クリームシチュー
警備隊東区派出所に、ジェロイドという男がいる。
彼の仕事は東区内の見回りや、派出所内での事務作業、道案内といったものだ。
住民の安全を守る、頼もしい警備隊の一人ではあるが、その体躯の威圧感で大抵の者は彼を避けて通る。
また、ジェロイドの犯罪者を警戒する猛獣のような瞳は恐ろしく、周りの者達は彼を「鬼の目ジェロイド」と呼んだ。
──そんなジェロイドの仕事が、今日も終わろうとしている。
引き継ぎ業務を終わらせ、更衣室で隊服から着替えていると後ろから声がした。
「ジェロイドさんお疲れ様です! これから飲みに行くんですけど、一緒にどうっすか?」
そう声を掛けてきたのは、先輩のアックスだった。
先輩なのに彼はジェロイドの事を「自分の先輩である」と勘違いしている。
理由は簡単である。ジェロイドが老け顔だからだ。
彼はよくこうしてジェロイドを誘ってくるのだが、ジェロイドは酒はあまり好きではない。
それに、大抵アックスが先に酔い潰れて送っていく羽目になるのだ。
「今日はすみません。 酒より飯を食いたい気分なんです」
「そっすか? じゃあまた今度行きましょう!」
アックスが去って行く後ろ姿を見ながら、ジェロイドはため息をつく。
それから無精髭を撫で、更衣室のロッカーを閉めた。
外に出ると、冬の風が強く吹きつける。
綺麗に刈り上げた角刈りが風に煽られ、首の後ろに冷たい風が当たって身震いした。
茶色いマフラーをきつく締めて、小さな綻びができた帽子を被り、ジェロイドは足早に歩く。
(帽子、そろそろ新しいのを買わなければいかんな)
薄く積もった雪をサクサクと踏み歩き、すれ違う人々を眺めながら向かっているのは、行き付けの食堂だ。
そこは以前、アックスに誘われて行った酒場を担っている食堂。
名前をヴァルムという。
その日、腹が減っていたのと、酒が苦手で進んでいないジェロイドに気付いたマスターが出してくれたクリームシチューとノンアルコールのホットワインは温かくて優しくて、身体に染み渡るようだった。
料理が美味かったのも良かったが、その心遣いが何より嬉しかったジェロイドは、それから食堂に足繁く通うようになったのだ。
南区のメイン通りを抜けて、裏路地に入ったところにある古びた煉瓦の小さな店。
店の前のメニューボードには、今日のおまかせディナーやワンプレートディナーの内容が書かれていた。
今日のディナーはクリームシチュー。 星祭り中なので、牛乳を使った料理が多いようだ。
(あのときのクリームシチューは美味かった)
思い出しただけで喉が鳴り、ジェロイドは木製の扉を押し開けた。
ドアベルの音を聞きながら店内に入ると、食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐる。
店内にはテーブル席に先客が二人。ジェロイドはカウンターの端に座った。
「いらっしゃいませ。 お疲れ様です、ジェロイドさん」
マスターのフロガが人当たりの良い笑顔を浮かべて出迎える。
ジェロイドは軽く会釈をして、年季の入った重いコートを脱いだ。
「いつものを頼む」
「かしこまりました」
後ろのテーブル席では、自分と同じような常連客が酒を飲んでいた。
そのうちの一人は、よく行く雑貨屋の主人だ。
豪快に酒を飲み干し、つまみの揚げ物を食べ、楽しそうに笑っている。
(平和だ)
仕事中は常に周りを警戒して歩かなければいけない。
少し肩の力を抜けと上司や同僚に言われるが、生真面目なジェロイドはそれができない。
だから、今この時間は彼にとっての癒やしなのだ。
「おまたせいたしました。前菜のミニトマトとチーズのサラダです」
平たい皿の上には鮮やかな緑。
その緑の中に佇むのは、半分に切られたミニトマトに挟まれた白いモッツァレラチーズだ。
そしてそのチーズには、愛らしい小さな瞳が描かれていた。
トマトとチーズを固定するように刺さったピックには可愛らしいリボンが結ばれている。
これが、ジェロイドにとっての癒やしである『いつもの』だ。
本日のディナーにちょっとだけおまけされた可愛らしい見た目。
この可愛らしい見た目こそ、一番の癒やしなのだ。
「ああ……」
ジェロイドは思わず感嘆の声を上げた。
──なんて、可愛いんだ。 食べるのが勿体無い。
