記憶喪失の天狐とミルク粥
長らく積もっていた雪が消えて、温かな日が訪れても、底冷えするような寒さは突然やってくる。
そんなふうに寒暖差が激しくなると、天狐は決まって体調を崩した。
「天狐、ホットレモン作ったけど……飲めるか?」
そう声をかけると、青白い顔をした天狐がベッドの中でもぞりと動いた。
重たそうに瞼を開いてから小さく頷いて、また瞼を閉じる。
声を出す気力もないようだ。
背中に腕を通して起こしてやり、マグカップを渡す。
天狐はそれを両手で包み込むように持つと、ゆっくりと飲み始めた。
「寒い……魔石の魔力が尽きたんじゃないのか……」
「お前が寝込む前に補充してくれたから、まだ大丈夫だよ」
こうして体調を崩すと、天狐は魔法や魔術を一切使えなくなる。
魔石に天狐の魔力を充填しているので魔具を使うのには困らないが、それでも天狐は自分に魔力が無い期間は不安になるようだった。
いつもはピンと上を向いている大きな耳は、ずっと垂れ下がったままでいる。
「明日も休もうか?」
「いい。 もう三日も休んでるんだから、いい加減仕事しろ」
そう言いつつも、天狐はフロガの服の裾を握って離さない。
こういう時でも強がるのは天狐の悪いところだ。
弱っている時は素直に頼ってくれたほうが、フロガとしても安心できるのだが。
「本当に大丈夫か?」
「……ああ。 今日だけ、一緒にいてくれればそれでいい」
消え入りそうな声で呟いてから、フロガに飲み終わったマグカップを返す。 それから、天狐はまたベッドの中へ潜り込んだ。
弱々しく震えている大きな耳ごと頭を撫でてやると、毛布から顔を出して心地良さそうに目を細めた。
「早く良くなるといいね」
「……明日には治ってる筈だ」
それに根拠はなく、天狐の願望である。
早ければ三日もあれば回復するが、長いと一月丸々寝込んでしまう。
(俺に治癒魔法が使えれば、少しは楽にしてやれるのに)
いつもよりずっと熱い手を握りながら、フロガは何も出来ないもどかしさを感じるのだった。
──翌日。
天気は良く晴れていて、気温もそこそこ温かく、過ごしやすい日だ。
目を覚ましたフロガが天狐の額に手を置くと、いつも通りの低い体温を感じた。
きっと、熱が下がったのだろう。
(良かった。 今回は長引かないみたいだな)
ホッとして、安堵の溜め息をつく。
起きたら朝食と甘いものを強請ってきてくれれば、もっと安心できる。
天狐を起こさないようにベッドを出て、フロガは朝食の準備を始めた。
ここ数日、ちゃんと食事を取れなかった天狐が食べやすいようにミルク粥を作る。
牛乳へ一口大に千切ったパンを入れて、形が無くなるまで煮立たせる。
皿に盛り付けてから、はちみつを一周。 これで出来上がりだ。
食べられるかわからないが、温野菜と豆のサラダとすりおろした林檎も用意する。
それらをテーブルに並べてから、フロガは再び寝室へ戻った。
「おはよう、天狐。 起きられるか?」
そっと声をかけると、天狐がぼんやりとした瞳を向ける。
フロガを捉えた瞬間、はっと目を見開いてから慌てたように身体を起こした。
「ご、ごめんなさい……!」
……ごめんなさい?
フロガは暫く思考を停止させた。
この単語が天狐の口から出たのが初めてだったからだ。
固まっているフロガを見て、天狐はぎゅっと目を瞑った。
「あなたが来たのを無視したわけじゃないの! ほんとうに気付かなかっただけで、その……ごめんなさい……」
それから天狐は消え入りそうな声で「ゆるして」と呟く。
大きな耳を伏せてぷるぷると震わせ、尻尾は内側に丸まっていた。
なんだか口調も違う。これは本当に天狐だろうか?
