洋梨酒
今日のヴァルムは定休日である。
定休日といっても、買い出しに行って仕込みをするぐらいしかやる事はなく、陽はゆっくりと傾いていき、気付けば夕飯の時間になっていた。
いつも通り夕飯を済ませ、天狐がソファでくつろぎ始める。
その横にフロガはグラスと何かが入った袋を持って、座った。
「ドッドウェルさんにお詫びのお酒を貰ったんだ」
フロガがそんな事を言って出してきたのは、細い瓶に入った二本の酒。
黄色く濁った液体と透明な薄い液体の二層に分かれたそれは、酒というには不思議な代物であった。
「なんだこれ。 本当に飲めるのか?」
「洋梨とお米で作ったお酒らしいけど……」
ラベルには軽く振ってから飲むように、と書いてある。
細い瓶をゆっくり逆さまにして、二層が混ざったのを確認してから、フロガはそれをグラスに注いだ。
すると、洋梨の芳しい香りがふわりと漂ってくる。
「良い香りだなぁ。 ちょっと一口……」
そう言ってフロガがグラスを傾けて一口含むと、大きな瞳がパッと煌めいた。
とろりとした舌触り、洋梨のフルーティな香りと甘酸っぱさ、そして米酒のほのかな甘みを奥に感じるそれは、まるでジュースのように濃厚だ。
「美味しいよこれ! 天狐も飲んでみなよ」
「酒は苦いから嫌いだ」
「甘いから大丈夫だよ。 ほら、一口」
難しそうな顔をした天狐が、おずおずとフロガからグラスを受け取る。
クンクンと匂いを嗅いでみると、鼻腔に広がる甘い香りに眉間の皺が柔らかくなった。
それからほんの少しだけ、舐めるように洋梨酒に口を付ける。
途端、大きな耳がピンと立ち、尻尾がふわふわと揺れ始めた。
「どう? 甘くて美味しいだろ」
「うまい」
大きく頷いた天狐が、洋梨酒をまた一口含む。
琥珀色の瞳がキラキラと煌き、嬉しそうに細められていくのを見て、フロガもつられて笑ってしまった。
この様子だと、きっと洋梨酒を気に入ったのだろう。
「たまには酒を飲むのも悪くないな」
そう呟いた天狐が、ゆらゆらと尻尾を揺らしてソファにもたれる。
グラスの半分程あった洋梨酒が空になったようで、今度はなみなみとそれをグラスに注いだ。
「そういえば、天狐がお酒飲んでるの初めて見るな」
「酒なんてものは煙たくて苦くて飲めたもんじゃない」
酒は苦いもの、とずっと思っていたのだろう。
だから一切手をつけなかったのだ。
しかし、これは違う。
こんなに美味しくて飲みやすいものだったとは知らなかった。
なみなみと注がれていた洋梨酒は、もうすっかり無くなっていて、三杯目を手酌で目一杯注ぐ。
それをゆっくり飲み干して、再び瓶に手を伸ばしたのをフロガは慌てて止めた。
「待って! そんなペースで飲んだらすぐ酔うぞ」
「だいじょうぶだ」
二杯半しか口にしていない天狐の顔は既に赤く染まり、呂律もやや怪しくなっている。
恐らく、これ以上飲むのは危険だ。
「とにかく、今日はもう終わり。 水持ってくるから動くなよ」
飲みかけの瓶に蓋をして、キッチンへ持って行き、冷却魔具の中へしまう。
グラスに水を注いで戻れば、天狐が新しい瓶の封を開けて飲んでいた。
「天狐!! 終わりって言っただろ!」
「まだいっぱいのこってる」
「駄目だってば!」
天狐の手から瓶を奪い、魔具の中へしまう。
それからソファでうなだれる天狐の隣へ座り、水を渡した。
「ほら、飲めるか?」
「あまくない……」
「水だから当たり前だろ」
ちびちびと水を飲む天狐の目は熱を含んでぼんやりとしている。
やがて水を飲み干すと、フロガの腕に絡み身体を寄せて頭を預けた。
こんなことをしてくるなんて、初めてだ。
「え、天狐? 大丈夫か?」
「だいじょうぶだ」
ふにゃふにゃとした声ででそう答えながら、天狐がぐりぐりと頭を押しつけてくる。
普段では絶対にありえない行動にフロガは困惑した。
しかし、困惑すると同時に何とも言えない嬉しさもある。
いつも素っ気なくて冷たい態度をとる天狐が、今は甘えるようにすり寄ってきている。
しかも、こんな姿を自分だけに晒してくれているということが堪らない。
フロガは思わずニヤけそうになる頬を引き締めて、そっと天狐の背中を撫でてやった。
「もう寝る?」
「おまえといる」
酒というものは、ここまで素直にさせてくれるものなのか。
ということは、もしかして、あの言葉にも素直に返してくれるのではないだろうか?