彼は胸の中で呟き、「いただきます」と小さく言ってフォークを手に取った。
ジェロイドは、可愛いものが好きだ。
動物も、ぬいぐるみも、花も、小物も。
とにかく、可愛いものが好きなのだ。
子供の頃は沢山のぬいぐるみと花に囲まれて育ったが、年頃になったある日に、好きな女からこう言われた。
『あなたってそういう趣味なの? なんかガッカリ』
……それ以来、周りにぬいぐるみや花はなくなった。
他人の事など考えなくても良いのに、生真面目なジェロイドは周りの自分への印象を守ろうとしたのだ。
ガッカリさせないようにしなければいけない、と。
だからジェロイドは、この店に来ている時だけは心を解放する事にしている。
ジェロイドが可愛い物が好きだというのを知っているのは、ここのマスターであるフロガだけだ。
「おまたせしました。 クリームシチューです」
クリームシチューには、星型の可愛らしい人参が入っていた。
それを口に運んだ瞬間、広がる優しい甘みに頬が緩む。
「うまい……丁度食べたかったんだ、このクリームシチュー」
ジェロイドは思わずそう漏らす。
強面故にあまり話し掛けられないが、口を開けば饒舌に喋る。
ただ喋る機会がないのだ。
「ありがとうございます」
フロガが優しく微笑む。
こんなふうに、優しく穏やかだったら人生も変わっていただろうか。
ふと、そう思った自分に苦笑する。
こんなことを考えても仕方が無いのだ。
それに今は、この店で出される美味しい料理を食べているだけで幸せだ。
次はデザート……今日はなんだろう。
そう思うと、自然と口角が上がった。
「デザートです。 珈琲もお持ちしますね」
デザートはイチゴのテリーヌ。
てらてらと輝くテリーヌの脇には薔薇のように飾り切りされた苺が添えられていた。
それをゆっくりと丁寧に味わう。
甘酸っぱい苺が口の中をさっぱりとさせてくれるのが嬉しくて、ジェロイドは何度も無言で頷いた。
小さなテリーヌは三口程度で食べ終わってしまい、最後に温かい珈琲で一息つく。
それから煙草を取り出し、火をつけて紫煙を燻らせる。
買っておいた夕刊を取り出し、活字を追う途中で、ふと窓の外を眺めた。
狭い路地なので薄暗いが、遠くのメイン通りで輝く光が積もった雪に反射して見える。
星祭りの期間は黄金色のイルミネーションがそこかしこに散りばめられていて、周りを美しく照らしているのだ。
それは凝った造形のランプであったり、魔術で作られた光であったりする。
時折、このあたりにも魔術で施された丸くて小さな黄金色の光がふわふわと彷徨っていることもある。
「今年の星祭りもイルミネーションが綺麗ですね」
ぼんやりと外を眺めていると、フロガの穏やかな声がした。
「ああ。 だが、冬は陽が落ちるのが早いから、犯罪も多くなる。 寒いせいなのか、人の心につけ込んだ詐欺も増える。 困ったものだ」
「そうなんですか。 物騒ですね……」
「マスターも気を付けろよ 。何かあったら言ってくれ」
「ありがとうございます」
そんな話をしながら、ゆっくりと珈琲を飲む。 客が来なければもう一杯楽しみたいところだったが、今日はだんだんと周りの席が埋まってきた。
重いコートを羽織り、ジェロイドは席を立つ。
「ごちそうさま。 また来る」
「ありがとうございました! また、お待ちしておりますね」
忙しいながらもフロガは笑顔を絶やさず、丁寧にお辞儀をしてジェロイドを見送った。
外に出ると、広場には先程よりも人が増えていた。皆、イルミネーションを見に来ているのだろう。
その人混みに紛れながら、ジェロイドも美しいイルミネーションを眺めてゆっくりと帰路を歩いた。
翌日、ジェロイドはいつものように出勤して、いつものように派出所周辺のゴミ拾いを始めた。
祭りの期間中は、光に誘われてフラフラ歩く酔っぱらいがゴミを落としていくため、これが日課になっているのだ。
「おはようございます」
道行く人々に挨拶をすると、軽い悲鳴が聞こえることもある。
ジェロイドの鋭い瞳に驚いているからだ。
子供と目が合えば、泣き喚かれることもある。
だからジェロイドは、なるべく子供には声を掛けないようにしていた。
「ジェロイドさん、ご苦労さま」
そんな中で、自ら声を掛けてくれる者もいる。
