チキンソテー
腹が、減った。
最後にまともな食事を取ったのはいつだろうか。
ジャレットは空腹に鳴く腹をおさえ、縺れる足を前へ進めていた。
今朝は市場にいた老婆から林檎を一つ、奪った。
昼は喫茶店の裏にあるゴミ箱から、出涸らしの茶葉とパンの切れ端を。
そして今……今は何時だろう? 周りには人が少なく、上を見上げれば星が輝いていることから、夜半くらいだろうか。
(ここは、どこだ……)
空腹で意識が朦朧として、自分が今どこにいるのかすら分からない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
つい一月前までは、家業である帽子屋で妻のパメラと楽しく暮らしていたと言うのに。
(あいつが悪いんだ……)
それは最近、斜向かいに出来た新しい帽子屋。
奇抜で人を選ぶような、悪趣味なデザインをメインに取り扱っている店だ。
そんなもの流行るわけがないと気にも留めていなかったのに、気づけばあれよあれよと客はそっちに流れていってしまった。
挙句には、妻のパメラまでジャレットの帽子を非難したのだ。
それで喧嘩になって、家を飛び出して、行き場のないストレスをギャンブルに充てた。
結果は大当たり。 すぐに家に戻って、金を嫁に見せたところで「家を出て行け」と追い出されてしまったのだ。
ギャンブルで当てた金はギャンブルで使い果たした。
(あの帽子屋も、パメラも、全部あいつらのせいじゃねぇか)
未だ治らない怒りを抱え、ジャレットは歩く。
行く宛もなく、南区のはずれまで来たとき、ジャレットの鼻を良い匂いがくすぐった。
「食堂ヴァルム……? こんな店、いつの間にできたんだ」
赤茶色の煉瓦がつまれた、古くて小さい店。
店内からは何かを煮詰めている柔らかな香りが漂ってくる。
何を煮ているかはわからないが、浴びる程食ってみたい。
……しかし、ジャレットには金がなかった。
飯を食いたい、暖かいものでも冷たいものでも何だっていい。
そう思ってポケットに手を突っ込むが、出てくるのは埃だけであった。
「はあ……クソっ……」
口汚く嘆く。 が、嘆いた所で何かが出てくる訳ではない。
肩を落とすジャレットが踵を返そうとしたとき、古めかしいドアが開いた。
「あ、いらっしゃいませ」
中から出てきたのは、背の高い優男……マスターのフロガである。 「OPEN」と書かれているプレートをひっくり返そうとした手を止めて、ジャレットを見るなり人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「いや、俺は……」
客じゃない。 そう言おうとしたとき、ジャレットの頭に奸策が浮かんだ。
こんな飄々した優男相手ならば、容易に食い逃げが出来るのではないか、と。
ジャレットは体力には自信があった。 少なくとも、この屈託のない笑顔を浮かべる、まるで世間を知らなさそうな男相手なら、簡単に撒ける自信がある。
「そろそろ閉店なのですが、簡単な料理と酒なら用意できますよ。 いかがですか?」
フロガがドアを開けて促す。
閉店、ということは中には客がいないと言うことだ。
つくづく都合がいい。 ジャレットはフロガを見てほくそ笑み、促されるまま中へ入った。
柔らかな照明が煌めく店内には、やはり客はいなかった。 店員もフロガ一人。
全てジャレットの思惑通りだ。
これはきっと空腹に耐える自分に神様が恵んでくださったのだ。
ほんのりと香る酒の匂いに心が踊り、いそいそとカウンター席につく。
「こちらはメニューです。 他にも食材さえあれば何でも作りますよ」
「へえ……まあいいや、俺は腹が減ってるんだ。 味が濃くて腹に溜まるものと酒をくれ」
「かしこまりました。 少々お待ち下さい」
メニューを開くことなく注文し、ジャレットは満足げに溜息をついた。
(余裕で逃げられそうだな。 今日は久し振りにたらふく食えるぜ)
厨房で物音がする度に期待感が高まっていく。
この音は何を炒めているのだろう、この不思議な香りはハーブだろうか?
