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アナスタシアが初めてルカ・ヴェルディ子爵の名を聞いたのは、屋敷の会計報告が絶望的な赤字を記録した日だった。
帳簿に並ぶ数字は、夢でも冗談でもなかった。現実だった。
召使いの数を減らし、祖父の代から使われてきた馬車も手放すか悩み始めた頃、ヴェルディ家からの申し出が届いた。
内容は簡潔だった――形式的な婚約と引き換えに、財政的な支援を行う。つまり、救済。
見返りに求められたのは、アナスタシア自身だった。
拒む理由はなかった。拒める余裕など、とうに失われていた。
応接間に現れたルカは、思っていたよりも若く、整った顔立ちをしていた。
挨拶も所作も申し分なく、言葉遣いも丁寧だった。不快に思う要素は何一つなかった。
それなのに、彼はどこか遠く感じられた。
細部まで整えられた人形のように、感情の輪郭が見えない。
「初めまして、アナスタシア嬢」
静かな声が、空気を揺らした。
アナはわずかに頭を下げ、礼を返す。唇は笑みの形をつくったが、頬の筋肉は動かなかった。
「こちらこそ……ヴェルディ子爵」
その背後に控えていた彼の両親が、懐かしげに目を細めた。
「お会いするのは何年ぶりかしら。あのときはまだ、五歳にもなっていなかったかしらね」
「……私たち、会ったことが?」
「ええ。その後、こちらの情勢があわただしくて、ゆっくり顔をあわせられる機会がなかったのだけど」
記憶はなかった。小さな頃の出来事は断片的で、曖昧だ。
あの頃は高熱にうなされることも多く、何を夢で見て、何を実際に体験したのか、境目すら曖昧だった。
アナスタシアは目を伏せ、形だけの微笑みを浮かべた。
部屋の空気は少し冷えていて、白いカーテンが窓辺で柔らかく揺れていた。
アナスタシアは鏡の前の椅子に座り、胸元のブローチを外しながらふっと小さく息をついた。
「……とても丁寧な方だったわ」
背後に控えていたミレイユが、静かにブラシを手に取る。
「ええ。子爵家のご子息というだけでなく、あれだけの財を築いた家の当主でもいらっしゃるんでしょう? 物腰まで完璧だなんて、恐れ入りますね」
優しく髪に触れながら、少し愉快そうに言うその声音に、アナスタシアは目を伏せたまま続けた。
「でも……なんだか、距離があるような気がしたの。笑っていても、どこか遠くて」
ミレイユは手を止めなかった。ただ、ほんの少しだけ含み笑いを浮かべる。
「緊張してるんですよ、きっと。美しい令嬢を前にして」
「……そうかしら?」
返事をしながら、アナスタシアは小さく首をかしげた。
いつもなら、彼女は自分に寄り添い、同調してくれる。少しでも不安を口にすればすぐに共鳴して、眉をひそめてくれる。なのに――今日のミレイユはどこか、最初から彼に好意的だった。
それが不思議だった。ほんの少し、胸の奥がざわついた。
「援助が目的だとしても……婚約まで必要かしら。資金の貸し付けだけで十分なはずなのに」
「うーん……お母様同士がご学友だったんでしょう? そのご縁を大切に、というお気持ちかもしれませんよ」
ミレイユの声は穏やかだったが、いつもよりわずかに、柔らかすぎる気がした。
アナスタシアは鏡の中の自分を見つめながら、喉にひっかかった小さな棘のような感覚を言葉にせずに飲み込んだ。
ミレイユの手は、変わらず優しく髪をとかしていた。




