アルコール
夕飯時が終わり、夜がずっと更けた頃。
それは酔っ払い達が活発になる時間である。
ヴァルムも例外ではなく、酔いが回った者たちが楽しげに飲んでいた。
「飲み比べしようぜ! 俺に勝ったらここにいる奴ら全員奢ってやる!」
そんな事を言い出す輩も一人はいるのだが、大体酔い潰れて帰っていく。
どちらが勝ったのか負けたのか、マスターであるフロガ以外は誰も覚えていない。
だから今日も、特に気には留めてなかったのだが。
──今夜の客いつもとは違うようだった。
「おいおい、もう終わりか? 俺はようやくほろ酔いだぜ」
体格の良い大男が店内に響き渡るような声で笑う。
たくましい髭を撫で付け、挑戦してきた者たちが酔い潰れていくのを、男は楽しげに眺めていた。
男の名前はダン。
底無しの蟒蛇男と呼ばれる、神都の飲み屋街では少し有名な男である。
酒豪、というだけなら然程問題はないのだが、彼は見境なしに勝負を挑んでは相手を酔い潰し、意識の朦朧としている所で金を巻き上げているのだ。
「おい、兄ちゃん! 俺に負けたんだから一万クルタだ。 約束しただろ?」
「はえ〜、そうらっけ……」
もちろん、約束などしていない。
しかし酔っ払いとは不思議なもので、記憶になくとも自分が言ったと錯覚する事もあるようだ。
この青年も錯覚しているようで、ふわふわとした手つきで財布を取り出し、ダンに金を支払ってしまった。
「さあ、次はどいつだ? 俺に勝ったら有り金全部やるぞ!」
全員奢るのではなかったのか。
という突っ込みは誰もしない。
代わりにまた一人、挑戦者が現れるだけだ。
それを遠巻きに見ていた常連の青年、ドッドウェルが、カウンターの中にいるフロガを手招きして呼び寄せた。
「どうしました? ドッドウェルさん」
「なあマスター、あいつ蟒蛇のダンじゃないか?」
「なんですか、それ」
「俺も噂でしか知らないんだけどよ、相手に調子のいい事言って、酔い潰したあとに金を巻き上げてるらしいぜ」
財布の中身を全て持っていかれた者もいるとか。
しかし相手も酔っていたから、自分が金を賭けたかどうか覚えていない。
だから結局、誰も文句は言わないのだ。
「それは酷いですね」
「だろ? でも、誰もダンに勝てないんだ。 ほら、また倒れやがった」
本日二人目の挑戦者が机に沈んだ。
抜かれた金は二万クルタ。 先程より増えているのは、この挑戦者の懐が暖かかったのだろう。
そうしてまた次の挑戦者が現れると、フロガは店の奥から新しい酒瓶を何本か補充した。
「どうすんだよ、このままじゃ店の酒が空っぽになるんじゃねえか?」
「まさか、流石にそこまで飲む人はいないでしょう。……多分」
「おいおい、そこは断言してくれよ」
そんな会話をしている間にも、次の挑戦者が現れてしまう。 そしてその度に、挑戦者が金を取られていくのだ。
ついでに店の酒もどんどん無くなっていく。
ダンの表情は少しも変わらず、酔っている様子はない。 このままでは、本当に店の酒を飲み干される可能性が出てきた。
「おいマスター、ヤバくないか?」
「そうですね。 明らかにお金のない人からも取り始めたし、そろそろ止めないと……」
「店の酒の心配をしろよ」
ドッドウェルの言葉に苦笑を返し、フロガはカウンターを出て、ダンの横に立った。
周りには酔い潰れた客が倒れている。
酒臭い息を吐きながら、ダンは横に立ったフロガを見上げて、ニヤリと口端を吊り上げてみせた。
「よお、マスター! ここは酒も料理もうまいな。気に入ったぜ」
「ありがとうございます」
「しかし、酒に弱い客ばかりってのがつまらねえな」
「人によって楽しみ方は違いますので、御容赦ください」
「そりゃあそうだが……おいお前ら! もっと強い奴はいねーのか!?」
ダンは立ち上がり、店内にいる者に向かって声を張り上げた。
しかしこの惨劇を見ていた者達は誰も立ち上がらない。
彼等はダンから目を逸らし、手元のグラスをゆっくりと傾けて見ないふりをした。
その様子に、ダンは深い溜息をつく。
「お客様、宜しければ私がお相手致しますが、いかがでしょうか?」
フロガが人当たりの良い笑顔のまま、提案する。
しかし、その笑顔とは反対に周囲の客達がサアっと青ざめた。
この男は今まで何を見ていたのだろう?