派出所の隣にある、雑貨屋の娘だ。
ダークブラウンのセミロングヘアー、涼し気なモスグリーンの瞳、控えめなフリルがついたエプロンを朱色のロングワンピースに纏った彼女は、リスティアという。
「おはよう、リスティア。 何か困っていることはないか?」
「今日も平和だわ……あ、でも」
「どうした」
「一昨日の夜、お父さんが酔っ払って酒場に指輪を落としてきたらしいの」
「それは大変だな。 探しておこう」
「それがね、そのお店のお客さんがすぐに見つけて届けてくれたのよ! でも、見たことない人でね……冒険者かしら? って話してたの」
「ほう……もし、変なことをしてくるようだったら言ってくれ。 いつでも力になる」
「うふふ、ありがとう!」
リスティアは嬉しそうに笑うと、持っていた箒をぎゅっと握り締めた。
「それじゃあ、私はお店に戻るから。 ジェロイドさんも頑張ってね」
「ああ、頑張るよ」
手を振る彼女に軽く手を振り返してから、ジェロイドは作業に戻った。
今日も何の変哲もない一日。こういう日が続けば良いのだが、そうもいかない。
──それから一月も経ったある日、出勤して最初に手渡されたのは詐欺事件の引き継ぎ報告書だった。
「美男美女が親しくしてきて、高値で贋作の絵を売るんだそうです」
アックスと報告書を読みながら、打ち合わせをする。
「被害者は?」
「大体が恋人や家族のいない独り者。 それから芸術家気取りの金持ちってところっすね。 知識をひけらかして、贋作を本物だと思い込ませるんだとか。 酷いっすねぇ」
ジェロイドが深く頷く。
もう何人も騙されているらしく、報告書には被害者の名前がずらりと並んでいた。
被害額もかなりのものだ。
「聞き取り調査は他の隊がやってるそうだから、俺たちは見回りを強化しましょう。 声掛けもなるべく多めに行います」
「了解っす」
二人は立ち上がり、部屋を出ると早速街の巡回に向かった。
ジェロイドとアックス、二人で歩いているときは人に避けられる事も、悲鳴をあげられることもない。
何故ならアックスが人懐こい顔をしているからだ。
「こんちはぁ。 今日は寒いですねぇ」
ニコニコと笑いながら声をかけるアックスの先には、雑貨屋のリスティアがいた。
ジェロイドを見つけると、手を振ってきたので振り返す。
それからアックスとリスティアは笑い合いながら、何か話をしていた。
その光景は、警備隊として理想的な姿だ。
ジェロイドは、羨ましいと思った。
自分も人懐こい笑顔を浮かべられたら、どんなに良いだろう。
楽しく喋っている二人を眺めながら、ジェロイドは少しだけ寂しくなってしまった。
「ジェロイドさんも、風邪には気を付けてね」
アックスの影からリスティアが顔を出す。
この爽やかな笑顔を眺めていると、ジェロイドの心の中に温かい気持ちが溢れてくる。
強張っている口元にも自然と笑みが浮かんでいた。
「それじゃあ、お店に戻ります」
そう言ってリスティアが店に戻ると、二人はまた歩き出した。
「あの人、ジェロイドさんに惚れてますよね」
「……は?」
「絶対そうっすよ。 あんな可愛い笑顔、俺には見せたことありませんよ」
「何を言っているんですか。 そんなわけ無いでしょう」
「いーや、間違い無いっす。 俺には分かります! リスティアさん、あんなに可愛いのにまだ独り身だし、チャンスじゃないっすか!」
ニヤリと笑ってから、アックスはジェロイドを見た。
それに深く溜め息をつく。
「真面目に仕事してください」
「はい、すみません」
アックスは素直に返事をした。
その後も、ジェロイド達は街を見て回る。
特にこれといった事件もなく、見回りを終えた頃にはすっかり陽が落ちていた。
「お疲れさまでした。 明日もよろしくお願いします」
「お疲れっした! ジェロイドさん、そろそろ帽子買ったほうがいいっすよ」
「そうなんですが……中々時間がなくて」
「星祭り中は忙しいですもんねぇ。 じゃ、お先に失礼しまっす」
「はい」
ひらりと手を振って帰っていくアックスを見送って、ジェロイドも帰路についた。
途中、イルミネーションを眺めているカップルが目に入る。
楽しそうに寄り添うその姿に、ふと自分とリスティアの姿を重ねてしまった。
(ば、馬鹿な! 何を考えているんだ、俺は!)
