一角兎のトマト煮
引き続き過去の話になります。
天狐はすぐにヒトを殺そうとする。
面倒だ、厄介だ、好みじゃない、理由は様々であるが、目の前のヒトを燃やして解決しようとするのは得策ではないし、そもそも解決とは言わない。
そんな天狐と出会って、一年。 フロガはその悪癖を、なんとか治そうとしていた。
「天狐。 この街は劇場があるらしいから、買い出し終わったら行ってみようか」
「あ? ああ、わかった」
大きな街には劇場がある。
演物はその地域によって異なるが、天狐の情操教育に演劇というものはちょうど良かった。
他者を思いやり、共感し、どうにか少しでも心優しくなってほしい。 燃やして解決するなどと安易で乱暴な行動が改善すれば良いと思ったのだ。
夜、眠る前には本の読み聞かせもした。
これも、ジャンルは色々なものを読んだが、主にハートフルな話であったり恋愛ものであったり、とにかく感情に重きを置いたものを読んだ。
──結果、天狐はヒトの心を理解したうえでちょっと燃やそうとするようになった。
ある意味悪くなった気もするが、前よりはマシだ。
とりあえず、話し掛けてきた者を誰彼構わず燃やそうとする事はなくなったので、フロガは手応えを感じていた。
「今日の演物は大衆演劇……恋愛ものか」
恋愛ものは説明が難しい。
本や歌なら文字で説明できるが、演劇となると更に感情が乗ってくるので解釈が異なるときがある。
そんなときは、適当にはぐらかした。
今日の演劇は、星祭りが近いということもあって、星を題材にしたおとぎ話だった。
読み聞かせた事がある物だったので、天狐もすんなりと腑に落ちたらしく、難しく考えることも無かったようだ。
帰りはカフェへ立ち寄り、天狐の好きなケーキを食べることにした。
「演劇どうだった?」
珈琲を飲みながら、向かいに座る天狐を眺める。
ホワイトチョコレートでコーティングされたケーキを口に入れた天狐は、質問に首を傾げた。
「お前の好きなハッピーエンドだったな」
「別に好きなわけじゃないよ」
「説明が楽だから好きだろ」
「まあ、それは……そうだな……」
天狐は演劇よりも、演劇が終わった後に食べる甘い物の方が好きだ。
ヒトの気持ちもある程度理解できてきたし、演劇鑑賞と本の読み聞かせはそろそろ終わっても良いのかもしれないと、フロガはぼんやりと考えていた。
「それにしても、毎回理解できない事がある」
「ああ、なに?」
今日は質問は無いと思っていたが、天狐が難しい顔をしていたので、フロガは珈琲をテーブルに置いて話を聴く姿勢をとった。
「なんで毎回と言っていいほど、最後にキスシーンや抱擁があるんだ?」
「………それは………うん……言われてみればそうだな」
色々あった末に結ばれた二人は最後に幸せなキスをして終了。
そんな話が多いのは事実だ。
「まあ、すごく簡単に言ってしまうと、それで終わりにすれば話にオチがつけやすいんだよ」
「キスと抱擁に何の意味があるんだ。 あんなもん、ただ欲を満たしたいだけだろ」
「キスも抱擁も、大体は好きなヒト同士ですることだって前にも言っだろ。 つまり、愛情表現だよ。 だから明確に二人が結ばれたっていうのが目でわかるし、長い説明が不要になる。 話の区切りとしても丁度いいんだと思う」
ふうん、と天狐がつまらなさそうに相槌を打つ。
愛だの恋だのといったものは、天狐にはまだ程遠い感情なのだろう。
再びケーキに視線を戻し、フォークを動かして口へ運び、美味しそうに目を細めている。
──この一年間、フロガは色々な事を天狐に教えてきた。
食事のマナー、文字の読み書きといった基本的な事から、演劇や本の読み聞かせのような道徳的なことまで。
天狐は頭が良く、理解力もあるので、教えた事はすぐに覚えたし、それをどうやって上手く利用するかまで頭を働かせることもできる。
最初に比べて、天狐もずっと過ごしやすくなっただろう。
ただ、こうして美味しい物を食べている瞬間が一番楽しそうだと思った。
天狐がケーキを食べ終わる頃、フロガも珈琲を飲み終わる。
このまま宿屋に戻って、明日の朝まで休む。
安い宿屋なので食事は出ない。 かわりに共有のキッチンがあるので、そこで夕飯の準備をすることにした。
リュック型魔具の中には食品を保存する為のポーチ型魔具も入っている。
ここに入れておけば、鮮度が保たれるので非常に便利なのだ。
その中から、一角兎の肉を取り出す。
食べやすい大きさに切り分け、塩を振ったあとに焼目が付くまで炒める。
炒めているあいだに、市場で買ってきたタマネギ、パプリカをスライスし、ニンニクとトマトは微塵切りにした。
焼けた肉は一旦避けておき、トマト以外の野菜をしんなりするまで炒める。
炒める工程が終わったら、肉とトマトと適当なハーブを入れてしばらく煮込めば、一角兎のトマト煮込みの完成だ。
これを部屋まで持って行く。
「天狐、夕飯食べる?」
「食べる」
部屋に備え付けの木製テーブルに鍋を置く。
蓋を開ければ、ハーブとトマトの香りが広がった。
天狐が早く食べたいと言わんばかりに尻尾を振っているので、まずは天狐の皿にトマト煮込みをよそってやる。
パンと飲み物を用意し、フロガも席についてから「いただきます」と言った瞬間、天狐はさっそく皿から肉を拾い上げた。
「美味しい?」
「まあな」
ぱたぱたと尻尾が揺れ、耳がピンと上を向いている。
これはつまり、美味しいという意味だ。
フロガも一口食べてみると、ハーブの爽やかな香りとトマトの酸味や旨味が口の中に広がる。 一角兎の柔らかな肉は力を入れなくてもホロホロと解け、噛むほどに微かな甘みを感じた。