「……天狐」
フロガは期待の念を込めて、天狐の名前を呼んだ。
呼ばれた天狐が顔を上げ、首を傾げる。
「天狐、愛してるよ」
その言葉を聞いた途端、天狐の大きな耳がピンと立った。
九つの尻尾が嬉しそうにゆらゆらと揺れて、熱に蕩けた琥珀色の瞳が少しだけ細められる。
そして、小さな口を開いてこう言った。
「わたしも、あいしている」
フロガは思わず天を仰いだ。
こんなに嬉しいことはない。
まさか、あの天狐が愛の言葉を口にするとは。
いつだって一言も言わなかった、あの天狐がすんなりと「愛している」と言ったのだ。
こんなに幸せなことがあって良いのだろうか。
フロガは込み上げる喜びと感動に胸を震わせて、腕に絡みついている天狐を抱き寄せた。
腕の中に収まった天狐が胸に顔を擦り寄せ、再びフロガを見上げる。
「だいすき」
追い打ちに涙が出そうになるのを、フロガはぐっと堪えた。
「俺も大好きだよ。 天狐は、俺のどこが好き?」
「ぜんぶ」
即答である。
フロガは再び天を仰ぎ、歓喜に打ち震えた。
天狐は本当に自分を好いていた。
ただ好きな訳ではなく、盲愛に近いほどに。
「なんで、今まで言ってくれなかったの?」
「いうと、もっとすきになる……」
しゅん、と耳が傾き、頭を預けてくる。
なんて可愛いのだろう。 いつもこうなら苦労しないのに。
「もっと好きになったら駄目なの?」
「……おまえが……し……だら……さ……い……」
「なに?」
聞き返したが、返ってきたのは小さな寝息だった。どうやら眠ってしまったらしい。
それでも、しっかりと自分の服を握って離さないところが可愛くて仕方がない。
フロガは天狐の髪を優しく撫で、微笑んだ。
「おやすみ、天狐」
明日のおやつは、たくさん用意してあげよう。
──翌日、天狐は自分の言ったことを思い出してベッドの上を転げ回っていた。
あんなに言わないと誓っていたのに、いとも簡単に口にしてしまった。
やはり酒は嫌いだ。 そう思いながら、天狐は枕に顔を埋めて恥ずかしさに藻掻き苦しんだ。
一方、その日の夜。
「よおマスター。 とりあえずエールね」
「いらっしゃいませ、ドッドウェルさん。 今持ってきますね」
いつも通り来店したドッドウェルが、いつも通りの注文をする。
そして、つまみを選ぶため、メニューを眺めた。
「今日は金欠でさあ……うーん、唐揚げかポテトフライか悩むな〜」
そう呟くドッドウェルに、フロガはエールの他に唐揚げ、ポテトフライ、トマトのマリネを差し出した。
その量に、ドッドウェルが目を丸くする。
「え!? 俺こんなに頼んでないよ!」
「今日は俺の奢りです。 好きな物をなんでもどうぞ」
「マジで! いや、でもなんで?」
「この間いただいたお酒、凄く美味しくて……妻も気に入ったので、お礼に」
「元は俺が忘れ物したのが悪かったのに……」
恐縮しているドッドウェルに、フロガはもう一つつまみを追加した。
感謝してもしきれないのだ。
「ドッドウェルさん、本当にありがとうございます」
「マスター、なんか顔がニヤけてんぞ……」
「ああ、ちょっと色々ありまして」
隠しきれない笑みを浮かべるフロガに、ドッドウェルは首を傾げた。
──天狐はその日から、ほんの少しだけ素直になったらしい。