アックスが余計な事を言ってきたので、意識してしまったのだろうか。
ぶんぶんと頭を振って、早足でその場を通り過ぎる。
それから雑貨屋に入り、夕刊と煙草を購入した。
店には珍しくリスティアの父親が立っている。
「やあジェロイドさん。 お疲れ様」
「こんばんは。今日は御主人が店番なんですね」
「ああ……リスティアのやつ、今夜はデートなんだよ」
浮かない顔をした店主が、小さく呟いた。
「あいつももういい歳だ。 結婚してほしいとは思ってるんだがね……」
「心配なんですね」
「え? いや、うーん、そうなんだが……あんた、リスティアの事をどう思う?」
「……? いつも頑張っている、良い人だと思います」
「そうかい……」
店主の浮かない顔は晴れない。
何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか、と思ったジェロイドは首を傾げた。
「……どうかしましたか」
「い、いや! 何でもないよ。 それじゃあ、お疲れさん!」
「お疲れさまです」
ジェロイドは頭を下げて、店を後にした。
「……デート、か」
ぼんやりと呟く。
何故だかわからないが、胸の奥が痛い気がする。
頭の中は靄のかかったような、針でちくちくと刺されるような、嫌な感覚だ。
こんなときは、ヴァルムで美味くて可愛い物でも食べよう。
そう思い立ったジェロイドは、足早に南区へ向かっていった。
「いらっしゃいませ。 ああ、ジェロイドさん! お疲れ様です」
フロガがいつものように柔らかい笑みで迎えてくれる。
今日は客が少ないのか、テーブル席に夫婦が一組いるだけだ。
「いつものを頼む」
「はい、かしこまりました」
今日のディナーはエビとほうれん草のホワイトソースが掛かったオムライス。
黄色と白は星祭りをイメージしているのだろう。
しかし、ジェロイドのオムライスは普通のオムライスとは少し違った。
「おお……これは……」
ジェロイドが歓喜の声を上げる。
ウサギの形をしたバターライスには、Uの字をした目が二つ。
その上にはまるで毛布のように卵が被されていた。
眠っている、白いウサギ。
食べることを躊躇するほどに、その姿は愛らしい。
「かわいい……が、食べなければ……!」
そっとスプーンで掬い、一口食べる。
バターライスの優しい味、ふんわりとした卵、クリーミーなホワイトソース。
心に染み渡るような、優しい味だ。
それらを味わいながら、ジェロイドはゆっくりとオムライスを完食した。
「マスター、今日は一段と素晴らしかった」
「ありがとうございます。 喜んでいただけて良かったです」
デザートのババロアと珈琲を出しながら、フロガが微笑む。
ジェロイドはその笑顔を見ながら、先程までのモヤモヤした気持ちが消えていることに気付いた。
きっと、フロガの作る料理を食べて元気が出てきたのだ。
ババロアを食べ終わると、いつものように夕刊を広げて珈琲を飲む。
テーブル席に座っていた夫婦も帰ってしまい、客はジェロイドだけだ。
「マスター、最近詐欺事件が横行しているらしいから気を付けてくれ」
「へえ……どういう詐欺なんですか?」
「恋人や家族がいない独り者を狙って親しくなり、贋作を高く売りつけるそうだ」
「それは酷いですね」
「マスターは既婚者だろうが……ターゲットは増えるものだ。 一応警戒したほうがいい」
「分かりました。 他のお客様にも伝えておきますね」
そんな話をしていると、ドアベルが鳴って客が入ってきた。
美しくウェーブした金髪に、透き通るような青い瞳、細身のスーツを着こなす綺麗な顔をした、見たことのない男だ。
手には布で包まれた、大きくて薄い、四角い荷物を持っている。
「いらっしゃいませ。 お好きな席へどうぞ」
「ああ、どうも」
そう言うと、男の後ろから女が着いてきた。
見覚えのある、ダークブラウンのセミロングヘア……。
その姿を見た瞬間、ジェロイドは息を呑んだ。
「あら、ジェロイドさん」
リスティアだ。
店に立っているときとは少しだけ雰囲気が違う彼女は、いつもより綺麗に見えた。
「知り合い?」
「ええ、うちの常連さんです。 ジェロイドさん、こちら、前に話した父の指輪を拾ってくれた方で……」
リスティアが紹介すると、男は軽く会釈をして笑顔を浮かべた。