フロガが恐る恐る手を伸ばす。
すると、天狐は大きく肩を揺らして身を縮めた。
「……きみは誰?」
伸ばした手を引っ込める。
天狐と思われる人物は、怯えた目でフロガを見上げた。
「天狐……あなたは、誰ですか。 ここはどこ……?」
記憶喪失、という言葉がフロガの脳裏を過ぎった。
自分の名前はわかっているようだから、恐らく断片的なもの。
フロガと会う前の封印されていたときの記憶しかないのかもしれない。
……いや、この反応を見るに、もっと前だろうか。
なんせ初めて会ったときは、既にあの傲慢な態度だった。
「俺は、フロガ。 天狐、きみのことをきみがわかる範囲で俺に教えてくれる?」
今まで天狐は過去を話したがらなかった。
とある村の地下に封印されていたという事は知っているが、それ以外の事は全く話してくれない。
というより、思い出したくないと言っていたので、フロガも聞かないようにしていたのだ。
もし、この天狐がフロガと出会う前の記憶しかないのなら、少し厄介だ。
優しく問いかけるフロガに、天狐は小さく頷いた。
「……私は、あなた達に魔力を捧げる為にいる……バケモノ、です。 逆らうつもりはありません……」
フロガは天狐の話した内容を、なるべく冷静に頭の中でゆっくりと咀嚼した。
天狐の記憶は、やはり封印前のものしかない。
話したがらなかった過去の待遇は、フロガが想像していたよりずっと劣悪で悲惨なもので、今もその状況に置かれていると思っている。
この様子では、恐らくヒトとしての尊厳すら与えられなかったのだろう。
そう考えると、フロガはやり場のない怒りを覚えた。
しかし、天狐をそんなふうに扱った者たちは既に死んでいる。
フロガは拳を握り締めて、その感情を抑え込んだ。
「わかった、ありがとう。 じゃあ、次は俺の話をするね」
天狐がまた小さく頷く。
「俺の名前はフロガ・エリュプティオ。 きみの夫。 ……夫ってわかる? 伴侶って事なんだけど」
目を丸くしているということは、理解しているということだろう。
話を続ける。
「これは急に決まった事じゃないよ。 きみは今、記憶喪失になっている。 きみが話してくれた事も、もう700年くらい前のことなんだ」
「ななひゃくねん……?」
「そう。 だから、ここにはきみの魔力を無理矢理取ろうとする人はいないし、閉じ込められいるわけでもない。 ……天狐が望むなら、ここから出て行っても良いんだよ」
といっても、今の天狐にはわからないだろう。
困惑の表情を浮かべたまま、呆然としている。 しかし、躊躇いがちにフロガを見上げて口を開いた。
「えっと……ここに、います」
外の世界がわからないのだから、ここに居ると言うのは当然かもしれないが、フロガは少しだけ安心した。
何せ、最後の言葉は本心ではなかったのだから。
「嫌だったらいつでも言ってね。 さあ、朝御飯を食べよう」
手を差し出すと、天狐がまた肩を揺らした。
耳は相変わらず伏せていて、おどおどと視線を彷徨わせている。
「ごはん……早いんですね……」
「いつも通りだよ」
「……そう、なんですか」
差し出した手をすり抜けて、天狐がベッドから出て立ち上がる。
瞬間、ふらりと身体が揺れたので慌てて支えた。
「ご、ごめんなさいっ」
「大丈夫だよ。 ほら、手を出して」
「…………?」
おずおずと天狐が手を出す。
優しく握ってやると、目を丸くしてフロガを見上げた。
先程フロガの手を取らなかったのは、こうして手をひかれた事が無かったからだろう。
ふらつく天狐の手を取り、支えてやりながら寝室の扉を開けると、天狐は驚いたように小さく声を上げた。
「部屋がふたつあるの?」
「えーと……今のは寝室、寝るところだよ。 ここはリビングで、ご飯を食べるところ。 あっちは洗面所とトイレがある。 下はお店。……わかりそう?」
「……部屋っていっぱいあるんですね。 それにどこもすごく明るい」
興味深そうに、天狐が辺りを見回す。
一体、どういう場所で生活していたのか……
この反応から何となく想像は出来るが、それを考えるとフロガは胸が痛くなった。
こんなこと、天狐は今まで一言も言わなかった。
どうして言ってくれなかったのだろう。
(……いや、あいつは言わないか)
どこまでも意地を張って、本心を隠して、余裕のある振りをする。
そういう奴だ。
きっと封印されている間に捻くれてしまったのだろう。
恐怖をふんだんに受けて生きてきたのだから、仕方のないことかもしれない。
「とりあえず、座ろう」
「はい」
天狐が恐る恐る腰掛けたのを確認してから、フロガは紅茶を淹れた。