そんな事を考えながら料理を心待ちにする時間は酷く長く感じた。
「お待たせ致しました。 スープは熱いので気を付けて食べてくださいね」
カウンターから出てきたフロガが料理を並べていく。
生ハムのガレットと根菜がたっぷり入ったスープ、それから丸パンが2つと赤ワインが注がれたグラス。
何よりも腹を刺激したのは、メインのチキンソテーだ。
香ばしい焼色の付いた皮、艶々とした照りが眩しい脂、ハーブの芳香はジャレットの口の中を唾液で満たした。
「ごゆっくりどうぞ」
フロガが言い終わるのを待たず、食器を持ち上げる。
最初は根菜のスープから。
熱いと言われたがそんなことはどうでも良かった。
口の中を火傷しようが、喉が爛れようが、とにかく腹に流し込みたいのだ。
目を丸くしたフロガが慌てて冷水を持ってくるが、ジャレットはお構いなしに熱い口の中へワインを流し込んだ。
「あんた! 水なんか良いから酒持ってきてよ!」
「は、はい」
叫ぶジャレットにたじろぎながらも、言われた通りにワインの瓶をカウンターに置く。
ガツガツと勢いよく食べていくジャレットを横目に、フロガは厨房の片付けを進めた。
(ああ、うまい! こんなにうまいもの、久しぶりだ。 しかもこの酒も中々上等なものだ)
チキンから溢れる甘い肉汁。
パリ、カリ、と香ばしく焼きあがった皮。
生ハムと新鮮な野菜が乗ったガレットは口の中をさっぱりとさせてくれる。
飲み干してしまったスープは器を上に掲げ、残りの一滴まで口に流し込んだ。
「……ふう」
満腹だ。
酒も程よく体に染み込んだが、走って逃げられる程度の意識はある。
何より、あんな優男に捕まるわけがない。
あとはタイミングを見誤らなければ、いける。
「なあ、マスター。 ちょいと茶でも入れてくれないか」
「かしこまりました。 紅茶が良いですか?それとも珈琲をお淹れしましょうか」
「時間かかる?」
「そうですね……お急ぎなら、紅茶のほうが良いかと」
「いや、珈琲の方がいいな。 時間ならかかってもいいからさ」
「では、少々お待ちください」
そう言って、フロガが後ろを向いて厨房の方へ引っ込んでいった。
──チャンスだ。
でも焦ってはいけない。 ゆっくり立ち上がって、素早くドアへ向かう。
音を立てないように、開けて、閉めて……あとはひたすら走った。
料理で満たされた腹が重いが、それでも素早く走る。
店が見えなくなって、暗い路地を抜けて、その更に奥まで来たところで、ジャレットは足を止めた。
壁に手をつき、自然と溢れた笑いを抑えることもなく、肩で息をしながら勝利の高笑いを繰り返す。
「はあ、は、あはは。 やっぱ余裕だったな」
「お客様、そんなに走ってどうなされたのですか?」
はっ。と思わず息を止めた。
声がしたのは後ろの方。
振り返れば、あの優男が立っていた。
「お前!? どうして……」
「まだ代金をいただいていなかったので……」
少し困ったような顔をして、さも当然のように背筋を伸ばし、呼吸の一つすら乱さず立つその姿は、先程店にいた時となんら変わり無い。
同じように走ってきたのなら、ため息くらい漏らしたっていいはずだ。
着衣も、髪の毛すら、なに一つとして走ってきた痕跡がない。
何より、後ろで声をかけられるまで、気配すら感じなかったのだ。
酔って幻覚でも見ているのだろうか。
「お前……お前、何なんだよぉ!!」
「いえ、ですから代金を……」
ブンブンと腕を振り回すジャレットを避けながら、フロガが再び代金の催促をする。
しかし、ジャレットは聞く耳を持たず再び逃げようと振り返った。 が、運悪く近くにある樽にぶつかってしまう。
そのまま壁にぶつかり、石に蹴躓き、再び樽に頭をぶつけて、とうとうジャレットは地面に倒れた。
「大丈夫ですか?」
その一部始終を困った顔で眺めていたフロガが、顔を覗き込む。
しかし、反応はなかった。 気絶しているのだ。
何か恐ろしい化物を見た、とでも言いたそうな焦った顔のまま、揺すっても声をかけても、ジャレットが目覚めることはなかった。
