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この婚約に、恋の続きを込めて  作者: もちもちほっぺ


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12/15

バルドーの日記帳より。

若き当主が、交渉の席で相手を黙らせるときの表情を、私はよく知っている。

声を荒げることはない。

ただ、事実と条件を淡々と積み上げ、逃げ道をひとつずつ塞いでいく。


あの視線を向けられて平然としていられる商人は、そう多くない。


その当主が――


「……バルドー」


執務室の扉が閉まった途端、急に声の調子を落とす。


「今日の彼女の髪型は、以前より少し大人っぽくなっていたと思わないか」


私は一瞬、返事を忘れた。


「……どの商談の話でしょうか」


「違う。アナスタシア様だ」


真剣な顔で、真剣に言う。

つい先ほどまで、隙なく契約をまとめていた男とは思えない。


「三つ編みをまとめて、後ろに流していた。いつもより、こう……落ち着いた雰囲気で」


「ルカ様」


「……何だ」


「仕事に戻ってください」


沈黙が落ちる。

そして、わずかに咳払い。


こういうことは、珍しくない。


最近は特に、ひどい。


ミレイユ嬢が屋敷から来る日など、顕著だった。


「バルドー、記録を」


「何の記録でしょう」


「アナスタシア様は、最近あの紅茶がお気に召しているらしい」


「……はい」


「甘味は控えめ。焼き菓子より、果物の方が良いそうだ」


「承知しました」


ミレイユ嬢が何気なく話した日常を、当主は国家機密でも扱うかのような真剣さで書き留める。

紙に向かう背中が、やけに前のめりだ。


「今日は庭で蝶を追いかけて笑っていたそうです」


その報告を聞いた瞬間、彼の口元が、わずかに緩んだ。


「……天使か」


「仕事してください、ルカ様」


このやり取りを、私は何度繰り返しただろう。


だが、笑ってばかりもいられない。


彼がどれほどの覚悟で、ここまで来たかを知っているのは、私だけだ。


「没落しかけた彼女の家を救うには、愛だけでは足りない」


ある夜、書類に埋もれたまま、彼はそう呟いた。


「圧倒的な富と力が必要だ。誰にも文句を言わせないだけのものが」


若き日の彼は、内気で、不器用で、何かを欲しいと口にすることすら苦手だった。

それが今では、家を背負い、事業を広げ、社交界すら動かしている。


すべては、たった一人の少女を迎えに行くため。


「……私は、間に合うだろうか」


そう言った背中を、私は忘れない。


「間に合います」


そう答えたのは、事実だったからだ。


彼はもう、十分すぎるほどに強くなっていた。

ただ――恋だけが、相変わらず不器用なままなだけで。


私は今日も、当主の書類を整えながら思う。


この恋の行方を、最後まで見届ける役目は、どうやら私にあるらしい。






幼い頃の話を、彼は決して口にしなかった。


アナスタシア様が、高熱のあとに多くの記憶を失ったことを知った日のことを、私は覚えている。

医師の説明を受けながら、彼は一言も発さず、ただ指先を強く握りしめていた。


「……覚えて、いないのか」


小さく漏れたその声は、問いというより、確認だった。


あの夏。

四人で過ごした日々。

花冠を編み、名前も分からない未来を夢見ていた時間。


それらはすべて、彼女の中から消えていた。


それでも彼は、告げなかった。


「言えばいいのに」


思わず口にした私に、彼は首を振った。


「だめだ。あれは……子どもの思い出だ。今の僕が、あの頃の約束を盾に近づくのは、違う」


「随分と潔癖ですね」


「彼女には、きちんと“今の自分”を見てほしい」


静かな声だった。

だが、その奥には、揺るぎのない意志があった。


「内気で、泣き虫で、花を渡すのに一日悩んでいた子どもではなく……彼女を守れる男として、意識してもらいたい」


私は溜息をついた。


「回りくどいにもほどがあります」


「分かっている」


分かっていて、やめない。

それが彼だった。






「あのですね」


ある日、ミレイユ嬢は腕を組んで、はっきりと不満を口にした。


「ご両親からの許可があるとはいえ、アナ様には内緒、という条件つきでしょう? どこまで話してよくて、どこから伏せるか、選ぶの大変なんですから」


「……すまない」


「日常の話だけ、ですよ? 庭で何をしていたとか、本を読んでいたとか。それ以上は全部アウトです」


「承知している」


「承知してる顔じゃありません!」


ミレイユ嬢は、机を軽く叩いた。


「こっちは、アナ様のプライバシーに関わらないエピソードを厳選して報告してるんです。はやく勇気出してくださいよ。いつまで“準備中”なんですか」


「……」


その叱責を、彼は黙って受け止めた。


言えないのではない。

言わないと、決めていたのだ。


彼女が自分を見てくれる、その日まで。


私はふたりのやり取りを眺めながら、思う。


この男は、商談では即断即決だというのに、恋だけは致命的に遠回りだ。


「いずれ、限界が来ますよ」


そう忠告したとき、彼は珍しく苦笑した。


「そのときは……そのときだ」


結果として、限界は教会で訪れたわけだが。


あの花冠のことを、彼がどれほど大切に胸にしまっていたかを、私は知っている。


だからこそ、思うのだ。


彼は、最初から逃げていたわけではない。

ただ、誠実すぎただけなのだと。


そして今――


ようやく彼は、同じ時間を歩き始めた。


それだけで、私はもう、十分だと思っている。

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