ティーカップにたっぷりと注いでテーブルに並べ、天狐の向かいに座る。
「紅茶、熱いから気を付けてね。 スプーンは使える?」
「は、はい」
「じゃあ、食べようか」
フロガが食べ出すのを待ってから、天狐は不思議そうな顔で朝食をじっと見つめた。
スプーンを持った手は一向に動かない。
「どうした? 食欲ない?」
「えっと……どれを食べればいいの?」
「……全部食べていいんだよ」
天狐が戸惑った様子でフロガを見る。
安心させるように微笑んでみると、天狐はぎこちなくミルク粥を口に運んだ。
「わあ……!」
「美味しい?」
「はい! すごく、おいしいです」
ずっと不安そうにしていた表情が、少し和らいだように見える。
伏せていた耳はピンと上を向き、丸まっていた尻尾はゆらゆらと嬉しそうに揺れていた。
「よかった。 ゆっくり食べてね」
その見慣れた姿に、フロガも安堵する。
記憶を失っても、天狐は天狐だ。愛しい妻であることに変わりはない。
「これ、すごくやわらかい……!」
温野菜を頬張る天狐が、嬉しそうに微笑んでいる。その無垢な微笑みを見ていると、フロガはまた胸の奥がチクリと傷んだ。
天狐は今までも、こうして一つ一つの事に驚いて感動していたのだろうか。
それを感じさせなかったのは、天狐が表に出さずにいつも澄ました顔をしてやり過ごしていたからだ。
それなら、目の前にいる天狐には改めて沢山の楽しい事を経験させてやりたいと思った。
「天狐」
「はい」
「今日は一日ゆっくりして、今までの話をするね。明日は、ちょっと出掛けてみようか」
「わかりました」
「あと、敬語は使わなくていいよ。 俺達は夫婦なんだし」
「……うん」
照れくさそうにはにかんで、天狐が小さく笑う。
その愛らしい姿に、フロガは思わず抱き締めたくなったのだが、なんとか堪えた。
天狐の記憶が無い以上、妙なことをすれば怖がられてしまうだろう。
記憶が戻ったら、思いきり抱きしめよう。
そう心に決め、フロガは努めて優しい笑顔を浮かべた。
食事を終え、天狐と二人でソファに座る。
いつもより少し距離を空けて、フロガは色々な話をした。
星祭りのこと、一緒にハルラー森林に行ったこと等、なるべく思い出しやすいように最近の話をする。
それを、まるで御伽話でも聞いているかのように天狐は目をキラキラと輝かせて頷いていた。
「私、森林に行ったんだ……すごいなぁ、お話の中でしか聞いたこと無かったから……」
「もうちょっと回復したら、行ってみようか」
「いいの!? 嬉しい!」
ふわりと微笑む天狐が、ぱたぱたと尻尾を揺らす。
その愛らしさに、フロガはついいつもの癖で頭を撫でようと手を出した。
──が、反射的に天狐がびくりと肩を震わせ、顔を伏せて目を瞑る。
それから、慌てて顔を上げた。
「ご、ごめんなさい! フロガ、さん……はあの人達とは違って、こんなに優しくしてくれるのに、私……」
「天狐は悪くないよ。 俺の方こそごめん。 びっくりしたよね」
フロガは伸ばしかけた手を、ゆっくりと引っ込めた。
同時にまた胸が痛む。
天狐の言動にいちいち胸を痛めているので、何か別の病気でも患わっているのではないかと疑ってしまうが、至って健康である。
「さて、そろそろお昼だから何か食べようか」
「え? ごはんを食べるの?」
「そうだよ。 お腹すいてない?」
天狐が首を振る。 それから不思議そうにフロガを見つめた。
フロガは何だか嫌な予感がして、天狐より先に口を開く。
「食事は一日三回。 朝と昼と夜、それから昼と夜の間におやつがある。 天狐は昼寝が多いから昼を抜く事もあるけど、基本的には毎日だからね」
「わあ、すごい」
やはり、十分に食事を与えられていなかったのか、とフロガはまたも胸を痛めた。
昼食は天狐の好きなハンバーグを作り、ワンプレートにまとめた。
「美味しい!! フロガさん、こんなに美味しいものを作れるなんて……もしかして魔法使い?」
「俺は魔術や魔法は使えないんだ……」
「そうなんだ。 でも、本当に魔法みたい」
天狐が幸せそうに笑いながら、次々に料理を口に運ぶ。
どうやら、食欲は戻っているらしい。 それならきっと、体力もすぐに回復するだろう。
「おやつは天狐の好きなクッキーにするね」
「えっ! クッキーを作ってくれるの!?」
「クッキーは知ってるんだ」
「うん! 一度だけ、こっそり食べさせてくれた優しい子がいたの。 すごく美味しかったなぁ」
辛い日が続いた中でも、一人くらいは優しくしてくれた人間がいたのだ。
そのことに、フロガは少しだけホッとした。
「今日は一緒に作ろうか」