酔い潰れた者達が足元にいるのに、何故無謀な挑戦をするのか。
常連のドッドウェルも、頭を抱えてしまった。
「へえ! マスター、あんた酒に強いのかい」
「嗜む程度ですが。 私が負けたら、今日の売り上げを全てお渡しします」
ギラリ、とダンの瞳が輝く。
いいカモが来た。 そう思ったのだろう。
「良いねえ、乗った!」
「代わりに、お客様が負けたら今日巻き上げたお金を全て戻してください」
「ああ、わかった。 じゃあさっさと始めようぜ」
フロガの言葉を遮るように早口で答えると、ダンはエールがなみなみと入ったジョッキを手に持った。
フロガも同様にジョッキを手に持ち、ダンに向かって掲げる。
「それじゃあ、乾杯」
「おう、乾杯」
言い終わってから、二人は一気に中身を飲み干した。
エールから始まり、酒の度数はどんどん上がっていった。
テーブルには酒瓶とグラスが溢れんばかりに並べられていて、滑り落ちそうになっている。
そんなグラスを、フロガは丁寧に重ねてカウンターの中へ持っていった。
「おぅい、ましゅたー!! にげるのかぁ〜」
呂律の回らなくなったダンが叫ぶ。
手にグラスを持ってはいるが、酒を一向に口に入れようとはせず、テーブルに突っ伏している。
「ここは俺の店なので逃げませんよ。 ダンさん、おうちはどこですか? 誰かに送ってもらいましょう」
「ふええ、まだのめるぞぅ」
「はい、わかりました。 立てますか?」
「ましゅたーものめよぅ」
ダンが酒瓶を抱えて、巨体を丸める。
腕を取って立たせようとしても、彼は力を込めて抵抗した。
これでは埒が明かない。
フロガが小さく溜息をつくと、静かな店内にドアベルが鳴り響いた。
「マスター、全員送り届けたぜ。 なんだ、ダンはまだ潰れてんのか」
ドッドウェルだ。
ダンの周りで酔い潰れていた客達を介抱し、金を返して家まで送り届けてきたのだ。
──ダンとフロガの勝負はそう時間はかからなかった。
顔色ひとつ変えずに酒を呷るフロガと、顔色が赤から土気色に変わっていくダン。
結果は一目瞭然だった。
最終的にダンが財布を出して、勝負は終わったのだが、酔い潰れたダンは家に帰ろうとしないのだ。
「しかしすごいな、マスター。 あんた、酔ってる気配すら感じねえよ」
「体質ですかね」
「体質で片付けるの?」
呆れたように眉を顰めるドッドウェルが、そろそろとダンに近寄る。
子供のように丸まった巨体を揺するが反応はない。
「寝てるのか?」
「意識が混濁してるみたいです。 困ったな……」
「さっきの客の中に知り合いが居たみたいだから、使いを頼んでおいた。 もうすぐ迎えが来るはずだ」
「良かった。 ドッドウェルさん、ありがとうございます!」
「いいさ。 代わりに今度何か奢ってくれ」
もちろん、とフロガが微笑む。
ドッドウェルがヒラヒラと手を振り、店から出て行くのを見送ってから、フロガは店内の片付けを進めた。
酒瓶や洗い物を片付けていると、再びドアベルが鳴る。
恰幅のいい女性が店内に入ってくるや否や、床で丸まっているダンを引っ掴み、腹から声を出した。
「あんた、何やってるんだい! すみません、うちの旦那がご迷惑をおかけして!」
「いえ、大丈夫ですよ」
「ほんと、すみません! ほら、あんた! 早く立ちな!!」
女性はダンの首根っこを掴み上げ、その巨体をずるずると引き摺っていく。
その間も何やら怒号を浴びせていたが、ダンはぼんやりした顔で空を見つめているだけであった。
嵐のような二人が去っていくと、店内は再び静けさを取り戻す。
洗い終わった食器を棚に仕舞い、厨房の掃除を終えて、住居である二階へ上がった。
暗い室内の中で、リビングの隅にあるソファを覗き込めば、狐の姿で眠っている天狐がいた。