「初めまして。 ライアリーと申します」
ジェロイドの憧れる、柔らかくて人懐こい笑顔だ。
歳は恐らくリスティアと同じくらいだろう。
こうして二人で並んでると、美男美女でお似合いのカップルのようにも見えてくる。
「ジェロイドだ、よろしく。 ここの料理は美味いからゆっくり味わってくれ」
「へえ、楽しみだな」
いつもならば、ジェロイドがこうして相手を見ると大抵怯むのだが、ライアリーは楽しそうに笑った。
それにほんの少しだけ違和感を覚えたのだが、仲良く微笑む二人に水を差す勇気もなく、ジェロイドはその違和感を気のせいだと思うことにした。
後ろのテーブル席に二人が座ると、ワンプレートのディナーを注文した。
それから他愛の無い話や笑い声が聞こえてくる。横目でライアリーの動向を伺っていたが、先程ようなの違和感はない。
むしろ、こうして仲良く喋る二人をチラチラと見ている自分こそ、おかしな人物のようにも思えてくる。
(やはり俺の気のせいか)
残っていた珈琲を飲み干し、料理を運び終わったフロガを呼び止める。
「すまないマスター。 珈琲のおかわりをくれ」
「かしこまりました」
今日は客が少ない。
もう一杯だけゆっくりと珈琲を飲んでから店を出ることにしよう。
フロガからカップを受け取り、再び夕刊を広げる。
穏やかな時間がゆったりと流れていた。
「ところで、リスティアさんは絵画に興味はある?」
そんな話が聞こえてきたのは、珈琲を半分程飲み進めたときであった。
食事を終えた二人が、急にそんな話を始めたのだ。
「絵画……? うーん、たまに美術館へ行ったりはするけれど……」
「なら、これの素晴らしさがわかるはずだよ」
どうにもきな臭い気がして、ジェロイドは夕刊から視線だけ動かした。
すると、目の前で食器を拭いていたフロガと目が合う。
ゆっくりと瞬きをするフロガを見て、ジェロイドは小さく頷いてみせる。
どうやら、おかしいと感じたのはジェロイドだけではないようだ。
「リスティアさん、イルカは好き? ほらこれ、とても綺麗でしょう。 有名な画家さんの作品なんだよ」
「わあ、とても綺麗な絵ね」
ライアリーが、四角い荷物を広げてみせる。
それは美しい海が描かれた絵画であった。
青の濃淡で繊細に表現された海と海洋生物は、まるで本物のように活き活きと描かれている。
その海洋生物たちの周りには、葡萄やら林檎やらのフルーツが散りばめられていて、なんともチンプンカンプンだ。
しかし、これが芸術というものなのだろう。
「他にもあるんだよ。 ほら、こっちも素敵だろ?」
「あら、ペンギン」
鞄から取り出した本をリスティアに渡す。
作品集のようにも見えたが、絵画の横にはしっかりと値段が書かれていることから作品集などではなく、商品のカタログなのだろう。
夕刊を読む振りをしながら、そのカタログを横目で見やると法外な値段が記されている。
リスティアもそれに気付いたのか、「うっ」と喉を鳴らした。
「綺麗だけど高わね……」
「とても有名な絵だからね。 でもここだけの話、リスティアさんには半額で売ってもいいと思ってる」
「えっ……なんで?」
「お友達だからね、当然だよ。 それに、リスティアさんに買ってほしいんだ。 好きな人と好きなものを共有できるって素敵だろ?」
「そうだけど……」
「きっとそうさ。 それに半額だから、たった五十万クルタだよ」
「ご、五十万クルタ!?」
「安いだろ? だって百万クルタが五十万クルタになるんだよ」
「いえ……あの……そういうのってよくわからかくて」
「これは好意で薦めているんだ。 いらなかったら売ればいい。 なんせ、元が百万クルタだからね、十分元が取れる」
これはいよいよ風向きがおかしくなってきた。
断ろうとするリスティアの言葉を遮り、買わせる方向へと強引に話を進めている。
このままではリスティアが興味もない怪しい絵画を買う羽目になってしまう。
ジェロイドは飲みかけの珈琲を置き、意を決して立ち上がった。
「失礼。 先程から話が聞こえてきたのだが……その絵画は本当にそれだけの価値があるのか?」
「ああ、勿論。 アデラールってご存じ無いですか?」
存じない。
何故ならジェロイドは絵画に興味がないからだ。