ニンニクが食欲を掻き立て、一口二口とどんどん食が進み、いつの間にか皿の中は空になる。
朝も食べようと思って、鍋沢山に作ったトマト煮込みはすぐに無くなってしまった。
「美味しかったなぁ。 また作るね」
「ああ」
天狐が満足そうに身体を伸ばす。
そのまま食器を片付け、鍋ごと洗い場へ持って行った。
こうした洗い物くらいであれば、天狐は自然と出来るようになった。
料理も簡単な物なら作れる。
もしかしたら、そろそろ指輪を外して自由にしてやった方が良いのかもしれない。
フロガは食後のぼうっとした頭で、今後の事を考えた。
──きっと、天狐はもう最初に会ったときのように、村を燃やそうとしたりすることはないだろう。
耳と尻尾さえ他人に見られなければ、普通のヒトとして暮らしていける。
わざわざ自分と危険な旅を共にする必要なんてないのだ。
「フロガ。 洗い物終わったぞ」
「あ、ああ、ありがとう。 シャワー浴びたらもう寝ようか」
天狐は不思議そうに首を傾げ、「ああ」とだけ返事をして浴室へ入っていった。
今思えば、シャワーの使い方も最初はわからなかったな、とフロガは一年前の事を思い出す。
早々に浴室から出てきた天狐を微笑ましく眺めると、怪訝そうな顔をされた。
なので、適当に誤魔化す。
「ちゃんと髪乾かせよ」
「面倒だ」
「この宿寒いし、ちゃんと乾かさないと風邪ひくぞ」
髪は未だに自分で乾かそうとしない。
仕方が無いので、フロガのシャワーが終わってから一緒に乾かしてやる。
乾いてすぐにベッドへ埋もれる天狐の横に入り、フロガは照明を消した。
それからすぐに、背中を向けていた天狐がフロガの顔を見る。
「今日は本読まないのか?」
「ん? ああ、そろそろいいかなって。 読んでほしければ読むよ」
「……別に良い」
また背を向け、ゆっくりと肩が上下しはじめた。
それを見守ってからフロガも寝返りを打ち、瞼を閉じる。
(よく考えたら一緒のベッドで寝るっていうのもおかしいよなぁ)
天狐が何も言ってこないから気付かなかったが、デリカシーが無かったと反省する。
料金が安いからダブルベッドの部屋にしていたが、これからはツインにしたほうが良さそうだ。
そんな事を考えていると、後ろで天狐が動く気配を感じた。
「どうした?」
声をかける。
やや沈黙があってから、天狐の眠そうな声がした。
「気になったことがある」
「なに?」
「お前はよく私に本の内容や演劇の内容を説明するが、お前自身は説明できるほど経験あるのか?」
「……なにの?」
「れんあい……? 愛とか恋とかっていう奴だ」
フロガは黙った。
恋愛経験なんて無いに等しい。
そもそも初恋すらあやしいのだ。
そういえば、よく通っていたあの村に仲良くしていた女の子がいた。
料理を教えてくれたり、一緒に村の畑を整備したり、家に泊めてもらったりと、何かとよく一緒にいたし彼女の両親にも良くしてもらっていた。
だから、良くしてくれるお礼にと、ブレスレットをプレゼントしたのだ。 それを受け取った彼女が頬を赤らめていたのをよく覚えている。
そのときは、どうしてそんなに照れているのかわからなかった。
フロガとしては、たまたま屋敷に訪れた宝石商から自分の小遣いで買った普通のブレスレットをただの友達としてプレゼントしたに過ぎなかったのだ。
が、もしかしたら彼女に何かとんでもない期待をさせてしまったかもしれない。
──そして、そのまま死なせてしまったのだ。
その瞬間、フロガはとてつもない罪悪感が溢れてくるのを肌で感じた。
思わず飛び起きると、眠そうにしていた天狐が驚く。
「なんだ急に」
「……お、俺は……なんてことを……」
「は?」
「最低すぎる……デリカシーが無いにも程がある……」
「何言ってんだ?」
天狐も起きて、フロガを眺める。
柔らかな尻尾が背中を撫でたとき、フロガはハッとした。
もしかして、今も同じようなことをしているのではないだろうか、と。
「天狐……」
「なんだよ」
「寝る場所をわけよう。 次からツインにする。 今まで悪かった。 俺は、ひとつもそんな気が無かったんだ」
「マジで何言ってんだお前」
天狐がやや引いている。
こんな反応を見たのは初めてだったが、今はそれに気付けるほどフロガは冷静ではなかった。
「本当に、悪かった……」
「おい、ちょっと落ち着け。 大体、ツインって高いんだろ。 部屋に金かける余裕があるなら飯に金かけろ」
「でも……」
「あのなぁ、さっきから言ってる事の意味がわかんないんだよ! ちゃんと説明しろ」
天狐に胸ぐらを掴まれて、フロガはようやく少し冷静になった。
演劇や本で愛だ恋だと説明している割に、自分と周りのことはこんなにわからないものなのだ。
冷静になってみると、何故こうしてベッドの上で揉み合っているのかもわからない。
「俺ってすごく鈍感なんだと思う」
「そうか」
「天狐は、俺のことどう思ってる?」
「お人好しの馬鹿」
「そうじゃなくて……もうちょっと真面目に」
「……他人に構ってばかりの頭の悪いヤツ?」
それはただ言葉をバラしただけだ。
ただ、なんだか良くわからないが、フロガはほっとした。
ほっとしたついでに、今までの事を天狐に聞いてみる。
「一緒に寝るの嫌じゃない?」
「別になんとも思わないが」
「じゃあ、髪に触るのは?」
「面倒だから助かる」
「俺と旅を続けるの、どう思う」
天狐が顎に手を当てた。
即答しない所を見るに、恐らく離れて自由になりたい気持ちはあるのだろう。
「私は……」
「いや、いいんだ。 少し冷静になれた。 今日はもう寝よう」