九つの尾で体を包み、そこに顔を埋めて静かな寝息を立てている。
それを起こさないように浴室へ向かい、眠る準備をしてから再び天狐を覗き込んだ。
「天狐、こんな所で寝たら風邪ひくぞ」
小声で話しかけるが、返事はない。
何度か声をかけて、柔らかな毛を撫でてやると小さく声を漏らしたが、やはり起きる気配はなかった。
仕方なく、天狐の体をゆっくりと抱き上げる。
そのままベッドへ連れて行き、布団をかけてやって、自分も隣に潜り込んだ。
しばらくすると天狐が擦り寄って来て、フロガの腕の中に収まる。
「……酒臭い」
腕の中で天狐が呟く。
掠れた声と、寝ぼけた瞳でフロガを見上げて尻尾を動かしている。
「でも、酔うほど飲んでないよ。 お風呂も入ったし、歯も磨いたんだけど……」
「臭いもんは臭いんだよ」
文句は言っているが腕の中から出ていくつもりはないらしい。
目を閉じ、肩口に顔を埋めて、天狐は再び眠りについた。
「おやすみ、天狐」
柔らかな毛を撫で、温かな体を抱き締めて、フロガも目を閉じる。
久し振りに飲んだ酒のせいか、次の日、フロガはいつもより随分と遅く目が覚めてしまった。
──ダンが酔い潰れたという話が広がるのはあっという間だった。
夜になる頃には客の全員がその話を知っていて、次から次へとフロガへ質問が飛んでくる。
「マスター、蟒蛇のダンを潰した上にボコボコにしたって本当か!?」
「いや、俺は罰として裸ダンスをさせたって聞いたぞ!本当なのか!?」
「俺はダンが駄々っ子の赤ちゃんになったって聞いたぞ!」
噂というものは時折真実も混ざっているが、尾ひれもつく。
やれ、ダンが酔っ払って池に落ちたとか、フロガが樽ごと酒を飲み干したとか、ありそうで無いような、微妙な話が広がっているのだ。
興奮気味に聞いてくる客に、フロガは一つずつ丁寧に否定していく。
駄々っ子になったのは本当だが、それはダンの名誉の為に黙っておくことにした。
「でも勝ったのは本当なんだろ?」
「そうですけど、その前にダンさんは沢山飲んでましたから、たまたまですよ」
「そのとおりだ!!!」
怒号と共に勢い良く扉が開いた。
静かなドアベルが割れんばかりに鳴り響き、ダンが足音を立てながらカウンター席にドカリと座って、フロガを睨んだ。
「俺は昨日の時点でほろ酔いだった。 が、今はシラフだ! 公平な勝負をしようぜ」
「すみません、まだ夜の営業が始まったばかりなので……」
「落ち着くまで待つぜ。 なんなら閉店後でもいい!」
一度断ってみたが、ダンは引くつもりはないようだ。
他の客も爛々と二人を見つめている。
その空気の中で断ることができないと察したフロガは「わかりました」と言うしかなかった。
噂を聞きつけた客がどんどん店に集まってくる。
注文もほどほどに、勝負が始まるのを待つ客で狭い店内は溢れていた。
ダンは意外に有名人だったようだ。
「なあマスター、もう始めちゃえよ。 どうせ皆勝負目当てだろ」
ドッドウェルが痺れを切らした客の声を代弁する。
他の客も、うんうんと頷いてフロガを見つめた。
「うーん……わかりました。 それじゃあ始めましょうか」
待ってましたと言わんばかりに、ダンが顔を上げる。
周りの客も立ち上がり、フロガとダンを囲んだ。
「マスター、洗い物は任せろ!」
「俺は食器片付けるよ」
「じゃあ、俺は酒を持ってくるぜ」
ドッドウェルを含む常連客が率先して動き始める。
テーブルには多種多様な酒が並べられ、準備は万端だ。
ジョッキに手をかけるダンがフロガを睨み付け、それに軽く会釈して、フロガもジョッキを握る。
周りの客が一斉に静まって固唾を飲んだ。
「えーと……皆さん、お手伝いありがとうございます。 それから……」