──どこか遠くで声がする。
誰かが何かを強く非難しているような、強い口調がジャレットを深い眠りからゆっくりと引き上げた。
「こんなおっさん、さっさと捨ててこい。 食い逃げなんかろくなもんじゃないぞ」
「なに言ってるんだよ。 多分、この人何か事情があったと思うんだ。 すごくお腹を空かせていたし、意識だって朦朧としていた。 しばらく様子を見よう」
「ここは病院じゃないんだよ。 それに、優しくしてつけ上がったらどうするんだ」
天狐がそう言い終わったところで、食堂の隅に寝かせていたジャレットが、ヨロヨロと起き上がった。
「お、俺はなにを……」
「お客様、昨日急に倒れたんですよ。 大丈夫ですか?」
食い逃げをして、このマスターが音もなく追いついてきた所までは覚えている。
それがとてつもなく恐ろしく感じたことも。
だから、ジャレットはフロガの顔を見るなり、その場で頭を垂れた。
「す、すまねえ! 俺、嫁さんに家を追い出されて……それで、もう何日も飯食ってなくて……!」
「そうだったんですか、大変でしたね。 お代は結構ですから、開店まで少し休んでいってください」
フロガの言葉に、天狐が「ああ?」と声を上げる。
「ふざけんな! そんな生易しい話があるか! おい貴様。 有金全部置いていけ」
「それがその……俺、一銭も金がなくて……それに行く宛もねえんだ。 なあ、ちょっとだけここで働かせてくれないか? 頼むよ」
「知るか。 金がないなら、さっさと出て……」
「構いませんよ。 じゃあまずは朝食を取って、それから俺と一緒に仕込みをしましょう」
天狐の言葉を遮って、フロガが前に出た。
それを聞いて目を丸くしたのは、もちろんジャレットだけではなく、天狐も同様だ。
「いいのかい!? すまねぇ、旦那!」
「おいフロガ、いい加減にしろ! お前はどこまでお人好しで馬鹿なんだよ!」
「でも急に追い出したら気の毒だろ。 その代わり、きっちり働いてくださいね」
「あ、ああもちろんだ! 俺はジャレット・ゴードン。 旦那は……」
「フロガです。 こいつは妻の天狐です。 ちょっと色々あって人見知りで口は悪いんですが、気にしないでください」
天狐の琥珀色の瞳が、ジャレットとフロガを交互に睨みつける。
それから小さく舌打ちをして、二階へ上がっていってしまった。
「綺麗な奥さんですねぇ。 でもおっかねぇや。 まるでうちの嫁さんみたいだ」
「あはは。 ジャレットさんは奥さんと長いんですか?」
いいながら、フロガがカウンターの中へ戻っていく。
それからすぐに、パンとスープと半熟卵を持って来て、ジャレットの前に並べた。
「ああ、嫁の家は長年帽子屋をやっていてね、俺はそこで十代の頃から住み込みで働いていたんだ。 それで、俺の方からあいつに惚れて……ああ、こんな話ツマラねぇよな」
「そんなことありませんよ。 じゃあ、奥さんとずっと一緒だったんですね」
「そりゃあもう……三十年くらいになるか。 それなのにあいつは、俺の帽子のデザインを馬鹿にしやがった」
古臭いデザインではもう売れない。 だから、ジャレットなりに斬新なデザインを考えてみたのだ。
それなのに、彼女はそれを「まるで道化だ」と罵った。
「なあ、フロガさん。 あんたもあんな感じの嫁さんだったらわかるだろ? 旦那をなんだと思ってるんだってさ」
「……確かにあいつは口も態度も悪いです。 けど、信頼できる面もちゃんとあるんですよ。 たまにすっごくムカつきますけどね」
「信頼……? 信頼ねぇ。 俺にはわからねぇな」
「ゆっくり考えてみてください。 さあ、仕込みを始めましょう」
ジャレットにエプロンを渡し、厨房へ入っていく。
それから野菜を切り分けたり、簡単な下準備をフロガから教わり、ジャレットは手際よくそれを捌いた。
帽子屋の経験から、手先は器用なのだ。
体力にも自信がある。 だから、材料の整理整頓も難なくこなした。
そんなことをしているうちに、いつの間にか天狐が二階から降りて来た。
