
「日常の話だけ、ですよ? 庭で何をしていたとか、本を読んでいたとか。それ以上は全部アウトです」
「承知している」
「承知してる顔じゃありません!」
ミレイユ嬢は、机を軽く叩いた。
「こっちは、アナ様のプライバシーに関わらないエピソードを厳選して報告してるんです。はやく勇気出してくださいよ。いつまで“準備中”なんですか」
「……」
その叱責を、彼は黙って受け止めた。
言えないのではない。
言わないと、決めていたのだ。
彼女が自分を見てくれる、その日まで。
私はふたりのやり取りを眺めながら、思う。
この男は、商談では即断即決だというのに、恋だけは致命的に遠回りだ。
「いずれ、限界が来ますよ」
そう忠告したとき、彼は珍しく苦笑した。
「そのときは……そのときだ」
結果として、限界は教会で訪れたわけだが。
あの花冠のことを、彼がどれほど大切に胸にしまっていたかを、私は知っている。
だからこそ、思うのだ。
彼は、最初から逃げていたわけではない。
ただ、誠実すぎただけなのだと。
そして今――
ようやく彼は、同じ時間を歩き始めた。
それだけで、私はもう、十分だと思っている。