口を開きかけた天狐の言葉を遮るように被せて、フロガは毛布の中に入った。
天狐の小さなため息が聞こえたが、それから何か言うこともなく、隣に横たわる。
程なくして、規則的な呼吸が聞こえてきた。
夜が更けていく。
薄い壁の向こうでは、他の宿泊客の声がした。
酔っ払って声の大きい者、女連れの者、人数の多いパーティー、どこの安宿でも変わらない、いつもと同じような騒音。
聞き慣れた騒音なのに、フロガはそれが気になって眠れなくなってしまった。
*****
翌朝、薄いカーテンを貫く眩しい朝日に起こされた。
結局ほとんど眠れていない。
まだ眠気の残る頭で、フロガは毛布に潜っている天狐を揺すった。
「天狐。 朝だぞ」
「……ん」
毛布の中から気怠い声がする。
一応声はかけたので、フロガはそのままベッドから抜けて朝食の用意をすることにした。
若干の気怠さが残っているので、簡単なもので済ませる。
パンを焼き、その上にハムと目玉焼きを乗せたものだ。
飲み物だけはちゃんと用意して、部屋に戻る。
天狐はまだベッドの中だ。
「天狐。 朝ごはん食べないのか」
「……たべる」
先に食事を始めて、毛布がもぞもぞ動いているのを眺める。
半分ほど食べすすめたところで、天狐はようやくベッドから降りてきた。
随分、寝乱れている。
フロガの向かいに座り、飲み物を飲む。
それからモソモソとトーストを食べ、フロガを見た。
「寝癖とクマが酷いぞ」
見るなり一言ぼやく。
フロガも軽く言い返した。
「お前こそ、部屋着めちゃくちゃになってる」
どうしたらそんなになるんだ。と聞きたくなる程だ。
しかしそれを気にする様子もなく、天狐はトーストを齧っている。
「今日はどうするんだ」
「依頼探して資金稼ぎしつつ移動かな」
「わかった」
宿を出たあとは冒険者ギルドへ向かった。
シルバーランクであるフロガが出来る事といえば、討伐やちょっとした採取、近場までの護衛といったものだ。
ギルドの掲示板に張られた依頼を眺めていくと、天狐がフロガの袖を引いた。
「なに?」
「でかい討伐がある。 あの程度なら私の魔法を使えばすぐに終わるぞ」
「それでも良いけど、あれはどうかな。 ちょうど移動するし」
フロガが指差したのは隣街までの護衛依頼だ。
内容を読んだ天狐が顔を顰める。
「護衛? 面倒だな……」
「討伐より安全で隣街に行く予定もあるからちょうど良いよ。 大きな討伐は危ないからまた次にしよう」
「私一人でやれば良いだけだ。 お前はその辺で休んでいればいい」
「俺が受ける依頼なんだから俺がやらないと意味ないだろ。 大体、お前に頼りっぱなしだといなくなったときに困るし。 はい決まりね」
顔を顰めたまま睨んでくる天狐を尻目に、受付へ行く。
指定された集合場所へ向かう途中も、天狐はずっと睨んでいたが知らないふりをした。
依頼主は年若い男の商人だ。
薄い茶髪と青い瞳に、整った顔立ちをしている。
商品を積んだ小さな馬車で隣街へ帰るのだが、道中は魔獣が出るので依頼を出していたのだという。
「ハーラントと申します。 こっちに来るときに依頼した冒険者のヒト、連絡取れなくなってしまって……助かりました」
男はニコニコしながらフロガに前金を渡した。
それから後ろにいる天狐に気付いて、更に笑顔になる。
「お連れの方ですか? ありがたい」
「ありがたい……?」
有難がられる意味がわからない。
聞き返すと、男は馬車の荷台へ向かって声をかけた。
すると、荷台から少年が顔を出し、こちらを控え目に眺めている。
歳は10歳くらいだろうか。
金色の細い髪と、父親に似た青い瞳が特徴的だ。
「息子のヨルクです。 ほら、降りてきてご挨拶しなさい」
「こんにちは……」
ありがたい、の意味を理解した。
天狐が女だから子供にも優しいと、ハーラントは思ったのだろう。
しかし天狐はヒト嫌いだ。 多分、子供も嫌いなのであまり近付けないほうが良い。
フロガは申し訳無さを感じつつ、そっと天狐の前に立って子供の視界を遮った。
「よろしくね、ヨルクくん。 俺はフロガ。 あっちにいるのは天狐……あんまり優しくないから近寄らない方が良いよ」
目線を合わせ、フロガはゆっくりと自己紹介をすると、ハーラントの後ろに隠れているヨルクが少しだけ笑顔を見せた。
大きな瞳はキラキラと輝き、夏空のような瑞々しい色の中にフロガを映す。
それが妙に眩しく感じて、フロガは逃げるようにハーラントを見上げた。
「じゃあ早速出発しましょうか」
「はい。 よろしくお願いします」
ハーラントが御者台に乗り、手綱を握る。
フロガは借りてきた馬に跨り、天狐はヨルクと共に荷台へ乗り込んだ。
念の為、馬車には天狐の補助魔法を掛けて、魔獣や不審者が近付いたらすぐに分かるようにした。
天狐を小さな子供と二人きりにすることに少々不安があるが、何か異変があればハーラントが気付くだろう。
「天狐。ヨルクくんの事、よろしくな」
「隣街に着いたら甘い物買え」
「ああ、隣も大きな街だからカフェにでも行こう」
一応、天狐が変なことをしないように、菓子で釣っておく。
出発してからしばらくは、道なりが平坦なので比較的安全に進められた。
森へ続く道に入り、木々が茂るにつれて道も狭くなる。
こういう所は魔獣や盗賊が潜んでいる事が多いので、フロガは警戒を怠らずに馬車の隣前を走った。
そんななかで、ハーラントがフロガに声をかける。
「フロガさん、もう少ししたら昼食にしましょうか」
「そうですね」
森の中は薄暗く、時間の感覚がなかったがそろそろ昼が近いらしい。
言われてから、フロガの腹も小さく鳴った。