「カイナン出身の有名な画家ですよ。この絵画はアデラールが初期に描いた作品で、その素晴らしさから年々価値があがっているんです。 海の神秘性と生物の激しい情熱、フルーツから醸し出されるフレッシュな空気を感じるでしょう?」
「悪いが、俺は何も感じない」
「芸術がわからないんですね。 申し訳ないのだけれど、私はリスティアさんとお話しているんです。 口を挟まないでいただけますか?」
「だが、五十万クルタなんて法外な値段を突然要求するなんて、とてもじゃないが見過ごせん」
二人のやりとりを見つめるリスティアが困惑の表情を浮かべている。
ジェロイドの言う通り、五十万は高すぎるようにも感じるが、絵の価値などピンキリだ。
本当に好意で安く売ってくれるだけなのであれば、その好意を踏み躙ることになる。
しかし、リスティアにもジェロイドにも絵画の善し悪しは判断できない。
「ちゃんとサインもありますし、何よりこの色使いの素晴らしさがわからないんですか?」
「ああ、全くわからないな」
「あなた無教養なんですね。 話していても無駄だ。 リスティアさん、行きましょう?」
「あ、あの、私……」
リスティアが言いかけたとき、ライアリーはすかさず言葉を遮った。
「この絵には価値があるんです。 それに、きっと十年も経てば十倍の値段で取引されるようになりますよ!さあ、別の場所でお話しましょう」
「あんた、いい加減にしろ!」
「貴方だってさっきから何なんですか? 絵の価値もわからないくせに」
明らかに詐欺の手口だが、絵画の価値を証明する知識はない。 それに大事な物を届けてくれた恩人となれば、リスティアも強くは出られないだろう。
このままでは埒が明かない。
事を荒立てたくないが、アックスを呼ぶか。
ジェロイドがそう思ったとき、いつの間にかカウンターから出てきたフロガが、二人の間に立っていた。
「アデラールですか。 懐かしい名前ですね」
「おや……ご存知なんですか?」
「はい、両親が好きだったもので。 少し見ても良いですか?」
「ええ! 是非どうぞ」
フロガがにっこりと微笑む。
そして絵画を手に取り、じっと眺めた。
「彼の絵画はどれも素晴らしいです。 ですが、ヒト嫌いである彼の作品はあまり市場に出回らないと聞いたことがあります。 親しい者にしか絵を売らない、と。 だからその作品の値段は年々上がっていて、今では億を超える作品もあるとか……」
「そう! そうなんですよ! 彼の作品は特別なんです。 わかる人がいてくれて良かった!」
ライアリーが嬉々として食いつく。
リスティアはというと、フロガの言葉に目をパチパチとさせていた。
「じゃあ、五十万クルタって……」
「安いですよ」
「わかったでしょう、リスティアさん? あ、なんならマスターもいかがですか?」
「いえ、安すぎますね。 この作品、本物ならそれこそ一億を超えますよ」
「……え?」
ライアリーの顔が青ざめる。
どうやらライアリーも知らなかったようだ。
絵画の価値が分からないジェロイドも、流石にそこまでの値段になるとは思っていなかったので驚いた。
「ジェロイドさんの言う通り、この絵からは何も感じません。 色使いも雑だし、何よりこのサインは全くの別物だ」
「な、なんでそんな事がわかるんだよ! デタラメを言わないでくれ!」
「私は、これの本物をとある貴族の屋敷で見たことがあります……この絵はそこの主に贈られたものだから、ここにあるはず無いんですよ。 デタラメを言っているのは、あなたの方でしょ」
紫紺の瞳が冷ややかに細められたのを見て、ライアリーは後退った。
──来店したときは、まるで屈託のない穏やかで優しい笑みを浮かべていたから簡単に騙せると思っていたのに。
こんな廃れた店のマスターが絵画に詳しい等と微塵も思っていなかった。
じりじりと後退ってから、跳ねるように体を翻してドアへ一直線に走る。が、その細い腕をジェロイドが掴んだ。
「逃さん」
ジェロイドの殺気立った瞳が、ライアリーを見据える。 そのあまりの恐ろしさにライアリーは「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「い、痛い!! これは酷い暴力だ!! 警備隊に通報してやる!」
「黙れ。 俺は警備隊東部所属のジェロイドだ。 詰所まで同行してもらう」
その言葉を聞いて、ライアリーはがっくりと崩れ落ちた。