店内を掃除して、厨房の窯に火を入れ、また二階へ戻っていく。
熱くなってきた窯を覗けば、薪もないのに小さな火がポツポツと燃えている。
「薪がないのになんで火が燃えてるんだ?」
「まあ……そういう魔法ですよ」
「へえ、魔法かあ。 だからあの時、すぐに料理ができたんだな」
「作り置きもありますけどね」
そういえば、あのチキンソテーとスープはやけに美味かった。
魔法を使えば料理も美味くなるのだろうかと思ったが、その原理はジャレットには到底理解できなかった。
程なくして、フロガが店先の札をひっくり返す。 開店時間になったのだ。
ポツポツと客が来る中で、ジャレットは注文を取り、フロガの作った料理を盛り付け、運ぶ。
料理の盛り付けは、帽子のデザインを考えるときと同じようなものだ。 センス良く上品で美しく皿に料理を並べれば、フロガが驚きの声をあげた。
「すごいですねジャレットさん。 まるでレストランみたいだ」
「へへ……こういうのをずっとやってたんでね、得意なんですわ」
褒められて、つい嬉しくなる。
もしかしたら、帽子屋よりこっちの方が向いているのではないかと思うほどに。
繊細な作業をする技術も、重いものを運ぶ体力も、フロガと引けを取らないのではないか。
やりがいもあって楽しいし、いっそ、ここに永久就職してしまおうか。
忙しなく働く中で、ジャレットはそんな事を考えていた。
──昼の営業はあっと言う間に終わった。
それから遅い昼食をとり終わると、ジャレットは軽い睡魔に襲われてカウンターに突っ伏し、昼寝をすることにした。
そんなジャレットに、フロガがブランケットをかけ、二階にいる天狐の元へ向かう。
「天狐、ちょっと調べてきて欲しいものがある」
狐の姿でソファで丸くなっていた天狐に声をかける。
ピクリと動いた大きな耳ごと撫ででやると、高い鼻をクンクンと持ち上げた。
「あの男のことか」
「ジャレットさんね。 そう、帽子屋をしていたそうなんだ。 ちょっと探ってきてくれる?」
「どうしてそこまでしてやる必要がある」
「ずっとこのままって訳にはいかないだろ。 それに、きっと何か行き違いがあると思うんだ」
「ふん、何が行き違いだ。 あんな男、勝手にのたれ死ねばいい」
「天狐、頼むよ。 もしいい方向に解決したら、いつものおやつにスコーンとクッキーをつけるからさ」
ピクリ、と天狐の大きな耳が動く。
九つの尻尾がふわふわと揺れ始め、黄金色の瞳が煌めいた。
これは了承してくれる時に良くある動きだ。
「仕方がないな」
「よろしくな。 店の食材のことはしばらくいいから、火だけ頼む」
「わかった」
そう言うと、天狐は狐から人へと姿を変えた。
黄金色の瞳が琥珀色へと変化し、大きな耳は無くなって、尻尾も仕舞われる。
それが少しだけ残念だと、フロガは思うのだった。
ジャレットが来てから二月は経っただろうか。
仕事もすっかり慣れて、手際も良いし、客とも少しは話せるようになった。
だからだろうか、ジャレットは少しの間だけ、ここで働くという話をすっかり忘れてしまっていたのだ。
「なあ、マスター。 ちょっと話があるんだ」
昼の営業が終わり、食事を終えたところで、ジャレットが茶を入れてフロガの隣に座った。
やけに上機嫌で、それでいて何か遠慮しているような気配に、フロガは穏やかに答える。
「はい、なんですか?」
「マスター。 俺、この仕事の才能があると思うだ」
「才能かどうかはわかりませんが、ジャレットさんは手際がいいですね」
「そうだろ!? だから俺、考えたんだよ」
一呼吸置いて、ジャレットが話を続ける。
「この店、俺にくれないか?」
「はい?」
それは唐突だった。
確かに手際がいいと褒めたが、まさかここまで考えていたとは。
フロガは頭こそ抱えなかったものの、顎に手を当てて、視線を落とした。
「商売だって経験がある。盛り付けのセンスも、接客も、スピードだって申し分ないだろ?」
「それはそうですね」
「頼むよ! もう俺にはこの道しかないんだ!」