日当たりの良い場所に出たところで馬車を停めて、食事の準備をする。
昼食はハーラントが用意した弁当だ。
透明のケースから見えるそれはボリュームのあるハンバーガーで、紫キャベツやトマトなどの野菜と牛肉の分厚いパティ、スモークされたベーコン、チーズが挟まれていた。
ソースは細かく刻んだオニオンとハーブをトマトピューレやマスタードで混ぜた香り高いオーロラソースだ。
「凄いボリュームですね! どこのお店で買ったんですか?」
「ああ、これは……実は自分で作ったんです」
「えっ! てっきり何処かのハンバーガーショップで買ったのかと……料理、お上手なんですね」
「そんな風に言ってもらうのは初めてですよ。 嬉しいなぁ」
ハーラントは照れたように笑い、ヨルクと天狐にも弁当を渡す。
ヨルクの分は小さな子供でも食べられる、シンプルなハンバーガーだった。
「さあ食べよう……ヨルク、そろそろ天狐さんから離れなさい」
ハンバーガーに気を取られて気付かなかったが、先程からヨルクが天狐のそばから離れない。
ハーラントに咎められるが、ヨルクは更に天狐の後ろへ隠れてしまった。
「ぼく、おねえちゃんと食べるよ」
ぎゅう、と天狐の袖をつかむ。
怪訝な顔をしている天狐だが、引き離すような行動をしないあたり、フロガの「よろしく」という言葉を守っているようだ。
代わりに、横目でフロガを見やる。
「えーと……ヨルクくん、そのままだと天狐もヨルクくんもご飯が食べられないよ。 お腹空いただろ?」
「うん……」
渋々、ヨルクが天狐の袖を離す。
しかしハーラントの横へは行かず、天狐の隣にぴったりと座った。
「すみません……ご迷惑ではありませんか?」
「……別に」
「ありがとうございます。 ヨルク、良かったな」
「うん! あのね、おねえちゃん、すごく優しいんだよ」
にこにこしながら嬉しそうにしているヨルクが、荷台で天狐に旅の話を聞いたことや、魔法を見せてもらった話をする。
その話を聞いて、フロガは天狐がちゃんと子供と接していた事に驚いた。
「天狐、お前……子供の相手出来たんだな……凄いよ」
「馬鹿にしてんのか?」
「褒めてるんだよ」
ヨルクの相手をする天狐は、フロガの知る天狐とはかけ離れている。
いつもの仏頂面が少しだけ優しくなり、ヨルクに目線を合わせていた。 声や言葉も丸く感じる。
あのすぐにヒトを燃やそうとしていた天狐が、こんな風に子供と会話をするなんて想像できただろうか。
もしかしたら、フロガが知らなかっただけで、天狐は子供好きなのかもしれない。
フロガは感動にも似た気持ちで胸がいっぱいになりながらも、昼食のハンバーガーに齧りついた。
「美味しい……」
ジューシーなパティとまろやかで甘酸っぱいソース。
スモークされたベーコンの香ばしさもよく合っている。
感動で胸がいっぱいなのに、美味しいハンバーガーでフロガの気持ちは更に満たされた。
そんな様子を見て、ハーラントは嬉しそうに笑っている。
「お口に合ったようで良かったです。 ヨルクもこんなに懐いて……」
「本当に美味しかったです。 ヨルクくんは……なんであんなに懐いているのか俺もよくわからないんですが……」
「きっと、亡くなった妻に似ているからだと思います」
ハーラントが、二人を眺めながら言った。
どこか遠くを見るような瞳は、恐らく二人ではなく昔の記憶を重ねているのだろう。
ぼんやりとしながら、ハーラントがぽつぽつと妻との思い出を語った。
それはよくあるような、男女の出会いの話。
平凡で、幸せに満ちた話であった。
「妻はヨルクを産んですぐに亡くなりました。 私が妻を忘れられなくて再婚できずにいたんですが……ヨルクは母親が恋しいのでしょうね」
ハーラントが申し訳無さそうに眉を下げる。
それから立ち上がって、ヨルクの横に座った。
ヨルクの頭を撫で、天狐を見やり、なんだか懐かしそうに微笑む。
「天狐さん。 これ、よかったらデザートにいかかですか?」
懐から、色とりどりの砂糖菓子を取り出す。
太陽光に照らされて輝くそれは、一見宝石のようにも見える。
しかし、一口食べてみればシャリシャリもちもちの食感と、色に合わせたフルーツの香りと甘みが広がった。
天狐の瞳と同じ琥珀色のそれは、オレンジの爽やかな風味であった。
「どうですか? 若い女性に人気で、うちの最近の目玉商品なんですよ」
「そうか。 美味いんじゃないか」
「たくさんあるので、ヨルクと一緒に食べてください」
お菓子の入った袋を天狐に渡す。
その際に触れてしまった天狐の手を、ハーラントは思わず握ってしまった。
ぴくり、と天狐が眉を小さく動かす。
反射的に立ち上がったフロガだったが、眉以外動く様子が無いのでそのまま見守っていると、ハーラントはうっとりした目で天狐を見つめた。
「天狐さん。 ヨルクと仲良くしてくれて、ありがとうございます。 あなたが優しいヒトで良かった」
「何か勘違いしているようだが、私は何もしていない」
「ふふ、そうでしょうか……あ! 失礼しました。つい……」
ようやく気付いたハーラントが手を離す。
それから、またフロガの隣に戻ってきたのだが、なんだか急に浮かない顔をしている。
「あの、フロガさん。 ひとつ聞いても良いですか?」
「なんでしょうか」
「天狐さん、薬指に指輪をしていますよね。 もしかして、あなた達は……その、恋人……なのですか?」
「違いますよ」
否定すると、わかりやすいくらいにハーラントの顔が明るくなる。
フロガは苦笑いしつつ、天狐へ視線を送った。
それに気付いた天狐が立ち上がる。