「ほんとに?! やったぁ!」
嬉しそうに微笑んで、天狐は両手を合わせる。
その仕草があまりにも可愛くて、フロガは危うく手を伸ばして抱き締めそうになった。
それをぐっと抑え込む。 先程のように怖がらせてしまってはいけないと思ったのだ。
(いつもの天狐とは違う可愛さがある……)
素直に感情を表現し、無邪気に笑う天狐。
薄々気付いてはいたが、いつも以上に愛らしく見えるのだ。
少しずつだが見えてきた過去も相俟って、力一杯甘やかしたくなる。
(天狐が元に戻ったときの為に、しっかりしないと)
フロガは自分にそう言い聞かせて、軽く溜め息を吐いた。
昼食後、片付けを終えてからクッキーを作る準備をする。
といっても、材料を混ぜるだけなので簡単だ。
小麦粉、バター、卵、砂糖。基本的な材料はこれだけ。
あとはチョコチップを入れたり、ドライフルーツを乗せたり、ハーブを混ぜたりするが、今日はシンプルに何も入れないものとチョコチップの二種類を作る。
「俺が材料を入れるから、天狐は混ぜてくれる?」
「わかった!」
隣で興味深そうに眺めていた天狐に、ホイッパーを渡す。
まずはバターをクリーム状になるまで混ぜる。それから砂糖を加え、更に混ぜる。
「楽しいね」
そう言って、天狐がフロガを見上げる。
ただ混ぜているだけなのに、どんどん変化していく様子は天狐にとって新鮮だったようだ。
「疲れたら代わるからね」
「えへへ、大丈夫!」
楽しそうに笑いながら、天狐は一生懸命ホイップを続ける。
そんな天狐を見守りつつ、フロガは生地に卵を入れ、混ざった所で小麦粉を入れた。
そこでホイップは一旦終わりだ。
「よし、へらに持ち替えて底から切るように混ぜよう」
少し見本を見せてやってから、天狐に代わる。
粉っぽさが無くなるまで混ぜたら、生地を半分だけ別のボウルに移してチョコチップを混ぜる。これで生地は完成だ。
あとはスプーンで掬って天板に並べて、魔具の中に入れて焼く。
「これで終わりなの?」
「そうだよ。 あとは焼いて、冷めるのを待とうね」
「うん! 楽しみだなぁ」
焼き上がりまで、二人はしばらくソファで寛いだ。
やがて良い香りが漂ってくると、天狐は尻尾を揺らして待ち遠しそうにソワソワとし始める。
その様子が可愛らしくて堪らなかった。
「フロガさん、いい匂いがする!」
「そろそろ焼き上がるかな。 見に行ってみようか」
魔具の中にはこんがりと焼けたクッキーが見える。
「チン」と音を立てて魔具の扉が開くと、天狐がブンブンと尻尾を忙しなく振りながら、魔具の中を覗き込んだ。
「熱いから気を付けてね。 これから冷めるとサクサクになるから、魔具から出してもうちょっと待つよ」
「うん」
まだ熱々のクッキーを魔具から出して、しばらく放置する。
その間、天狐に下の階にある店の案内をした。
「ここが食堂。 料理を作ってお客さんに提供するんだよ」
「あんなに美味しいものを毎日作ってるの? フロガさん、すごいね!」
「そんなことないよ」
褒められて悪い気はしないが、天狐から素直に褒められると妙に気恥ずかしくなる。
フロガは照れ笑いを浮かべつつ、厨房の中を見せてやり、それから再び二階へ戻ってお茶の準備をした。
棚から茶葉を取り出し、いつもの半分の量の水を沸騰させないように小鍋で温めてから茶葉を投入する。
そこへミルクを入れてしばらく温め、沸騰する直前に火を止めればミルクティーの完成だ。
程よく冷めたクッキーを皿に並べて、ミルクティーと共にローテーブルへ置き、天狐の隣に座った。
「わあ〜! 美味しそう!」
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます! ……美味しい……!!」
一口食べた途端、天狐が両頬を手で包み込んだ。
その仕草が愛らしくて、フロガは頬を弛ませて笑った。
「いっぱいあるから、ゆっくり食べてね」
「フロガさん……ありがとうございます」
フロガを見上げた琥珀色の瞳から、ぽろぽろと涙の粒が零れる。
天狐が袖で涙を拭うが、どんどん溢れてきて止まらない。
フロガがそっと肩に触れれば、ぎゅっと目を瞑って顔を伏せてしまった。
「天狐?」
「あ……ごめんなさい……」
「謝ることじゃないよ。 何か嫌だった?」
天狐が顔を横に振る。
「こんなに嬉しいの、初めてで……夢みたいで……」
「夢じゃないよ。 ほら、顔上げて」
顔を上げた天狐の頬をハンカチで拭ってやると、少し驚いたように首を傾げた。
フロガは少しだけ嫌な予感がしつつも、「どうしたの」と聞いて目尻の涙を拭う。