「わかりました、いいですよ」
そう言った瞬間、ドタドタと階段を駆け降りる音が聞こえた。
「ふざけんな!! フロガ!! お前なに言ってんだ!!!」
二階で聞き耳を立てていたのか、耳がいいから聞こえてしまったのか。
怒りで血管がはち切れそうな天狐が喚いた。
「天狐、ちょっとこっちに。 ジャレットさん、夜の仕込みお願いします」
「おう、任せとけ!」
怒りに震える天狐から生えてきそうな耳を抑え、フロガは二階へと連れていった。
「フロガ、一体どう言うつもりだ」
結局出てきてしまった耳と尻尾がピンと立っている。
それを撫でて宥めるが、怒りはおさまらないようだ。
「大丈夫だよ。 ジャレットさん、うちが繁盛してるって勘違いしてるんだ。 それに仕入れも市場やお店だけだと思ってる」
ジャレットは知らない。
彼が来るまでは市場だけではなく天狐が肉や魚を獲ってきていたと言うことを。
たまの休みに二人で出かけるついでに魔獣を狩ったり、それを店に出していたということを。
それで材料費が浮いていたことも、現状赤字になってきていることも、彼は何一つとして知らないのだ。
「そういうことか。 で、このあとどうするんだ。 まさか本当に店を譲る気じゃないだろうなァ」
「まずはお試し期間で一人でやってもらう。 多分、すぐやめたがると思うよ。 ところで、帽子屋の方はどうだ?」
「ああ、店を特定した。 確かに小さい店だったが、言う程廃れてなかったぞ。 貴族御用達の由緒ある店だそうだ」
店には女主人が一人、疲れた顔をして座っていたという。
夫婦二人でやっていたのだから、当然だろう。
「よし、わかった。お店はジャレットさんに任せて、俺はその帽子屋に行って奥さんと話をしてみる」
「……やめた方がいいんじゃないのか。 目と鼻の先に貴族街区があるんだぞ」
「大丈夫だよ。 あ、そうだ、ジャレットさんのおかげで、しばらく暇も出来るし久しぶりにカフェに行こうか」
「ふん、あのおっさん、少しは役に立つようだな」
ジャレットは知らない。
今、いいように休暇に使われてしまっていると言うことを……。
そしてこれから思ってもいなかった激務が始まると言うことも知らずに、彼は軽やかな口笛を奏でていた。
「それじゃあジャレットさん、お店頑張ってください。 契約書は二週間後に持ってきますね」
「ああ、頼むぜマスター」
朝日が眩しい、よく晴れた日。
新しい門出にぴったりだと、ジャレットは清々しい気分でフロガと天狐を送り出した。
二人が見えなくなってから、いつも通り仕込みと下準備を始める。
窯に火を入れて、しばらく様子を見るがやはり天狐の魔法のように上手くはいかない。
「俺は魔法使いでも魔術師でもねぇんだ。これは仕方ないさ」
前向きに行こう。 次はいよいよオープンだ。
札をひっくり返し、しばらく待っているとポツポツと客が入り始めた。
注文を取り、料理を作り、客のテーブルへ持っていく。
いつも通り。 何も問題はない。 やはり、この仕事に向いているのだ。
嬉しくなりながら、片付けた皿を洗っていると、また注文の声がかかった。
「これ、甘く煮てください」
そういって袋を渡してきたのは、カメレオンの姿をした女の亜人。
この店はこういった持ち込みも受け付けている、と前にフロガが言っていたが、初めて持ってこられた。
袋の中身は肉だろうか、それとも魚か、野菜か……
とりあえず甘く煮ればいいのだろう。
袋を受け取り、ジャレットは中を広げた。
「ひえっ!? なんだこれ!!」
中身は大量の虫。 恐らくバッタだ。
嫌がらせか何かか? だとしたら、とんでもなく趣味の悪い、嫌な客だ。
「テメェ、ふざけるなよ! どういうつもりだ!!」
「客に向かってテメェだなんて! ふざけてるのはどっちよ!」
「こんなもん、調理できるわけねぇだろうが!」
「前に来たときはちゃんと料理してくれたわ! あなた、バイト? 今日マスターはいないの?」
嘘だろ。 こんなもの、どうやって調理するんだ?