「……フロガ、結界に誰か入った。 見に行くぞ」
「ああ。 ハーラントさん、危ないのでヨルクくんとここで待っていてください」
天狐の嘘に乗る。
少し離れた場所まで行き、小声で話を始めた。
「天狐、ヨルクくんは何であんなに懐いてるんだ? 母親に似てるって言ってたけど、生まれてすぐ亡くなったんじゃ覚えてないだろ」
「知るか。 少し構ってやっただけだ」
「にしては、お前もちょっと楽しそうだけど」
天狐がバツの悪そうに俯く。
とりあえず、ヨルクが天狐に懐いた理由はわかった。
天狐が意外に子供好きだったということも。
「……ハーラントさんなんだけど」
「ああ、あの父親がどうかしたか?」
「多分、お前に惚れてる」
「は?」
「というか、亡くした奥さんを重ねてるんだと思う」
「はぁ?」
天狐が素っ頓狂な声を上げた。
フロガはハーラントの、熱のこもった視線を思い出す。
あれは恋をしている者の目だ。
「多分だけど、隣街に着いたら泊まっていってくれって言われると思う。 で、どこかのタイミングでお前に話を持ってくるかもしれない」
「……何の?」
「結婚してくれとか……まあ、あくまで俺の予想だけど。 とりあえず、俺も子供もいるから強硬手段を取ってくることは無いはず」
「なんだよ、強硬手段って」
「……まあその、いわゆる既成事実というか、なんというか」
「ああ……」
言葉を濁したフロガを見て、察した天狐が顔を顰める。
ただ、それ以上何か言うことはなかった。
「まあでも、全部俺の想像だから気にしなくて良いよ。 そろそろ戻ろうか」
顔を顰めたまま、天狐が頷く。
それから元の場所に戻り、再び馬車を出発させた。
街へ向かう途中、何度か休憩を挟んだ。
その度に、ハーラントから天狐への距離がどんどん近付いていっている。
こういうとき、いつもの天狐ならすぐに燃やしてしまうか、明らかに嫌そうな顔をするのだが、それも無い。
かと言って、嬉しそうな顔をしている訳でもなく、いつもの仏頂面のままなのだが、二人を見ているとフロガは妙な胸のざわめきを感じた。
それから街へ着いたのは、翌日の昼だ。
「フロガさん、天狐さん、本当にありがとうございました。 久々に楽しい時間を過ごせました」
「それは良かったです」
「お礼と言っては何ですが、是非泊まっていってくれませんか?」
フロガの予想通りだった。
横目で天狐を見ると、少しだけ眉を上げた。
これは泊まっても良いという意味だ。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「ありがとうございます!! さあこちらへどうぞ。 今、部屋の用意をしてきます」
広いリビングへ通されて、茶と茶菓子を出される。
その間に、ハーラントは二階の部屋でぱたぱたと忙しそうに動き、程無くしてリビングへ戻ってきた。
「ご案内します。 こちらがフロガさんのお部屋で、天狐さんはこちらをどうぞ」
言われてから、天狐がフロガを見上げた。
フロガは少し頷いて見せて、ハーラントにいつもと同じ人好きな笑顔を向ける。
「ハーラントさん、部屋は一つで構いませんよ」
「えっ、ですが……異性同士で同室というのは、その、よろしいのですか?」
「いつもそうしているので大丈夫です。 泊めてもらう身なのに、お手間を取らせてしまっては申し訳ないので……なあ、天狐」
「ああ。 同じ部屋で構わない」
それだけ言うと、天狐はさっさと部屋へ入ってしまった。
ハーラントは少しだけ眉を下げて、にこりと笑う。
「では、必要なものがあったら言ってください。 食事の準備をしますね」
「ありがとうございます。 お手伝いしますよ」
「いえ! お客様に手伝わせるなんて……」
「俺も料理好きなんです。 一緒に作りましょう」
「そうなんですか! では……」
ハーラントが嬉しそうに頷く。
それから二人で料理をして、その間天狐はヨルクの相手をしていた。
四人で食卓を囲み、雑談をして、夜も更けてきたところでハーラントはヨルクを寝室へ連れていく。
キリが良いので、フロガと天狐も部屋へ行くことにした。
「ハーラントさん、今日はありがとうござました。 とても楽しかったです」
「こちらこそ。あの……天狐さん、少しだけお時間よろしいですか?」
天狐がフロガを見上げる。
その様子を、ハーラントはじっと見つめた。
「じゃあ俺は先に部屋に行ってるね」
フロガがリビングを出る。
扉を締めるふりをしてから、見えない位置に立って耳を傾けた。
またもフロガの予想通り、ハーラントの声で「結婚してほしい」という言葉が聞こえてきた。 天狐はなんと答えるだろうか。
沈黙の間、また胸がざわつく。
これは不安なのだろうか。 それとも、別の知らない感情か。
フロガはそれを抑え込んで捨てるかのように、静かに息を吸って吐いた。
──一方、結婚の申し込みをされた天狐は無言でハーラントから距離を置いた。
その距離を、ハーラントは構わず詰めてくる。
「天狐さん……返事は今すぐにとは言いません。 ですが、俺は本気で貴方に惚れてしまった。 ヨルクも貴方に懐いている。 嫌じゃなければ、少し考えてみて欲しいんです」
天狐が顎に手を当てる。
それから、鋭い目でハーラントを見つめた。
「なら、ひとつ教えてやるからお前も一晩考えると良い」
「え? なんです……?」
「私はヒトじゃない」
言ってから、天狐が立ち上がる。
同時に、しまっていた大きな狐耳と九本の尻尾が現れ、ふわりと揺れた。
「は……えっ……?」
「セリアンスロープでもない。 きっと魔獣のほうが近いんだろうが、それとも違う。 つまり、ただのバケモノだ」