「私が泣くと、皆喜ぶの……」
「な、なんで……」
「眼が、綺麗だからって。 だから、こんなふうにしてくれたのも初めて……」
聞くんじゃなかった。 と、フロガは内心後悔した。
普段、天狐は滅多に泣かない。
悲しくなると耳が垂れる事はあるが、泣いている所は殆ど見たことがない。
すぐに泣くようなメンタルではないが、まさかこんな理由が隠れていたとは思いもしなかった。
「……天狐、一応言っておくけど、ここにはそんなふうに思う人は一人もいないからね」
苦々しく呟くフロガに、天狐は小さく頷いた。
──夕食を終えて風呂を終えると、天狐はすっかり眠くなってしまったようで、ソファの上でうつらうつらと船を漕いでいた。
「天狐、そろそろ寝ようか」
「うん……おやすみなさい、フロガさん……」
「ソファの上で寝たら風邪ひくよ」
丸くなろうとする天狐の手を引いて、寝室へ連れて行く。
ベッドへ寝かせて、布団をかけてやると天狐のとろんとした瞳がフロガを見上げた。
「おやすみ、天狐」
「……一緒に寝ないの?」
「えっ……嫌じゃない?」
「フロガさんならいいよ」
ふにゃりと笑った天狐が、布団を持ち上げる。
こんなふうに誘われては、断ることは出来なかった。
「じゃあ……失礼します……」
言われるまま天狐の隣へ横たわり、落ちるギリギリまでベッドの端に寄った。
こうすれば変な気は起きないだろう。
「おやすみなさい、フロガさん」
「……おやすみ」
小さな寝息を立てる天狐を眺めてから、背を向けてゆっくりと目を閉じた。
(明日の朝には、元に戻ってるといいな……)
切実にそう願う。
が、そんなフロガの願いは叶わなかった。
* * * * * * * * *
天狐が記憶を失ってから一月が経つ。
身体はすっかり良くなり、店も手伝える程回復しているというのに、記憶だけは一向に戻る気配がない。
「フロガくん、食器洗い終わったよ」
「ありがとう。 じゃあこれをテーブル席のお客さんに出して」
「うん!」
元気よく返事をして、天狐がパタパタとカウンターを出て行く。
最初は戸惑っていた接客も、今は笑顔で対応できるほどになった。
常連客の顔も覚えてきて、楽しそう喋る姿は記憶を失う前よりも取っ付きやすくなったように思える。
それはきっと良い事なのだろう。
だが、フロガは何となく心に違和感を覚えていた。
ぼんやりとそんな事を考えていると、ドアベルの音が客の来店を知らせる。
「いらっしゃいませ!」
天狐の溌剌とした声で、フロガは顔を上げると見慣れた姿を捉えた。
黒髪に澱んだエメラルドグリーンの瞳、黒い白衣。
クリフ・リンドールだ。
ここではアルフレートという偽名を名乗っている。
彼は天狐の顔を見るなり、澱んだ目を大きくしてから、カウンター席に座った。
そういえば、天狐とアルフレートは初対面だ。
「やあ久し振りだね、マスター。 彼女は……?」
「妻です」
「ああ、例の記憶を失ったという……ドッドウェルから聞いたよ。 災難だね」
「まあ、なんとかやってますよ」
そんな会話をしていると、料理を運び終えた天狐が、不思議そうな顔をして戻ってくる。
それからアルフレートに笑い掛けると、カウンターの中に戻った。
アルフレートを常連客だと思ったのだろう。
「フロガくん、常連さん?」
「ああ。 何度か来てくれてる、錬金術師のアルフレートさんだよ。 天狐に会うのは初めてかな」
アルフレートが澱んだ瞳を細める。
天狐は少し首を傾げてから、ぺこりと頭を下げた。
「君は、天狐というのかね」
「はい。 天狐です」
「そうか……マスター、奥方はもしかして狐の獣人では?」
「え……どうして、わかったんですか?」
仕事中は耳と尻尾を仕舞っているから、ヒトにしか見えない筈だ。
少し警戒しつつも、それを顔に出さないようにフロガは聞き返す。
実際は獣人ではなくキメラなのだが、きっとそんなことまではわからないだろう。
「匂いでわかるよ。 狐は甘い匂いがする」
「そうなんですか」
「あまり知られていないし、匂いも微かだから気づく者は少ないがね」
そう得意気に話してから、アルフレートはランチを注文した。
やはり、ただの獣人としか思っていないようだ。
フロガは手早くランチを用意して運ぶと、アルフレートはそれを黙って食べ始める。
食べ終わると、再び口を開いた。
「記憶というものは、曖昧なものだ」
「なんですか、突然」
「曖昧だからこそ、急に思い出すこともある」
「つまり?」
「つまり、君を励ましているんだ。 寂しいだろうが気長に待てばいい。 きっかけさえあれば、すぐに思い出すさ」