ジャレットは、グッと言葉を飲み込んだ。
黙るジャレットに、カメレオンの婦人は呆れ果てるとさっさと席を立って店を出て行ってしまった。
これはしょうがないことだ。 普通の人間にあんなもの調理できるわけがない。
今の客はちょっと特殊だっただけ。次はうまくいくはずだ。
ジャレットは気を取り直して虫の入った袋をゴミ箱へ投げ捨てた。
「すみませーん、なんでもいいんで作ってください」
次の客はこんなことを言っていた。
これなら簡単だ。 適当に今日のランチと同じものを作ってやればいいのだ。
下準備を済ませていた食材を調理し、客に持っていく。
すると、客は少し怪訝そうに顔を傾げた。
「うーん、ちょっと違うんだよな。 ねえ、マスターいないの? マスターなら俺の気持ち汲んでくれるのに」
またこれだ。
マスター、マスター。 マスターは俺だ。
鼻息を荒くしながら洗い物をしていると、別の客から声がかかった。
「ランチのポークソテー、なかなか美味いね」
ようやくお褒めの言葉をもらえた。
市場から仕入れてきた良質な豚肉だ。 不味いはずがない。
「美味いけど、ちょっと前に仕入れてた牛型魔獣の煮込みが食べたいなあ」
「はあ? いや、魔獣なんて高級レストランで出すもんで……こんな小さい食堂じゃ無理ですよ、お客さん」
「君、バイトして日が浅いの? マスターに言っておいてよ。 俺が食いたがってたって」
「はあ……」
俺って誰だよ。
そんな言葉をグッと抑えて、適当に返事をした。
どいつもこいつも好き勝手言いやがって、とジャレットは怒りをつのらせたまま、ようやく昼の営業が終わった。
一方、フロガは天狐と共に例の帽子屋の前を訪れていた。
ラディエンの貴族街区に最も近く、大きな門が見える場所で、ひっそりと佇むシンプルで小さな帽子屋「ゴードン」
ジャレットの言っていた通り、斜向かいには派手派手しい帽子屋がある。 若い客が多いようだが、ジャレットがいう程、人で溢れている様子ではなかった。
帽子屋ゴードンの扉を開け、フロガはゆっくりと店内を見て回る。
年齢を選ばない、シンプルなデザインの帽子が並ぶ。装飾は繊細で美しく、気品がある。
これだけいい帽子を作っているのに、ジャレットは何が不満だったのだろう。
そう思いながら眺めていると、店の奥から女主人が現れた。
「気付かずに申し訳ございません。 どんな物をお探しですか?」
天狐のいった通り、疲れた顔をした婦人が愛想良く笑った。
年は40代だろうか。疲労感は拭えないが、凛とした美しい婦人である。
「突然お伺いしてすみません。 ジャレットさんについてお話したいのですが、パメラさんですか?」
「ジャレット!? 夫をご存知なのですか!?」
凛とした笑顔を湛えていたパメラの顔が青くなる。
同時に、ふらりと体を揺らして膝を付きそうになったのをフロガが慌てて支えた。
「大丈夫ですか? 座ってお話ししましょう。 天狐、ちょっと看板裏返してきてくれ」
顔面蒼白になっているパメラを支え、店の奥まで誘導した。
とりあえず椅子に座らせ、パメラが落ち着くのを待つ。
ようやく伏せていた顔を上げた頃には、もう随分と時間が経っていた。
「改めまして、フロガと申します。 大分お疲れのようですね」
「ええ、旦那が家を出て行ってからからずっと心配で……」
なんだか、ジャレットが言っている事と大分印象が違う。
パメラはジャレットのことを随分と心配しているようだ。
だから、まずは彼が食堂にいることを話し、もう何日も食事をとっていなかったことや近況を伝えると、パメラは少し安心したように、ポツリポツリと話し始めた。
「あのひと、斜向かいの帽子屋がちょっと流行ったからって焦ってしまったみたいで……あの人の繊細なデザインがお客様に好かれているのに、それも気付かず変なものばかり作って、それで私つい酷いことを……」