「御託はいいから始めようぜ!! 乾杯!!」
フロガの言葉を遮って、ダンがジョッキの中のエールを飲み干す。
それを合図に、勝負開始の歓声が上がった。
日が暮れて間もない宵の口。
小さな食堂ヴァルムには、今までに無いほど客が溢れかえっていた。
「ふわあ、もうのめないよぉ」
土気色の顔でダンが呟く。
その呆気ない姿と信じられない程の酒の量に、他の客は絶句していた。
「大丈夫ですか? 奥さん呼んだので、もうちょっと待っててくださいね」
フロガの言葉にダンが頷く。
出された水をちびちびと飲みながら、小さくなって椅子に座っている姿は迷子の子供のようであった。
「あれが蟒蛇のダン? いや、確かに尋常じゃない程飲んでたが……ありゃあ、赤ちゃんだ」
「ヒトが飲む量じゃねえよ……」
その声に反応したのか、ダンが突然「わっ」と泣き始める。
机に突っ伏し、乙女のようにはらはらと涙を流して肩を震わせた。
「なんだよ、うわばみって! そんなダサい名前、誰がつけたんだよお!!」
ダサいと思っていたのか……
誰もが心の中でそう呟いた。
「これからは蟒蛇のフロガだな……」
真剣な面持ちで呟くドッドウェルに、フロガが「えっ」と声を上げる。
「やめてくださいよ。 蛇苦手なんです」
ほんのりと赤くなった頬を引き攣らせて、本気で困った顔をしている。
顔は赤くはなっているが、喋る言葉も歩く姿もしっかりとしていて、酔っている様子はないように見えた。
「あんた、どれくらい飲んだら酔うんだ?」
「酔ってますよ」
「嘘だろ。 まあいいや、片付けは俺たちがやるから座ってろよ」
面白いものを見せてもらったお礼に、と常連たちが空の酒瓶を片付け、洗い物を始める。
その間、ぐずぐずと泣くダンの背中を、フロガは擦って慰めた。
「ダンさん、これからは蟒蛇なんて言われなくなりますし、良かったじゃないですか」
「ふにゅう〜、おっかあに怒られるぅ」
「奥さんだって、ダンさんの健康を思って怒ってるんですよ。 いい機会ですからお酒は控えてください」
「うん……」
そんな事をしている間に、ダンの妻が怒りの形相で店に入ってきた。
また首根っこを掴み、周りに謝りながらズルズルと引き摺っていく。
他の客に温かく見守られながら、ダンは小さく手を振った。
「ましゅたー、また来るぜぇ……」
「はい、また来てくださいね」
フロガも笑顔で手を振り返す。
ドアベルが鳴って、ダンがいなくなると店内にいた客も次々と帰っていった。
片付けを終えた常連客たちも帰り、気付けばドッドウェルだけが残って、最後に椅子を整えていた。
「じゃ、俺も帰るぜ。 おやすみ、マスター」
「おやすみなさい、ドッドウェルさん。 今日はありがとうございました」
頭を下げると、ドッドウェルは軽い敬礼ポーズを投げかけてウインクをした。
静かに閉められたドアの鍵をかけ、すっかり綺麗になった店内を見回して、椅子に座る。
酒瓶の中に中途半端に残っている酒を見つめていると、それが妙にもどかしく見えた。
どうせなら全部飲み干してしまって、空にすればいいのに。
そんなふうに思ってしまったのは、酔いが回っているからだろう。
瓶の中に三分の一程残っている酒を次々と飲み干し、空にしていく。
満足する頃には足取りはふらつき、程よい疲労感と酒の熱が頭の中を支配していた。
ふらふらとよろけながら、店と裏口の戸締まりをし、照明を落として、フロガは階段を上っていく。
住居スペースの扉を開け、真っ暗な中で癖のようにソファを覗き込むが、今日は天狐はいない。
ほっとしたような、残念なような気持ちで浴室へ向かい、眠る準備をして寝室へ向かう。
すると、ベッドサイドの小さなランプがついていることに気付いた。