「あはは、寂しそうに見えましたか?」
フロガが笑って誤魔化す。
今の天狐は素直で可愛くて、店の手伝いを頑張ってくれているし、常連客とも仲良くしている。
ちょっかいを出してきた客と喧嘩をする心配も、気に入らない者を燃やそうとする心配もない。
記憶が戻らなくても、今まで通り天狐と暮らせている事に変わりはないのだから、寂しいと思った事などなかった。
「今の君は、とても寂しそうに見えるよ」
そう言うと、アルフレートは決済を済ませて席を立った。
「さて。 また来るよ、マスター。 今度は記憶の戻った奥方に会ってみたいものだ」
「……ありがとうございました」
出て行くアルフレートを見送って、フロガは小さく溜め息をついた。
今日も無表情を崩さなかったアルフレートは相変わらず何を考えているのかわからなかった。 が、話の流れから察するに、心配して来てくれたようだ。
変な人だが、根は悪い人ではないのかもしれない。
しかし、油断出来ない何かを感じることもある。
「フロガくん? 大丈夫……?」
天狐の言葉にはっとして我に返る。
心配そうに覗き込んでくる天狐に、少しだけ笑ってみせた。
きっと、思い詰めた顔をしていたのだろう。
「なんでもない。 それより、お客さんいなくなったし、閉店するから先に二階に上がってていいよ」
「うん、わかった」
天狐が階段を上っていくのを確認して、フロガは店の看板を『CLOSED』に変えると、鍵をかけてからキッチンへ戻っていった。
──定休日。
今日は前から天狐と約束していたハルラー森林へ行く。
森林の奥はまだ危ないので、街道付近でベリーを採る予定だ。
魔獣が全く出ない訳では無いので、護身用の剣を持ち、虫魔獣除けの効果が付いた外套も羽織る。
「よし、行こうか」
「うん!」
外に出ると、空は快晴で雲一つ無かった。
風も穏やかで心地好く、絶好のお出かけ日和だ。
そんな清々しい日光に照らされる天狐の足取りは軽やかで、スキップでも始めてしまうのではないかと思う程、楽しそうであった。
「楽しみだね!」
「そうだね」
笑顔で応えると、天狐は更に笑顔になる。
こんなに喜んでくれるなら、もっと早くから連れていけば良かったなと思いながら、フロガは天狐と並んで歩き出した。
──ハルラー森林は、昼でも薄暗い。
街道の近くは魔獣が少ないため、冒険者以外の者も採取に訪れる。 また、ブロンズメダルの冒険者はここでクエストを消化していることも多い。
それは採取であったり、偶に出る一角兎や軍隊ネズミの討伐であったりする。
人通りの多い街道付近なら、いつものように警戒する必要もないだろう。
……そんな気持ちがあったからか、フロガは少し気が抜けていたのだ。
後ろでベリーを採っていた筈の天狐が居なくなっているのに、全く気が付かなかった。
「天狐、そろそろ帰ろうか……天狐?」
返事がない。
振り返れば、そこに天狐の姿はなかった。 周りには人影すら見当たらない。
「天狐! どこだ!?」
声を張り上げてみたが、やはり返事はない。
焦りを感じながらも、フロガは冷静になろうと深呼吸をした。
天狐は記憶すら失っているものの、無謀な真似をするような奴じゃない。
何もできない子供じゃないのだから、一人で危険な場所に行くはずがない。
それに、魔術や魔法だって使える。
きっと近くにいる。
フロガはそう言い聞かせて、もう一度周りをよく見た。
そして、あるものを見つけた。
「これは……」
薄っすらとだが、地面の草に青色の細かい粉が付着している事に気付いた。
この粉には見覚えがある。
初見キラーと名高いフラッフィーマッシュの胞子だ。
マスコットのような可愛らしい見た目で動きも遅いが、振り撒く胞子が厄介なのだ。
青い胞子は睡眠の効果がある。
胞子を吸って身動きが取れなくなると、巣に持ち帰って寄生され、最終的には苗床とされる……という恐ろしい末路を辿ることになるのだ。
記憶がなくなる前の天狐であれば、燃やして終わりの低級魔獣だが、今の天狐なら見た目に騙されて近付いてしまった可能性が高い。
「大変だ……早く見つけないと」
フロガは微かに残る胞子を辿って、森の奥へ入っていった。
幸い、フラッフィーマッシュは動きが鈍い。
そう遠くへは行っていないはずだ。
──周りを見渡しながら、慎重に足を進めていくと、一層薄暗くて湿度の高い場所にたどり着いた。
木が所狭しと生い茂り、陽の光が殆ど差し込まない、ひんやりとじめついた空間。
なるほど、フラッフィーマッシュが好みそうな場所だ。
そんな空間の隅に、見慣れた金髪を見つけた。
「天狐……!」