目を見開いて、口をあんぐりと開けているハーラントの周りを、尻尾がふらりと舞う。
「お前もお前の息子も、私の気分一つで消炭にすることができる。 いや、それどころか、この街を一瞬で消し去る事だって可能だ。 そんなとき、お前に私が止められるか?」
「いや……その……それは……」
「私は誰の命令も聞くつもりなんてないがなぁ。 まあ一晩考えてみろ」
猛獣のような冷ややかな瞳がハーラントを一瞥する。
瞬間、ハーラントは身体が恐怖で硬直していくのを感じた。
頭のてっぺんから足の爪先まで、何かに貫かれてしまったように動けない。
辛うじて息ができている。 自分は今、生かされているのだ……そんな感覚に陥る。
天狐が部屋を出た瞬間、ハーラントはその場に崩れ落ちた。
「バケ……モノ……」
汗だくの額を拭い、息を整えた。 が、体の震えは止まらない。
しばらくはそこから動くことができず、ハーラントはただ空を見つめることしかできなかった。
リビングから出た天狐が、フロガを流し見る。
どこか安心したような目をしたフロガが小さく頷き、部屋へ向かうジェスチャーをしてみせた。
階段を登るフロガの後ろについて、部屋へと入る。
それから、天狐は大きなため息を吐いた。
「お前の予想通りだったな」
「まさかここまで当たると思わなかったけどね」
ベッドへ座ると、その隣にフロガが座る。
どこか疲れたように大きなため息を吐いたので、天狐は九本の尻尾を揺らし、フロガの頬を撫でて身体を包んだ。
心地良さに一瞬目を細めたフロガだったが、すぐに精悍さを取り戻して天狐を見る。
「天狐……ハーラントさんは商人なんだぞ? 万が一捕まったらどうするんだよ。 前にも言ったけど、お前みたいに尻尾が九本もある狐なんて珍しいんだから……」
「うるさい。 面倒だからちょっと脅しただけだ。 それに、あいつの息子はこれを見ても驚かなかった」
「ヨルクくんに? いつ?」
「馬車の中だ。 口止めもしておいた……寒かったんだから仕方無いだろ」
だからヨルクはあんなに懐いていたのか、とフロガは納得した。
子供は素直だから、言い触らすような事はしないだろうが、問題はハーラントだ。
難しい顔をしているフロガの頬を、再び尻尾が撫でる。
「あれだけ怯えてたんだ。 ハーラントも変なことはしないと思うが」
「……それもそうか」
なんせ、天狐は街をひとつ消すと脅したのだ。
実際にそんな事はしないとは思うが、あの眼孔と異様な姿は充分説得力がある。
ハーラントも動けなくなる程度には怯えていたし、あまり心配しなくても良いのかもしれないと、フロガは思い直した。
(それにしても、大した依頼じゃなかったのにやたら疲れたな)
甘い香りがする柔らかな被毛に包まれながら、ゆっくりと今回の依頼を思い返す。
馬車の護衛なら、過去に何度もやっていたし、今回は距離も短かった。
それなのに、途中から妙に気持ちが落ち着かなかったのだ。
対して、今はとても落ち着いていて、安心感すらある。
この感情が何なのかよくわからない。
わからない方が良いのかもしれない。
フロガはそっと天狐の尻尾から離れて、向き直った。
今日は天狐に言わなければいけない事があるのだ。
「どうした?」
天狐が不思議そうに首を傾げる。
フロガは少し眉を下げ、いつものように笑ってみせた。
「天狐。 そろそろ、お前の指輪を外そうかと思ってるんだ」
「ようやくか。 早くしろ」
「で、約束して欲しいことがある」
「安易にヒトを殺すな、だろ。 理由もなく燃やすのも禁止、ヒトの為に魔法を使え。 他に何かあるか?」
「それだけわかっているなら、もう何もないよ」
何も言わなくても、天狐はわかっている。
だから、もう自分はそばにいなくていいし、安心して一人にすることができる。
フロガは天狐の手を取り、ベッドから降りて片膝をついた。
紫紺色の宝石がついた指輪を、ゆっくりと外していく。 強い魔力を感じるそれは、誰が取ろうとしても全く動かなかったのに、フロガが触れば簡単に外れてしまった。
これが外れた今、天狐はもうフロガの言葉では制御できなくなる。
指輪が無くなった薬指を撫でた天狐が、口の端を吊り上げた。
「ようやく私の魔法を最大限使うことが出来る」
「俺の約束はちゃんと守れよ」
「わかっている。 ああそうだ、今度こそでかい討伐に行くぞ」
「いや、お前はもう俺に付いてこなくても良いんだよ」
「……なんだと?」
天狐が眉を顰める。
そんな天狐の隣に座り、フロガは外した指輪をポケットにしまった。
「この指輪が無いって事は、お前は今自由になったって事だ。 だから、無理に付いてくる必要はない。 お前の好きに行動して良い」
「私を一人にして良いのか? お前がいなくなった瞬間、この街を消すかもしれないんだぞ」
「……そんなこと、もうする気も無いんだろ」
言われて天狐が黙る。
それから何か考えるように目を伏せていたが、やがて何も言わずにベッドへ潜ってしまった。
「天狐、今までありがとうな」
返事はない。
代わりに尻尾がぱたりと揺れた。
自分で提案してみたものの、フロガは急に寂しさがこみ上げてきた。
あの柔らかな尻尾に包まれる事はなくなるし、食事は一人でする。
魔法は魔石で何とかしなければいけない。
話し相手もおらず、一人で淡々と旅を続けるそれは、前のように死に場所を求めているような虚無に近い旅になるだろう。
──だが、それで良い。
天狐と過ごした一年間が異質で、また元通りになるだけだ。
そのうち、この寂しいと思っていた事すら忘れてしまう。
フロガはそう思う事にして、ベッドへ潜った。