カッとなって追い出してしまったことも、後悔している。
お金なんて、そこまで苦労していないのに、ギャンブルなんかに嵌ってしまったのが悲しくて、ついそうしてしまったのだ。と、パメラは滝のように喋り始めた。
「もう戻ってこないのかしら……」
「そんなことありませんよ。 ジャレットさんは、この仕事に向いていると思います。 ちょっと迷走しちゃっただけですよ」
大体の事情はわかった。
やはりジャレットが一人で暴走していただけなのだ。
パメラに礼を言い、フロガが立ち上がる。
それを眺めていたパメラが少しだけ首を傾げた。
「あなた、どこかで見たことあるような……」
「初対面ですよ。 多分、誰かと間違えているのかと」
「そうかしら……」
考え込むパメラはそのままに、フロガはもう一度礼を言って、店を辞した。
「で、この後どうするんだ」
「どうもしないよ。 二週間……いや、一週間経ったら店に戻ろう。 この話はきっとそれで終わるはずだ」
「それまではどうするんだ」
「……ちょっと遊ぼうか。 どこか行きたいところある?」
「それなら、話題になっていたケーキ屋に行きたい」
にっこりと天狐が笑う。
いつもの狡猾な笑みとは違う、愛らしい動物のような微笑みだ。
それがなんとも可愛らしくて、フロガは言われるままにケーキ屋へ向かい、三つほど購入する。
そうして店に戻るまでの一週間、二人は久しぶりの休暇を楽しんだ。
──フロガの言う通り、ジャレットは一週間で音を上げていた。
本当は三日で限界が訪れていたのだが、連絡を取る方法もなく、一週間後に顔を出したフロガに泣きついたのだ。
「ああ、マスター! 俺ぁ、もう限界だ! やっぱりこの話は無しにしてくれ!!」
「どうしたんですか、急に」
「この店の客はわがままばっかりだ! 夜は暴れる酔っ払いがいるし、もう一人じゃ無理だ!」
「そうでしたか。 わかりました」
ジャレットがホッと胸を撫で下ろす。
それからエプロンをフロガに返し、溜め息を吐いた。
「俺はまたただの従業員に戻るよ」
「それはダメですよ、ジャレットさん」
えっ、とジャレットが拍子の抜けた声を出す。
何度か瞬きをしてフロガを見つめ、その後ろにいる天狐にも視線をやったが、睨み返された。
猛獣のような鋭い目つきが恐ろしい。
「ジャレットさん、あなたはお客様をわがままだと言いましたね。 でも、本当にそうでしょうか」
「そうに決まってるだろ! 店の都合も考えないで虫持ってきたり、好きな物じゃねぇと不機嫌になったり……」
「お客様には一人ひとり好みがあります。 それを見極めるのも、仕事の一つだと俺は思うんです」
ジャレットが言葉を飲み込む。
フロガはさらに続けた。
「ジャレットさん、あなたのお店のお客様は、きっとあなたがデザインした帽子を欲しがっているはずですよ。 流行りのものじゃなくてね」
「あんたに何がわかるんだ。 どうせ今頃店は潰れてるさ」
「そんなことありません。 奥さんも、あなたの帰りを待ってましたよ。 常連のお客様だって戻ってきていると言っていました」
「え……俺の店に行ったのか? あいつが、俺を待ってるって?」
「ちゃんと謝って、話してみてください」
少しの間黙っていたが、やがて諦めたように溜息をつくと、ジャレットが席を立つ。
荷物をいそいそとまとめ、帰る準備を終えると足早にドアへ向かった。
「……すまなかった、マスター。 俺、帰るよ。 ありがとうな」
「いえ、よかったら今度は奥さんと一緒に食べにきてください」
ジャレットが深く頷く。
そうして彼は、約三ヶ月ぶりに家に帰った。
「行動早すぎだろ」
ぼやく天狐の声に、フロガは少しだけ苦笑してみせた。
それから一週間ほど経った頃だろうか。
食堂ヴァルムに帽子屋夫婦がランチを食べにきた。