小声で呼び掛け、足早に近付いて抱き上げる。
呼吸は正常、顔色も悪くないし、外傷も見当たらない。 ただ眠っているだけだ。
それに安堵して、フロガは天狐を抱えてこの場から立ち去ろうとした。
しかし。
「助けて……」
知らない声がした。
思わず振り返れば、そこには少女が一人とその横で意識を失っている母親らしき人物。
フロガはすぐにその二人に駆け寄った。
「大丈夫? 立てる?」
「うん……でも、お母さんが……」
母親を見やると、こちらも眠っているだけのようだった。
しかし、天狐とこの母親両方を担ぐのは中々難しい。
「……しょうがない。 天狐には悪いけど……」
フロガは懐から眠気覚ましの薬を取り出して、天狐の口に放り込んだ。
この薬はえづく程、苦くて酸っぱくて、この世の物とは思えない味がする、恐ろしい代物だ。
出来れば今の天狐にそんな酷い仕打ちをしたくなかったが、状況が状況である。
「う……っ……ぐ……っ!!??」
呻く天狐を確認して、フロガは母親を背中に抱えた。
それから少女の手を握り、目が覚めそうな天狐の足を持って引き摺りながら、この場から離れようとした。
が、そう簡単にはいかない。
フロガ達の前に、フラッフィーマッシュが飛び出してきた。
一匹だけではない、四人を取り囲むように、びっしりと並ぶフラッフィーマッシュは今にも胞子を噴射するかのように揺れている。
(まずい……)
プラチナランクとはいえ、流石のフロガでもこの状態から無傷で逃れるのは無理がある。
せめて、この少女と母親だけでもなんとかしなければ。
フロガは背負っていた母親をそっと寝かせ、羽織っていた外套を母親に被せてから、少女の口をタオルで覆わせて目を合わせた。
「いいかい、よく聞いて。 このまま真っ直ぐ走っていけば街道に出る。 冒険者がいるはずだから、助けを求めてお母さんを保護してもらうんだ」
「え……でも、おじさんは……?」
「俺は戦いながら、お母さんをそこの茂みに隠す。 あの魔獣は知能が低いから、この外套を被せておけば、お母さんを発見できないはずだ」
「でも……お姉さんも倒れているし……」
「大丈夫。 こいつは意外とタフだし、なんとかなるよ」
「うぅ……うん……」
不安げな表情を浮かべながら、それでもしっかりと首肯してくれた事に安心すると、フロガはフラッフィーマッシュに向かって剣を構えた。
「さあ、走って! 胞子を吸わないようにね」
少女が走り出す。 同時に、フラッフィーマッシュが一斉に痙攣し始めた。 胞子を出す合図である。
少女が走る先にいるフラッフィーマッシュを、フロガが薙ぎ払った。
鈍い感触が剣を通じて伝わってくる。
ブチブチと繊維を断ち切っていくと、スポンジのような胴体が真っ二つに破れた。
倒れる瞬間、その個体から胞子が噴射される。
慌てて後ずさったが、左右後ろを囲っていたフラッフィーマッシュ達が同じタイミングで胞子を一気に放出した。
赤や紫や黄色の細かい胞子が上からゆっくりと降ってくる。
これを浴びれば一溜りもないだろう。
意識があるのは、恐らく息を止めていられる三十秒から一分程度。
それだけあれば、この母親を茂みに隠す事は容易い。
そのあとの事は、直に目覚めるであろう天狐に任せる。
状況を察して動いてくれる事を祈るしかない。
(運が良ければ俺も助かるかもな)
頼んだぞ、天狐。
母親の横で苦悶の表情を浮かべている天狐に祈りながら、フロガは母親を胞子から守るために覆いかぶさった。
──その一瞬、フロガは背中の方で何かが燃える気配を感じた。
気配だけではない、熱さも感じる。
何か柔らかい物が背中を覆っている。 これは胞子でもフラッフィーマッシュでもない。
顔を上げると、見慣れた九本の尻尾がフロガを守るように覆われていた。
「……天狐?」
声に反応して、ふわりと尻尾が動く。
視界に入ったのは、焼け野原に変わり果てたフラッフィーマッシュの住処だった。
「何やってるんだ、フロガ」
生い茂っていた木々が焼き尽くされ、木洩れ日すら当たらなかったそこに、眩しい光が降り注ぐ。
その光を一身に浴びているのは他の誰でもない、天狐であった。
思わず込み上げてきた物を必死に呑み込んで、フロガが口を開く。
「……お前が勝手に離れたんだろ」
「あぁ? 私がこんな所に来るわけないだろ。 変なもん口に入れやがって……」
いつものように不機嫌そうに顔を顰めてフロガを見下ろす様は、見慣れた天狐の姿だ。
「記憶……戻ったんだな」
「……何のことだ? 兎に角、さっさとここから離れるぞ。 あ、回収できそうな奴がいたら回収しておけよ」