抵抗するだけ無駄だとわかったのだろう。
「マスター、助かったよ」
「いえ、ジェロイドさんが居てくれて良かったです」
フロガがいつものようにニコリと微笑む。
力無く項垂れるライアリーを連れて、ジェロイドはリスティアに軽く会釈をして扉へ向かった。
「ジェロイドさん、ありがとうございました。……私がもっとしっかりしていれば、こんな事に巻き込まれなかったのに、本当にごめんなさい」
リスティアが深く頭を下げると、ジェロイドは困ったように頭を掻いた。
ジェロイドとしては、いつも通りの仕事をしただけなのだ。
「変なものを買わなくて良かったな。 また、店に寄らせてもらう」
「はい! 是非」
顔を上げたリスティアが、ほっとしたような表情を浮かべる。
ジェロイドも不器用ながらに優しく微笑んでみせてから、ヴァルムをあとにした。
「ねえマスター、ジェロイドさんの好きなものって何かしら?」
「えっ……えーと……なんでしょうね」
ジェロイドの好きなものは可愛いものだ。
しかしそれはジェロイドの重大な秘密。とてもフロガの口からは言えなかった。
──後日。
ジェロイドはいつものように東区内の見回りを行っていた。
通行人に「こんにちは」と声をかければ、いつものように「ひえっ」と悲鳴が返ってくる。
しかしそれでも最近は「こんにちは」と控え目に言い足してくれる人も増えた。
新聞に詐欺グループを捕まえたジェロイドの記事が載ったからだ。
「ジェロイドさん、こんにちは」
うしろから聞こえた可愛らしい女性の声に振り返ると、そこにはリスティアが立っていた。
手には紙袋を持っている。
「やあリスティア。 何か困ったことはないか?」
「……そうね、ひとつ困っている事があるの」
少しだけ表情を曇らせて、リスティアが小首を傾げる。
一体何だろうか。
もしや、先日ライアリーに騙されそうになった件についてか?
ジェロイドは少し緊張しながら次の言葉を待っていると、リスティアが持っていた紙袋を差し出した。
「好きな人がこのプレゼントを気に入ってくれるかどうか心配で。 ねえジェロイドさん、開けてみてくれる?」
「お、俺が? どうして……」
「もう、二回も言わせないで」
頬を膨らませてから、リスティアが少し恥ずかしげに目を逸らす。
ジェロイドは慌てて紙袋を受け取って、中身を覗いた。
中には、黄色いハンカチとダークブラウンの帽子、それから白いクッキーが入っていた。
「これは……」
「ジェロイドさんへ、私からのプレゼントです。 その……ハンカチ、広げてみてほしいの」
黄色い布物と乳製品の菓子は親しい間柄で贈り合うものだ。
聞き間違いでなければ、リスティアは「好きな人へのプレゼント」と言っていた。
それを渡されたということは、つまり、その言葉をそのまま受け取って良いということなのだろうか。
茫然としながら、ジェロイドは言われるまま、ハンカチを取り出した。
黄色いハンカチには可愛らしいクマの刺繍。
クマの周りには小さな花柄が散りばめられていた。
この可愛らしいデザインは偶然だろうか。
「あの……気に入ってくれたかしら。 クマよりウサギの方が良かった?」
「な、何を言っているんだ」
「え? ジェロイドさん、可愛いものが好きだと思ったんだけど……違ったかしら?」
「どうして……」
「ヴァルムには父もよく行くのよ」
あっ、と声を上げてしまった。
思えば、後ろのテーブル席で雑貨屋の主人が常連客たちと楽しげに喋っているのを何度も見ている。
こちらが何度も見ているということは、あちらも同じこと……。
酒が入っているとはいえ、ジェロイドが黙々と食べている姿をしっかりと覚えていたのだろう。
なんだか急に恥ずかしくなって、ジェロイドは俯いてしまった。
「どうしたの? やっぱり、嫌だった……?」
「そうではない……俺は確かに可愛いものが好きだ。 だが……その……ガッカリしたんじゃないのか」
そう言うと、リスティアは「あら」と呟いて、それから優しく笑った。
「そんなことないわ。 とても可愛いわよ、ジェロイドさん」
「か、かわいい!?」
「ええ。 それに、すごく親しみやすいと思うわ」
まさかそんな事を言われるとは思ってもいなかったのだろう。ジェロイドは顔を真っ赤にして、口をパクパクさせていた。
その姿が余程面白かったらしく、リスティアはクスリと笑う。