翌朝、ハーラントが怯えた様子で朝食を用意していた。
なんだか気の毒なので、フロガは早めに身支度を整えて朝食はとらずに出発することにした。
まだ朝も早い時間なので、ヨルクに声をかけることは出来なかったが仕方が無い。
それをハーラントに伝えると、安心した様子で力なく笑った。
「お世話になりました……良かったら、道中召し上がってください」
「こちらこそ、お世話になりました。 お弁当まで、ありがとうございます」
わざわざ弁当まで包んでくれたので、フロガは申し訳ないと思いつつも、それを受け取った。
あれだけ天狐に近付いていたハーラントだったが、今はチラと目を合わせただけで肩を震わせ、冷や汗を額に浮かべている。
多分、これ以上いるとハーラントの気が持たないので、受け取った弁当をしまって早々に家を出る。
街の出口まで来たところで、フロガは足を止めた。
「俺はこのまま北の方へ向かう。 お前はどうする?」
「私は、一昨日いた街に戻る」
「ああ……栄えてて治安が良かったからな。 良いと思うよ」
ほんの少しだけ、このまま一緒に旅をしてくれるのではないかと思ったが、やはり天狐は一人で行動したいらしい。
別れの挨拶もそこそこに、フロガは天狐に背を向けて北を目指す。
途中振り返ってみたが、そこにはもう天狐はいなかった。
*****
北の地、ルオデは極寒の地である。
魔獣も多く、冒険者以外はあまり立ち入らない。
緑の多かった風景に雪がちらつきはじめたころ、フロガは身体の底から冷えていくのを感じた。
「早めに何処かで宿を見つけないとな」
と、独りごつものの、村が近いようには思えない。
目指しているリステイスまではまだ遠く、フロガは野宿も視野にいれていた。
こんなとき、天狐がいれば魔法でテントの中を温めてくれるのだが、残念ながらもういない。
結局、暗くなっても村を見つけることはできず、フロガは森の中にあった洞窟の中にテントを張り、夜営の準備を始めた。
焚き火を起こし、携帯用の暖房魔具で暖を取り、簡単なスープを作って冒険者向けの携帯食に齧りつく。
一人であれば、これで充分だ。
しかし、暖かさは天狐の魔法のほうが強かったのか、携帯魔具だけでは芯からの寒気には効果がない。
早めに寝袋に包まって、フロガはうとうとしながら朝を待った。
陽が昇り始めたころ、そろそろ寝袋から出ようと身体を起こす。
起こそうとしたが、重くて動けないことに気付いた。
ついでに頭の中で鋭く鐘が鳴っているような感覚に苛まれる。
これは風邪の症状だ。
「こんなところで風邪か……」
暖房魔具はいつまでも効果があるわけではない。
ギルドから支給されている救助要請の魔具を使えば、ギルドの職員が転移魔法で駆け付けてくれるが、フロガはそれを一年前に助けた村人に捨てられた事を思い出した。
言えばすぐに貰える物を、横着して貰っていなかったのだ。
最悪、このまま風邪が悪化すれば死ぬかもしれない。
「まあ、いいか」
酷い悪寒に身を震わせながら、フロガはぼんやりと天幕を眺めた。
やがて視界が歪み、暗くなっていく。
眠気なのか、熱で気を失う直前なのか自分ではわからないが、こうして気が遠くなる感覚は天狐と離れてから不眠症が再発したフロガにとって久し振りであった。
頭の中で響く金切り音と脈打つ心臓の鼓動に身を任せるなか、フロガはついに意識を手放した。
*****
──フロガは夢を見た。
丸くて柔らかい物に包まれる、不思議と幸せな気持ちになる夢。
夢ではなくて、死に近付いた際の幻覚なのかもしれない。
だから、こんなにも幸せな気分になっているのなら、このまま死んでも構わないとすら思った。
ふと、酷い喉の渇きを感じて意識を取り戻した。
夢心地の柔らかな世界だったのに、急に重い実体を感じた瞬間、生きているのだと察した。
瞼が重くて、開くのも億劫だ。
頭の中の金切り音はそのままに、ぞわりとする悪寒が身を震わせた。
しかし、何故か眠る前より空気が暖かい気がする。
少し熱が下がってきたのか。
なら、このまま回復するかもしれない。
そのことに、フロガは少しの落胆すらあった。
無意識に軽いため息が出ると、柔らかい空気が肺に入り、吐かれる。
──テントの中はこんなに暖かかっただろうか。
そう思ったとき、冷たい何かが額に触れた。
思わず、重たい瞼を持ち上げる。
「起きたか」
聞き慣れた声。
ふんわりと尻尾が頬を撫で、琥珀色の瞳がフロガを見つめた。
「天狐……? どうして……」
「リステイスに先回りして待っていたが来ないから探しに来た。 本当に馬鹿だな、お前は」
馬鹿、という言葉に色々な意味が含まれているが、それを全て理解できるほど、フロガは回復してはいない。
ただ、何とも言えない安心感と幸福感に包まれているのは確かである。
「身体起こせるか? 薬買ってきてやったから飲め。 少し寝たら転移魔法使ってリステイスまで行って宿取るぞ」
背中に腕を通され、ゆっくりと起こされる。
薬を飲み、天狐が作ったであろうオリザの煮汁を飲まされて、また寝かされた。
程無くして、フロガは再び眠る。
次に起きたときには、寝袋の中ではなくベッドの中であった。
軽い毛布が身体を包み、空調の効いた部屋は微かに良い香りがした。
重かった身体は軽くて、悪寒も頭痛もすっかり無くなっている。
フロガは身体を起こすと、部屋を見回した。
ベッドの横にサイドテーブル、離れた場所に椅子が二つとテーブルがひとつ、暖炉もある。
(夢か幻と思ってたけど……)
死ぬ間際の幻、というにはあまりにも現実的だった。