「今日は随分騒がしかったな」
ふわふわと九つの尻尾を揺らしながら、寝間着姿の天狐が腕と足を組んでベッドに腰掛けていた。
ランプの柔らかな光が天狐を照らし、美しい金髪がきらきらと輝いている。
長いまつ毛が細い影を落とし、ランプの光を浴びている琥珀色の瞳は普段より一層艶かしく見えた。
それにぼんやりと見惚れながら、隣に座って顔を覗き込む。
(綺麗な色だなぁ)
いつまででも、見つめていられる。
そう思った。
天狐が眉間に皺を寄せ、目を細めていてもその気持ちは変わらない。
「また酔っているな」
「ちょっとだけね」
そう言って、フロガはポケットの中から何かを取り出して手を広げた。
「これ何だと思う?」
「…………あ?」
手の中で広げて見せてきたのは、恐らく戸締まりの途中で庭から持ってきたであろう土。
土と草が、フロガの手の中でもみくちゃになっている。
一体これが何だというのか。
「これね、ミキプルーンの苗木」
「ふざけんな!!! 馬鹿が! さっさと寝ろ、この馬鹿!!」
「馬鹿って二回言った? あはは、お前はすぐそんな事言うよな」
「ほう、酔っぱらいの癖に数が数えられるのか。 いいから横になれ」
「じゃあ一緒に寝よう」
そう言って、天狐を抱き寄せた。
土は床に散らばった。
それを引き攣った顔で眺める天狐の柔らかな髪にキスを落とし、頬を指でなぞり、またじっと瞳を見つめる。
呆れたようにフロガを見上げたその瞳を見て、強い満足感に浸った。
こんな事をできるのも、させてくれるのも、自分だけなのだと言うことが嬉しいのだ。
これを独占欲という。
「酔い過ぎだ。 手ェ離せ」
「なんで? 俺のこと嫌い?」
「面倒だな……横になれって言ってるだろ」
その言葉に素直に従い、フロガは天狐を抱き締めたままベッドへ倒れた。
続けて、「ちゃんと布団に入れ」と怒られたので、毛布をかぶる。
「何やってんだ、お前」
呆れ気味に眉を顰める天狐を、フロガは再び抱きしめた。
大きな狐耳に触れ、髪を撫でて細い体を目一杯に抱き締めれば、琥珀色の瞳は甘えるように細められる。
華奢な腕がフロガの背中に回されると、唇が触れそうなほど顔が近くなった。
「天狐、愛してるよ。 お前は、俺のこと愛してる?」
「……さあ、どうだろうな」
瞳を閉じた天狐が、フロガの胸に顔を埋める。顔の横に来た大きな耳に頬を寄せ、フロガは小さく溜息をついた。
「お前はいつになったら愛してるって言ってくれるのかな」
フロガの言葉が闇に溶けていく。
天狐からの返答はない。
天狐はいつもこうだ。
どんなに愛を囁いても、絶対に返事をくれない。
それは照れ隠しなのだと、フロガはいつも勝手に納得するのだが、今日は酒が入っているせいで妙に寂しい気分になった。
もしかして、過去に愛したヒトでもいたのだろうか。と、そんな不安が湧いてくるのだ。
「俺以外のヒトに愛してるって言ったことある?」
「あるわけな……フロガ! お前もう黙れ」
思わず天狐が見上げると、フロガがにんまりと満足そうに笑っていた。
それが何だか苛立たしく思えて、体を捩ったのだが、がっしりとした腕は天狐を離そうとはしない。
それどころか、更に強く抱き締められてしまった。
「ああ良かった……俺だけなんだ……」
安心しきった様子でそう呟いたと思ったら、フロガはそのまま瞳を閉じてスヤスヤと穏やかな寝息をたて始めた。
そんな顔を見せられては、腕の中から出るに出られない。
仕方なくフロガの胸に頭を預け、天狐は再び眠る。
柔らかな尻尾でフロガを包み、逞しい背中を撫でてやると、また腕に力がこもった気がした。
──翌朝、頭痛と胸焼けでフロガは嫌な目覚めを迎えた。