「ふふ……ジェロイドさん、改めてそのプレゼント、受け取ってくださる?」
「……ああ」
ジェロイドは耳まで赤く染めて、こくりと小さく首肯する。
「ありがとう」
嬉しそうに微笑むリスティアに、ジェロイドは照れくさそうな笑顔を返した。
それから、ハンカチを綺麗に畳んで隊服のポケットへ入れる。
「リスティア、良かったら仕事のあとにヴァルムへ行かないか?」
「まあ、嬉しいわ!」
「終わったら迎えに来る。 少しだけ遅くなるかもしれないが、大丈夫か?」
「ええ、待ってます」
はにかむように笑うリスティアに手を振り、ジェロイドは再び見回りへ戻った。
仕事が終わると、ジェロイドは急いで仕立屋へ入った。
様々な衣服が並ぶ隅には星祭り用に用意された黄色い布物のスペースがある。
見回りでよく立ち寄るので、ジェロイドはそれを覚えていたのだ。
「おやジェロイドさん。 贈り物ですか?」
仕立屋の主人が少し驚いた顔をしたが、すぐに営業用の凛々しい笑顔を浮かべた。
白い歯がキラリと輝いているのがやけに眩しく感じる。
「ハンカチが、欲しいのだが」
「女性はやはりハンカチですよねぇ。 このレースをあしらった物なんかは特に人気ですよ」
「では、それを」
「かしこまりました。 相手のお名前は?」
「り……リスティア、と」
「はい。 では、少々お待ち下さい」
そう言って主人は中へ引っ込んで行った。
5分もしないうちに戻ってくると、綺麗に包装されたハンカチとメッセージカードの内容をジェロイドへ確認する。
「お名前に間違いはございませんか?」
メッセージカードには「愛しいリスティアへ」と書かれている。
思わず息を詰まらせたが、ジェロイドは無言で頷いた。
「ありがとうございました。 またどうぞ」
深々と頭を下げる主人へ会釈して、ジェロイドはリスティアが待つ雑貨屋へ走る。
──ヴァルムへ行ったら、とびきり可愛い料理を注文しよう。もちろん、牛乳を使った料理だ。
そして、リスティアにプレゼントを渡して、想いを伝えるのだ。
胸から溢れる喜びを噛み締めながら、ジェロイドは雑貨屋の扉を開けた。
*****
営業が終了した深夜。
フロガは戸締まりを終えて、二階の住居スペースへ続く階段を登った。
「ジェロイドさん、楽しそうで良かったなぁ」
今まで隠れるようにして料理を食べていたジェロイドが、今日はリスティアと二人で楽しげに食事をしていた。
しかも、とびきり可愛い料理を。
きっと、二人は近いうちに結婚する事になるだろう。 フロガはそんな気がしていた。
寝室へ向かうとベッドの中から天狐の尻尾が見える。 今日は狐の姿で眠っているようだ。
起こさないように静かにベッドへ入るが、フロガの気配に気付いた天狐がうっすらと目を開く。
「……フロガ、それ出しっぱなしになってたぞ」
眠そうにしながら、鼻先でサイドテーブルを指す。
そこには、美しい海と青空が描かれた、10インチ程の古くて小さな絵が置かれていた。
「ああ、ごめん。 なんか懐かしくなっちゃってさ」
「それは何だ」
「俺の家庭教師だったアデラールさんの絵だよ」
「家庭教師はリンジャーじゃなかったのか」
「リンジャーさんはマナーの先生。 アデラールさんは絵の先生で、俺が海を見たことないって言ったらこれを描いてくれて……気難しいけど良い人だったなぁ」
幼い頃は家庭教師が何人かいて、そのうちの一人がまだ駆け出しの画家であったアデラールだった。
あの詐欺師が持っていた絵の本物は、エリュプティオ家の領地であるメロウラージュの本邸に飾られている。
フロガはそれを毎日見ていたので、あの詐欺師が持っていた物が贋作だとすぐにわかったのだ。
そんな昔の記憶を辿りながら、古い絵を手にとって、ぼんやりと眺める。
懐かしむように細められたフロガの瞳を見上げてから、天狐は軽く尻尾を揺らしてフロガの腕の隙間に潜り込んだ。
「ホームシックにでもなったか」
「あはは、まさか。 なるわけないだろ」
「だろうな」
古い絵をサイドテーブルに戻す。
ランプの灯りを消して、潜り込んできた天狐を尻尾ごと抱き締めた。
「ただちょっと、思い出しただけ」
「そうか」
それだけ言うと、天狐は目を閉じる。
やがて小さな寝息が聞こえてきたので、フロガもゆっくりと眠りについた。