そう言って焼け焦げたフラッフィーマッシュを指差す。
立ち上る煙は、キノコが焼ける良い匂いがする。が、あまりに焦げ過ぎてとても食べられる状態ではなかった。
「全部丸焦げだよ」
咄嗟の事で手加減すらしなかったのだ。 焦げていないフラッフィーマッシュは一匹たりともいない。
天狐が小さく舌打ちする。
「くそ、ちゃんと捌けば美味いのに……」
「帰ったらうちにあるキノコで何か作るよ」
「仕方ないな……」
天狐が名残惜しそうに焦げたフラッフィーマッシュを蹴飛ばす。
それから二人は母親を抱えて足早に街道へと向かった。
* * * * * * * * *
その後、母親と少女は冒険者に連れられて、病院へ運ばれた。
外傷もなく、毒や麻痺も受けていなかったため、しばらく休んだらすっかり元気になって帰って行ったという。
フロガと天狐も自宅へ戻り、食事の準備を始めた。
今日の夕飯は、キノコがたっぷり入ったミートグラタンだ。
マッシュルームのポタージュ、水菜とキノコのサラダ、焼き立てのバケットも一緒に並べる。
デザートには今日採ってきたベリーで作ったテリーヌを用意した。
並べられた料理を見て、天狐が嬉しそうに尻尾を振っている。
「久し振りに食う気がする」
「一月分まるっと記憶が抜けてるもんな……」
どうやら、天狐は自分が記憶喪失になっていた期間を覚えていないようだった。
自分が何を喋って、何をしたか、全くわからないのだ。
「天狐がどういうふうになってたか知りたい?」
ちょっと悪戯っぽく笑ってみせると、天狐が顔を引き攣らせる。
嫌な予感がしたらしい。
「やめておく。 それより、さっさと食うぞ」
誤魔化すようにスプーンを手に取り、早速マッシュルームのポタージュを口に運ぶ。
それからサラダ、ミートグラタンと天狐は黙々と食べ進めていく。
特に大きなリアクションは無いが、ゆらゆらと揺れる尻尾とピンと立った耳は喜んでいる証拠だ。
──全部綺麗に食べ終わり、デザートを平らげた所で、天狐はさっさと食器を下げると満足気にソファへ寄り掛かった。
「美味しかった?」
食後の紅茶をローテーブルに置いて、天狐の隣に座る。
訊ねると、天狐はゆったりと尻尾を揺らした。
それからいつものように口の端を上げて笑う。
「ああ、美味かった」
そう言われた途端、フロガは急に目頭が熱くなるのを感じた。
視界がぼやけて、目の前にいる天狐の姿がよく見えない。
鼻の奥がツンと痛くなってきたので、フロガは思わず顔を伏せた。
「よか……った……」
喉の奥から絞り出した声は震えていた。
それから意図せずに涙がぼろぼろと目から溢れてきて、止まらない。
どうしてこんなに涙が出てくるのか、フロガはわけも分からずに、ただ困惑した。
そんなフロガに、天狐は小さく溜め息を漏らす。
「仕様のない男だな、お前は。 また無理をしていたのか」
呆れたような口調だが、その声色は優しい。
伸びてきた天狐の腕がフロガを抱き寄せて、やんわりと髪を撫でる。
久し振りに触れた天狐の温もりが妙に懐かしく感じて、余計に涙が込み上げてきたフロガは天狐を強く抱き締めた。
「……そうだな。 俺は多分、寂しかったんだと思う」
寂しくないつもりだったが、そう思わないようにしていただけだった。
天狐の記憶から自分が消えてしまった事が、酷く辛くて悲しかったのだ。
その気持ちを、フロガは今ようやく自覚した。
「ずっと、こうしたかった」
天狐の肩口に顔を埋めて呟くと、天狐も同じようにフロガの髪に頬を擦り寄せる。
それから小さな声で囁いた。
「私もこうされたかった」
天狐がこんな事を言うなんて珍しい。
フロガは思わず顔を上げると、天狐は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……かも、しれない」
「あはは……お前は相変わらず素直じゃないんだな」
いつもの照れ隠しに、フロガはつい笑ってしまった。
その反応に、天狐は眉間に皺を寄せて軽く睨んでみせる。
ああ、これが見たかったのだと、フロガが満足気に笑うと、天狐は更に面白くなさそうな顔をした。
「うるさい。 お前だって似たようなものだろ」
「俺が? お前よりマシだと思うけど」
「ふん、どうだか……」
いつものように軽口を叩き合って笑い合う。
この日常が戻ってきた事に、改めて喜びを感じながら、再び天狐を強く抱き締めた。
この日の夜、フロガは久し振りにベッドの真ん中で天狐を抱き締めて眠った。
それは実に幸せにせそうな表情を浮かべていて、見ている天狐が恥ずかしくなるほどだったという。