ぐわんぐわんと目の回るような痛みと、喉奥から迫り上がってくるような胸の気持ち悪さに、思わず頭を抱える。
「てんこ……天狐……ちょっと、薬取ってくれ」
ベッドの上で膝を抱え、弱々しく嘆く。
そんなフロガを見下ろしながら、言われた通りの薬と水をベッドサイドに置いて、天狐が隣に座った。
「馬鹿が。 一体どれだけ飲んだんだ?」
「まあ、それなりに……」
薬を飲んで、再びベッドへ沈む。
今日が定休日で良かった、と小さく呟いて、また布団の中に潜って険しい顔のまま瞳を閉じた。
「お前は酔うと面倒臭いんだよ」
「……自覚してる。 ところで、なんでベッドの下に土が落ちてるんだ?」
「お前が持ってきたんだよ、この馬鹿。 誰が掃除すると思ってんだ」
「それは……ごめん……」
天狐の尻尾がフロガの頬を叩くが、柔らかな毛に包まれた尻尾は痛くも痒くもなく、ただ心地良いだけである。
しばらくそうしているうちに、天狐の尻尾が昨夜のように優しく体を包む。
程良い温もりと柔らかさと甘いような良い匂いに意識を預けていれば、何やら別の爽やかな香りがしてきた。
目を開けて見ると、天狐が煙管を吹かしている。
出てくる煙は煙草のそれではなく、天狐の魔力を煙にしたものだ。
フロガにその原理はわからないが、この煙は気分が落ち着いたり、部屋が涼しくなったり、暖かくなったりするので、天狐は何かと便利に使っている。
きっと具合が悪いフロガを気遣って、魔力を使ってくれたのだろう。
口には出さないが、こうして行動で愛情を示してくれるのが、嬉しい。
ゆらゆらと舞っては消えていく煙と天狐を眺めながら、フロガは強い幸福感とともに浅い眠りに落ちた。
──翌日の夜、再びダンが現れた。
またか……と言わんばかりに他の客達がダンを遠巻きに見ていたが、今日は随分とおとなしい。
酒も飲んでいないようで、しゃっきりとした顔をしている。
「マスター、迷惑かけたな。 これからはちゃんと自制しながら飲むことにした」
どうやら、あの一件のあとに妻からこっ酷く叱られたらしい。
それも一方的に責めるのではなく、身体を大切にして欲しいと泣き落としにあったというのだ。
あの気が強そうな女性が泣いたと言うのだから、フロガも横にいたドッドウェルも驚いた。
しかし、一番驚いたのはダンだろう。
「嫁に泣かれちゃあ仕方ねえ。 これからは程々に飲んでちゃんと飯を食おうと思ってる」
「ええ、それがいいですよ。 あんな飲み方してたら早死にしちゃいます」
「嫁にもそう言われたよ。でも俺は勝負が好きでなぁ、飲みっぷりのいいヤツを見ると、つい挑んじまう」
毛むくじゃらの顔をションボリとさせて、ダンは出された唐揚げを口に放り込んだ。
モグモグと口を動かし、やがて大きな喉仏がごくりと動いた。
「が、ここなら俺を負かした奴が眼の前にいる。 マスターを見てれば自制できるって寸法だ。 料理も美味いから腹が膨れて酒も入らなくなる。 完璧だろ?」
ニヤリと笑うダンに、フロガは首を傾げた。
隣で飲んでいるドッドウェルも顎に手を当てていたが、すぐに考えるのを止めて酒をグビリと飲んだ。
「ちょっと何言ってるかわかんねーけど、常連が増えて良かったな、マスター」
「はい。 いつでも来てくださいね、ダンさん」
「……俺、そんなに変なこと言ったか?」
酔っ払い達が活発になる夜半前。
人は酒を飲むとガラリと変わり、本性を曝け出すという。
それは誰にも見られたくない姿であったり、本音を言う機会であったり、様々である。
だから飲酒は程々に。 辛いときや特別なときだけ酔いつぶれよう、というのが常連客たちの暗黙のルールとなった。
あれ以来、ヴァルムでは無謀な飲み比べ対決は行われていない。