こうして宿の一室で目覚めてみると、やはり幻でも夢でもなかったという事がわかる。
ならば、あのとき介抱してくれた天狐も現実だったということだろうか。
ぼんやりと考えていると、部屋の扉が開いた。
「もう起きれるのか」
天狐だ。
食事を乗せたトレイをテーブルの上に起き、フロガの前まで歩いてくる。
ベッドに座って額に手を当てれば、少しだけ眉を動かした。
「まだ熱があるな、もう少し寝ていろ。 私は……」
立ち上がろうとする天狐の腕を掴む。
やや驚いたように目を丸くしたが、天狐はそのまま腰を下ろした。
「天狐……」
言葉の先を考える。
聞きたい事が沢山あって、感謝も伝えたい。
ただ、その後が怖いと思った。
本当は通りすがりにたまたま助けただけで、また離れるのかもしれない。
それが普通だ。 好きにして良いと言ったのはフロガ自身なのだから。
しかし、今のフロガはこの掴んだ腕を離したくないと思ってしまっている。
同時に、天狐を縛り付ける事への罪悪感もあった。
「どうした?」
中々喋らないフロガに、天狐が問う。
フロガは珍しく目を泳がせつつ、小さく口を開いた。
「……ありがとう。 助かったよ」
「ああ、そうか」
未だ、掴んだ腕を離せない。
その手を尻尾がふわりと撫でた。
「……どうして戻って来たの」
結局選んだ言葉がこれだ。
目線は伏せたまま、掴んだ腕を見つめて天狐の言葉を待った。
少し間を置いてから、ようやく天狐が口を開く。
「お前、また作るって言ってただろ」
「……何を?」
「一角兎をトマトで煮たやつ。 クッキーやゴールデントースト、ククレインの卵で作ったオムレツ……妖精花のスープもそうだ」
「ええ……」
「それに……一人で食う飯は、美味くない」
顔を上げると、琥珀色の瞳がフロガを捉える。
「私はこのままお前と旅を続けるつもりだ。 わかったら早く治して飯を作れ」
ふわふわと尻尾が頬を叩く。
天狐の腕を離し、その尻尾を優しく撫でて、フロガはまた目を伏せた。
「ああ、わかったよ」
思わず溢れた笑みを隠すように尻尾へ顔を埋める。
そんなフロガを天狐は軽く鼻で笑うと、九本の尻尾で包み込んだ。
久し振りの柔らかさに身を預けようとするが、ゆっくりと尻尾が引いていく。
するりと身体を抜け、フロガの頬を撫でたかと思ったら尻尾の代わりに天狐の細い腕が伸びてきた。
驚く間もなく、ふくよかな胸の中に抱き締められる。
「……ん??? え??」
意味もわからず困惑してしまう。
尻尾とは少し違う甘い香りと、弾力のある柔らかさ、服の上からでも感じる人肌の温かみ。
それは何とも言えない多幸感を与えてくれるが、同時にフロガは混乱もしていた。
「て、天狐……急にどうしたんだ……?」
思わず意図を聞く。
いつもと変わらない様子の天狐は、フロガを解放して不思議そうに首を傾げた。
「抱擁は愛情表現なんだろ。 あと、風邪とか辛い時はこうすると良いってあのガキから聞いた」
「愛情、表現……」
ガキ、というのはヨルクのことだろう。
まさか馬車の中でそんな話をしていたとは知らなかった。
それより愛情表現とはどういうことなのか。
フロガは更に困惑した。
「お前と離れている間に考えてみた」
困惑しているフロガに、天狐が語り出す。
「ハーラントに手を握られた時にわかったが、お前以外に触られるのは気持ちが悪いようだ。 距離を詰められるのも同じだ」
「あれ、気持ち悪くて無表情になってたの?」
「焼くとお前が怒るからな」
「当たり前だろ」
気持ちが悪くて燃やそうとも思ったが、それを我慢していた為に無表情になっていたらしい。
フロガとしては、ハーラントを受け入れているようにも見えたので、間に入らなかった事を少し反省した。
それはわかったが、愛情表現の意味がまだわからない。
「で、考えてみたって?」
「お前にこうする事で自分がどう感じるか、だ」
「それで急に……」
「ああ。 少し試してみたくなった」
天狐の尻尾が再びフロガに絡む。
掌を滑らせれば、天狐は柔らかく目を細めた。
「不思議だがお前と長く旅をした事で、私はお前に触るのも触られるのも嫌じゃないらしい」
「そっか」
「相棒として、お前を信頼している」
「……相棒か。 そうだよな、俺たちって結構良いコンビになってきたよな」
天狐がこんなに信頼してくれていたとは思わず、フロガは素直に嬉しくなった。
今まで読み聞かせなどの質問の回答に苦労していたが、今この瞬間にその苦労が報われたような気持ちになったのだ。
そんな気持ちを知ってか知らずか、天狐は相変わらず尻尾を絡ませてくる。 するすると尻尾で撫でられてやや擽ったい。
ただ、そうされるのは悪い気分ではなかったし、何より暖かかった。
こうして暖かくなると、また眠くなってくる。
目を閉じて横になったフロガに、天狐はそっと寄り添った。
温かくて柔らかくて、良い匂いに包まれるそれは、テントで震えていた時に見た夢と同じだ。
フロガはゆっくりと気が遠くなるなかで、あの夢の正体がわかった気がした。
「そうか……天狐……お前……ずっとこうしてくれてたんだな……」
呟きは胸の中へ消えていく。
意識がどこか遠くへ落ちたとき、夢の中でフロガは天狐のために沢山料理を作った。
大好きなクッキーはデザートにして、また作ると約束した一角兎のトマト煮や妖精花のスープでフルコース仕立てにしたものだ。
天狐が嬉しそうにそれらを食べると、フロガは何とも言えない満足感と至福に満たされる。
そして最後は「また作るね」とお決まりの台詞を言うのだ。
そんなフロガの見た夢が正夢になったのは、風邪が治ってすぐの事だった。