「フロガさん、色々ありがとうございました」
「ありがとう、マスター。 あれからこいつと話し合って、ようやく自分が迷走していたことに気づいたよ」
笑い合う夫婦の笑顔は以前よりも穏やかで、仲睦まじく見える。
顔色も良くなり、健康的な二人にフロガは心の底から安心した。
「お二人とも仲直りできてよかったです。 さあ、どうぞ召し上がってください」
今日のランチは、ジャレットがここに初めてきた時と同じもの。
根菜のスープ、生ハムのガレット、そしてチキンソテーだ。
「ああ、このチキンが美味いんだよ。 ほら、お前も食ってみろ」
「ええ、いただきます」
美味しい、とパメラが呟く。
それから二人は談笑しながら、ゆっくりとランチを楽しんだ。
食後の珈琲を飲み終える頃には、昼の営業が終わっていた。
「長々とすみません、ご馳走様。 美味かったよ、マスター」
そう言って立ち上がったジャレットが魔具にカードをかざす。
その数字をみて、フロガは大きな目を見開いた。
「多いですよ。 こんなにもらえません」
「あの時の分だよ、マスター。 頼むから貰ってくれ。 じゃないと、俺の気がすまないんだ」
困ったように眉を下げるフロガの横に、いつの間にか現れた天狐が決算を完了させてしまう。
フロガが「おい!」と声を荒げたが、天狐は悪びれもなく口を吊り上げた。
「貰っとけ。 それだけの事はしたんだ。 少ないくらいだよなぁ、ジャレット?」
「ははは、やっぱあんたは怖ぇな。 じゃあマスター、また来るわ」
ジャレットが店を出る。
パメラもそれに続こうとしたが、不意に足を止めてフロガへ振り返った。
スカイブルーの涼しげな瞳が、じっとフロガを見つめる。
──それは妻の顔ではない、帽子屋の女主人としての、精悍な眼差しであった。
「フロガさん、あなたもしかして、エリュプティオ伯爵の御令息ではありませんか?」
「エリュ……誰ですか?」
「とぼけなくても、私にはわかります。お顔も体格もその目の下と口の下にある黒子までお兄様と瓜二つですわ」
「……そうですか、兄に会ったことがあるんですね。 じゃあ、誤魔化せませんね」
パメラが深々と礼をとり、顔を上げずに続けた。
「この度は旦那ともども、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。 エリュプティオ伯爵にはご夫婦でいつもご贔屓にしていただいて……」
「やめてください。 俺はあの家とはもう関係ないんです」
すい、とパメラが顔を上げる。
それは先ほどと同じ、普通のどこにでもいるような妻の顔をしていた。
にっこりと愛想の良い笑顔を浮かべて、ピンと背筋を伸ばす。
「何か事情がおありなのはわかりました。 これ以上は何も申しません」
そう言って、パメラはまた軽く礼をとると、店を出た。
カラン、とドアベルの乾いた音が響く。
それが鳴りやまらないうちにフロガはドアの鍵を閉めて、カウンターを軽く拭き始めた。
横目でその行動を眺めながら、天狐が軽くため息をつく。
「大丈夫か」
珍しく、心配した言葉を投げかけてくる。
表情こそいつも通りを装っているが、その声はいつもよりずっと優しくて、子供に投げかけているようであった。
その声に、フロガはつい甘えたくなるが、今はまだ仕事中だ。
いつも通りの笑顔を浮かべて、天狐に振り返る。
「ああ、大丈夫だよ」
そう答えると、天狐が近寄ってきて、九つの尻尾がふわりとフロガを包んだ。
暖かくて、柔らかくて、良い匂いがするそれに、フロガは少しだけ頬を寄せる。
それから尻尾ごと、天狐を抱き締めた。
「お前がいるから、大丈夫」
「そうか」
天狐の細い指が、フロガの大きな背中を撫でる。
それは幼い子供あやしている母親のような、慈愛を含んだ手つきであった。




